歴史学者や作家が「昭和天皇実録」を読み解くなかで、新たな昭和史の断面、昭和天皇の素顔が浮かび上がってきた。政治学者の原武史・明治学院大学教授(52)は母、貞明皇后との微妙な親子関係に注目し、そこからつながる昭和天皇のカトリックへの傾倒とその狙いを分析した。
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「昭和天皇実録」で私が注目したのは御告文(おつげぶみ)です。これは天皇が神に自分の思いを告げるための文。神社の祭神に伝える御祭文(ごさいもん)というのもある。終戦の詔書(しょうしょ)など、国民に対して出す詔書は公表されてきたが、御告文や御祭文はほとんど明らかではなかった。それが今回、いくつか公表されたことに驚きました。
たとえば太平洋戦争開戦直後、1941(昭和16)年12月9日の祭祀(さいし)の際の御告文。「海に陸に空に射向ふ敵等を速に伐平らげ皇御国(すめらみくに)の大御稜威(おほみいつ)を四表八方に伊照り徹らしめ給ひて」とある。
これが1894(明治27)年に日清戦争を開戦した際の明治天皇の御告文とそっくりなんですよ。「明治天皇紀」によると、日清戦争の時は「海路陸路に射向ふ冦等を速に伐平らげ食国の大御稜威を天下に照輝かし」と言っている。明らかに昭和天皇は、日清戦争の御告文を下敷きにしている。
もっとびっくりしたのは日本が降伏する直前の1945(昭和20)年7月30日から8月2日にかけて、宇佐神宮(大分県)と香椎宮(福岡県)、氷川神社(埼玉県)に勅使を送ったことです。宇佐と香椎へ使いを送る「勅使参向」は10年に1回の恒例行事。氷川神社は例祭。そこで「敵国撃破」を祈らせた御祭文が実録に記されている。
氷川神社の例祭は8月1日なので、これに合わせて勅使を送ったという見方もできるでしょう。しかし、宇佐神宮と香椎宮は本来10月に勅使を送るべきところ、7月30日と8月2日に送っている。ここには意図的なものが感じられます。
香椎宮の主祭神は神功皇后で、宇佐神宮は応神天皇。神功皇后は、応神天皇を身ごもりながら三韓征伐に行ったという逸話が「日本書紀」などに書かれている伝説の皇后です。
10日あまり後に日本は降伏する。天皇は戦争終結の気持ちをほぼ固めていたであろうこの時期に、なぜ強い調子で敵国撃破を祈らせたか。しかも、なぜ伊勢神宮ではなく、香椎宮と宇佐神宮だったのか。
これは天皇本人の意思というよりも、母・貞明皇后の意向を反映していたのではないか、というのが私の説です。
貞明皇后は神功皇后に対する思い入れが強く、22(大正11)年には自ら香椎宮を参拝して、神功皇后の霊との一体化を願う和歌まで詠んでいます。神功皇后の三韓征伐を史実と信じた貞明皇后は、45年になっても戦勝を祈り続けていました。昭和天皇が香椎宮と宇佐神宮に勅使を送ったのは、母親向けのポーズだったのではないか。
祭祀や儀式に厳格だった母親との関係を想像させる話をもう一つ。父親の大正天皇が病気のため、皇太子だった昭和天皇はヨーロッパから帰国して間もない21年11月に20歳で摂政になります。
摂政になると、天皇の代わりに祭祀もやらなければならない。天皇にとって最大の祭祀、毎年11月の新嘗祭(にいなめさい)も摂政の務めになる。
謹慎すべき日に遊んでいたことが貞明皇后にも伝わり、宮中に激震が走ったんじゃないかと私は推測しています。というのは翌23(大正12)年の実録を読むと、皇太子は半年前の5月に、もう新嘗祭の習礼、つまり練習を始めているからです。この年は新嘗祭をしっかりやらねばならない状況になっていた。
摂政になる直前の21年、皇太子は半年かけて欧州各国を訪問しました。この訪欧で私が興味をひかれたのは、最後にイタリアに行きローマ法王ベネディクト15世に会ったことです。
法王はカトリック教会の逸話を紹介し、日本が教会と提携するよう皇太子に勧めた。朝鮮独立をめざす3.1運動が19(大正8)年に起きた際、カトリック教徒が動かなかったことに触れ、「カトリックは確立した国体・政体の変更を許さない。世界の平和維持・秩序保持のため過激思想に対し奮闘しつつある最大の有力団体」と述べた。たとえ日本がカトリック国になっても、天皇制は微動だにしないですよ、と説いたわけです。
