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「ベストセラー解読」に関する記事一覧

起業家
起業家 『起業家』はサイバーエージェントの社長のエッセイである。サイバーエージェントというのはIT関連企業で、ひところは楽天やライブドアなどといっしょに話題になることが多かった。社長の藤田晋は26歳のときに東証マザーズに上場して、史上最年少だと騒がれた。六本木ヒルズに住んで、ヒルズ族なんて呼ばれていたこともあった。  だが、同じヒルズ族でも堀江貴文や三木谷浩史がしばしば悪役っぽいイメージで語られるのに対して、藤田晋はそうでもない。派手なことを言ったりやったりしないからか。一時、きれいな女優と結婚していたけれども。  本書を読んで、藤田晋が世間からあまり嫌われない理由がわかった。ギラギラしていないのである。物欲も性欲も、金銭欲さえなさそう。なんで会社やってんだか。  この本には、藤田が会社を作ってから現在に至るまでの栄光と挫折と復活が書かれている。ぼくが連想したのは「日経新聞」の連載「私の履歴書」(財界人はじめ有名人の回顧録)だ。  たとえば藤田は、ブログこそが会社の基幹事業になるはずだと信じて社員に号令をかけるのだが、幹部社員も株主たちもそっぽを向く。2年で黒字化できなきゃ社長を辞めるとまで藤田はいうのに、誰も引き留めない(ダチョウ倶楽部か)。ブログを見る人を増やすために悪戦苦闘する姿は、一般製造業の新商品開発と似ている。なんだか昔あったドキュメンタリー番組、「プロジェクトX~挑戦者たち~」みたい。  その藤田の自信作、アメーバブログ、通称アメブロを覗いてみた。芸能人のブログがたくさんあって、なるほど女性週刊誌が売れなくなるはずだ。もっとも、テレビから遠く離れて10年のぼくは、ランキング上位に名前を知っている芸能人がひとりしかいない(市川海老蔵、第6位)。しかし、よく見ると政治家のブログも多いではないか。ネット選挙解禁でこの会社が儲かるのは間違いない!
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 タイトルの他には一切の情報を提供しないという販売戦略は功を奏し、当初30万を予定した発行部数は、4月12日の発売当日、4刷50万部となっていた。都心のいくつかの書店では、カウントダウンまでして同日の午前零時を迎え、行列をつくって待っていたファンに販売。それらの様子は早々に朝のテレビ番組で紹介され、発売日にさらに10万部の増刷が決定した。  これはもう村上春樹祭だ。  ここ数年、秋が深まるたびにノーベル文学賞の有力候補として名前があがる日本人作家、村上春樹。世界数十カ国で翻訳され、海外の文学賞を多数受賞し、前作『1Q84』シリーズは700万部を売り上げ、固定読者が数十万人はいると言われる、村上春樹。厳しい業績がつづく出版業界がその人気にあやかろうとするのは必然で、スマホや人気ゲームの販売方法を踏襲して祭となった。  もちろん、祭の本番はこれからだ。小説を読んだハルキストたちは我先に作中にある謎を取りあげ、ブログやSNS上で自身の読解を披瀝しはじめる。今回であれば、「色彩を持たない」とタイトルにあるにもかかわらず、多崎つくるは「何色」かと解析をはじめる強者がきっと現れる。また、途中で行方がわからなくなる灰田のその後や、過去の作品群との関連について詳細に分析してみせる者も登場するだろう。作中で重要な役割を担う楽曲のCDも、そろそろ売れだすに違いない。  私は1979年に『風の歌を聴け』を手にとって以来、リアルタイムで全作を読んできたのだが、この小説の読後にまず浮かんだのは、タイトルどおりの内容という感想だった。読んでいる間は、デビュー作を含むいくつかの村上作品を思いだした。そんな既視感とともに当時の暮らしぶりもよみがえり、再生のために「訪ねて尋ねる」というアプローチで過去と対峙する主人公とは違う方法で、はからずも自分の過去と向きあった。  100万部突破は発売7日目だった。
昨日までの世界 文明の源流と人類の未来
