甲状腺は体の新陳代謝を調整するホルモンを分泌する臓器で、のどの気管の前に蝶が羽を広げた形ではりついている。甲状腺がんは組織のタイプで5種類に分けられ、90%は「乳頭がん」、5%が「濾胞(ろほう)がん」、「髄様(ずいよう)がん」「未分化がん」「悪性リンパ腫」が1~2%ずつだ。

 大多数を占める乳頭がんの9割は「低危険度群」で、10年生存率は9割を超え、1センチ以下の「微小がん」の中にはほとんど大きくならないものまである。大きさが1センチ以下の微小がんでは、手術せず経過観察するケースもある。基準は「転移や浸潤がない」「声帯を動かす神経や気管から離れている」こと。少なくとも半年に一度はがんの状態を確認し、3ミリ以上大きくなるなど変化があれば手術に切り替えることが大切だ。一方で、残り1割の「高危険度群」は再発や転移に苦しむ。

 東京都在住の主婦・山下淑子さん(仮名・67歳)は、2013年秋に、胸の苦しさと背中の痛みを感じて近くの総合病院を受診した。胸に水がたまっていることがわかり、検査すると甲状腺がん(乳頭がん)の転移による「がん性胸膜炎(きょうまくえん)」と診断された。

「首に違和感はなく、甲状腺がんだなんて気づきませんでした。まして胸の中に転移しているなんて……」と山下さんは青ざめた。

 甲状腺がんの死亡原因は、がんが気管に入り込んで圧迫し気道をふさぐケースや、肺転移やがん性胸膜炎で呼吸不全となるケースが多い。「末期」ともいえる状態でがんが見つかった山下さんは、胸に薬剤を注入する治療を受けたが「効果は一時的」と言われ、わらにもすがる思いで東京医科大学病院甲状腺外科教授の筒井英光(つついひでみつ)医師のもとを訪れた。

「最初に山下さんの状態をうかがったときには、打つ手はほとんどないと感じました。ただ、病状のわりに元気があり、生きる意欲の強い方だったので、『長い道のりも耐えられるかもしれない』と感じ、まず手術、次に放射性ヨード内用療法、そして新しい治療薬の可能性について説明したのです」

 一般的に、甲状腺がんには抗がん剤と放射線(外部照射)は効きにくい。治療は手術が最優先で、再発・転移後もできるだけ手術する。切除できない場合には「放射性ヨード内用療法」が効果的だ。これはヨードが甲状腺に集まる性質を利用した、甲状腺がん特有の放射線治療だ。放射線を発するヨードのカプセルを飲んで、転移したがん組織に取り込ませて内部照射する。ただし甲状腺本体が残っていると、ヨードが甲状腺に集まってしまい、転移したがん組織に取り込まれにくくなるので、甲状腺を全摘することが前提になる。

 筒井医師の治療計画は、まず甲状腺を全摘し、次に放射性ヨードで胸膜に転移したがんをたたく。それでもがんが進行するなら、新しい治療薬の「分子標的薬」を使う、という3段階だ。

 分子標的薬とは、がん細胞の増殖に関与する特定の分子を標的にして狙い撃ち、増殖や転移を抑える薬だ。ほかの臓器のがんには使われ始めていたが、山下さんが受診した13年の段階では、甲状腺がんに承認されている分子標的薬はなかった。しかし、肝細胞がんなどに使われていた分子標的薬「ソラフェニブ」の甲状腺がんへの適応の追加が、厚生労働省に申請中だった。筒井医師は、14年度中に承認されると見込んでいた。

 山下さんは甲状腺を全摘して放射性ヨード治療を受けたものの、14年8月には胸膜のがんがさらに大きくなり、筒井医師は同年6月に厚労省の承認を受けた分子標的薬ソラフェニブ(商品名ネクサバール)を投与した。1カ月後、胸の影が驚くほど薄くなり、痛みもとれていた。

「劇的な症状改善に山下さんもご主人も涙を流して喜んでいらっしゃいました。『高危険度群』の患者さんに、大きな選択肢が増えたと実感しました」(筒井医師)

週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