訪欧最後のこの体験が、若き昭和天皇に強い印象を与えたのではないでしょうか。というのは、対米開戦直前の41年11月2日、天皇はローマ法王を通じた時局収拾の検討を東条英機首相に提案しています。開戦直前から、バチカンを通じての戦争終結の手段を考えろと言っていたわけです。
敗戦後の占領期、天皇はキリスト教、とくにカトリックに接近しました。キリスト教徒に頻繁に会い、たとえば牧師の植村環(たまき)からは香淳皇后とともに聖書の進講を受けています。植村が訪米する前後にも会い、トルーマン米大統領への伝言を伝えている。
実は皇后は戦前からキリスト教徒と親しかった。開戦後の42(昭和17)年から44(同19)年にかけて、皇后はキリスト教徒の野口幽香(ゆか)を宮中に招き入れて定期的に聖書の講義を受けています。天皇はこれを黙認していました。
天皇は外国人とも会っています。聖心愛子会というカトリック団体の聖園(みその)テレジアというドイツ生まれの修道女。慈生会のフロジャックというフランス人神父。48(昭和23)年1月23日の実録によると、天皇はフロジャックが日本のカトリックの現状を報告するためローマ法王庁を訪れる前後に会っている。6月9日にはローマ法王庁から来日したスペルマン枢機卿らの一行とも会いました。
側近に地方のキリスト教事情も調べさせている。46年9月7日の実録によると、元侍従次長の木下道雄が7月28日から8月17日まで、九州でカトリックの状況を視察して天皇に報告しています。
49(昭和24)年5~6月に九州を訪れたときには、各地で熱狂的な歓迎を受けるものの、天皇は長崎県大村市や大分県別府市のカトリック施設を訪れたとき、予定よりも30分長くとどまったり、予定にない聖堂の視察をしたりしたことが、実録から確認できます。
48年8月24日にウオーターズというオーストラリアの新聞主筆と会った際は、キリスト教に帰依するか質問され、「外来宗教については敬意を払っているが、自分は自分自身の宗教を体していった方が良いと思う」と答えている。当時は天皇がキリスト教に改宗するといううわさが広まっていたので、打ち消したわけです。
天皇がカトリックに接近した理由は、やはり21年の訪欧の経験が効いていると思います。敵国撃破を祈ってしまった神道に対する反省があったことや、共産党が合法化されて左翼活動が盛んになり、革命の恐怖があったことも挙げられるでしょう。しかし最大の理由は、GHQ(連合国軍総司令部)やマッカーサーに従い、皇太子の英語教師としてクエーカー教徒のヴァイニング夫人を呼ぶなど米国経由のキリスト教を取り入れる一方で、米国に対抗できる別のチャンネルも確保しておきたいという思惑があったからではないでしょうか。
天皇は、退位すべきかどうか悩んでいたはずです。内大臣だった木戸幸一による「木戸幸一日記」には、45年8月29日に「戦争責任者を聯合(れんごう)国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか」ともらす天皇の姿が描かれています。
一方、実録では、同じ場面が「御下問になる」と表現されており、ニュアンスが異なっています。実録の68(昭和43)年4月24日には、天皇が占領期を回想して稲田周一侍従長に「退位の意思はなかった」と言ったと記され、実録全体が天皇は一度も退位の意思を示さなかったという前提で編集されているのです。
昭和天皇は、日本統治のため天皇の存在は有用だと考えたマッカーサーにより、退位の道を封じられた。では、それ以外のどんな方法で戦争責任を取れるのか。昭和天皇が占領期にカトリックに接近したのは、退位しない代わりにカトリックに改宗する道を探り、戦争責任と米国からの相対的自立という二つの課題にこたえようとしたからではないでしょうか。
しかし、東京裁判の判決を受け入れる代わりに日本の独立回復を認めた51(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約と日米安保条約により、改宗の可能性もまた封じられてしまった。そう私は考えています。
※ 週刊朝日 2014年10月3日号