昭和天皇、キリスト教に関心の理由 (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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昭和天皇、キリスト教に関心の理由

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週刊朝日#皇室

 歴史学者や作家が「昭和天皇実録」を読み解くなかで、新たな昭和史の断面、昭和天皇の素顔が浮かび上がってきた。政治学者の原武史・明治学院大学教授(52)は母、貞明皇后との微妙な親子関係に注目し、そこからつながる昭和天皇のカトリックへの傾倒とその狙いを分析した。

*  *  *
「昭和天皇実録」で私が注目したのは御告文(おつげぶみ)です。これは天皇が神に自分の思いを告げるための文。神社の祭神に伝える御祭文(ごさいもん)というのもある。終戦の詔書(しょうしょ)など、国民に対して出す詔書は公表されてきたが、御告文や御祭文はほとんど明らかではなかった。それが今回、いくつか公表されたことに驚きました。

 たとえば太平洋戦争開戦直後、1941(昭和16)年12月9日の祭祀(さいし)の際の御告文。「海に陸に空に射向ふ敵等を速に伐平らげ皇御国(すめらみくに)の大御稜威(おほみいつ)を四表八方に伊照り徹らしめ給ひて」とある。

 これが1894(明治27)年に日清戦争を開戦した際の明治天皇の御告文とそっくりなんですよ。「明治天皇紀」によると、日清戦争の時は「海路陸路に射向ふ冦等を速に伐平らげ食国の大御稜威を天下に照輝かし」と言っている。明らかに昭和天皇は、日清戦争の御告文を下敷きにしている。

 もっとびっくりしたのは日本が降伏する直前の1945(昭和20)年7月30日から8月2日にかけて、宇佐神宮(大分県)と香椎宮(福岡県)、氷川神社(埼玉県)に勅使を送ったことです。宇佐と香椎へ使いを送る「勅使参向」は10年に1回の恒例行事。氷川神社は例祭。そこで「敵国撃破」を祈らせた御祭文が実録に記されている。

 氷川神社の例祭は8月1日なので、これに合わせて勅使を送ったという見方もできるでしょう。しかし、宇佐神宮と香椎宮は本来10月に勅使を送るべきところ、7月30日と8月2日に送っている。ここには意図的なものが感じられます。

 香椎宮の主祭神は神功皇后で、宇佐神宮は応神天皇。神功皇后は、応神天皇を身ごもりながら三韓征伐に行ったという逸話が「日本書紀」などに書かれている伝説の皇后です。

 10日あまり後に日本は降伏する。天皇は戦争終結の気持ちをほぼ固めていたであろうこの時期に、なぜ強い調子で敵国撃破を祈らせたか。しかも、なぜ伊勢神宮ではなく、香椎宮と宇佐神宮だったのか。

 これは天皇本人の意思というよりも、母・貞明皇后の意向を反映していたのではないか、というのが私の説です。

 貞明皇后は神功皇后に対する思い入れが強く、22(大正11)年には自ら香椎宮を参拝して、神功皇后の霊との一体化を願う和歌まで詠んでいます。神功皇后の三韓征伐を史実と信じた貞明皇后は、45年になっても戦勝を祈り続けていました。昭和天皇が香椎宮と宇佐神宮に勅使を送ったのは、母親向けのポーズだったのではないか。

 祭祀や儀式に厳格だった母親との関係を想像させる話をもう一つ。父親の大正天皇が病気のため、皇太子だった昭和天皇はヨーロッパから帰国して間もない21年11月に20歳で摂政になります。

 摂政になると、天皇の代わりに祭祀もやらなければならない。天皇にとって最大の祭祀、毎年11月の新嘗祭(にいなめさい)も摂政の務めになる。


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