昨日までの世界 文明の源流と人類の未来 人類にとって文明とは何か。こんな大風呂敷を広げたようなノンフィクションって久しぶりだ。『昨日までの世界』は、『銃・病原菌・鉄』や『文明崩壊』のジャレド・ダイアモンドの新著。  「昨日」というのは、人間が国家や文字を持つ前の時代のこと。人類が進化してチンパンジーの祖先と別の道を歩むようになったのが600万年前。狩猟採集の生活をやめて定住する農耕社会になったのが11000年前だそうで、時間の長さでいうと「昨日」のほうが圧倒的に長い。ニューギニアの高地などに住む人びとの生活を参考に、ダイアモンドはあれこれ考察を重ねていく。  「昨日」の世界を「伝統的社会」、西洋化された世界を「国家社会」とダイアモンドは呼ぶ。そして、領土や戦争、子育て、高齢者の処遇、危険に対する警戒心、病気など、実にさまざまな観点から両者を比較検討していく。  こういう話は、ときとして「昔はよかった。人類は進歩と引き換えに何を失ったのだろう」などと現代文明批判(と原始礼賛)に終わりがちなのだが、本書はそう単純ではない。  たとえば高齢者の処遇。フィジー諸島で会った男は著者に、アメリカ社会は高齢者に冷たいと非難がましく言う。日本でも、昔は年寄りをもっと大事にしたのに、という声をよく聞く。しかし、伝統的社会がどこも高齢者に優しいとは限らない。高齢者が強大な権限を持つ社会もあるけれども、その一方で、高齢者が餓死したり遺棄されたり殺されたりする社会もあるのだ。そして、餓死させたり遺棄したり殺したりするのにも、それなりの理由というものがある。  国家のない社会が理想的かというと、個人的な喧嘩やグループ間の争いによる死者の多さを考えると、決してそうとはいえなさそう(まるでリバイアサン?)。  ベストは「昨日」と「今日」のいいとこ取り。著者もそう述べるのだけど、でも、できるかな。
医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法
医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法 医者は殺人者といわんばかりのどぎついタイトル。読者を引き寄せるためとはいえ少々やりすぎでは、と眉をひそめて著者名を見れば近藤誠……俄然、興味がましてくる。  医者として40年のキャリアをもつ近藤は、慶應義塾大学医学部放射線科の講師でありながら、「がんは切らずに放置したほうがいい」とか「抗がん剤は効かない」といった文章を発表しつづけてきた。多くの同業者を敵にまわした論争も何度となく起きたが、具体的なデータをもって反論する近藤の主張は、じわじわと患者たちの信頼を集めていった。たとえば、近藤の話を聞いた乳がん患者が選択することで広まった「乳房温存療法」は、その代表的な成果だ。  自分が身を置く業界内から嫌われ煙たがられても、あくまでも患者の立場で発言してきた近藤であれば、「医者に殺されない」といった過激なアプローチも説得力をもつのだろう。そもそも日本人は、年間で先進国平均の2倍以上も病院へ行く〈世界一の医者好き国民〉なのだから、このタイトルは誰しも他人事でない。しかも、超高齢社会の影響もあって医療費が増加の一途とくれば、サブタイトルにある「医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法」は、無視できない魅力を放つ。  著者のこれまでの活動実績をフル活用したタイトルワークに応えるよう、内容も具体的なアドバイスで構成されている。その一部、〈【心得8】「早期発見」は、実はラッキーではない〉〈【心得12】一度に3種類以上の薬を出す医者を信用するな〉は帯でも紹介され、多くの日本人が思いあたる体験の盲点を突いてみせる。その上で、タイトルと同じ大きさで印刷されたコピーがたたみこむ。 〈病院に行く前に、かならず読んでください。〉  近藤がこれまで訴えてきた主張がコンパクトに、手際のいい編集でわかりやすくまとめられたこの本。ミリオンセラーもそう遠くはないと、私は予測する。
大阪府警暴力団 担当刑事
大阪府警暴力団 担当刑事 学生のころバイトしていた美術館が、講堂で映画を上映した。企画担当者は地元暴力団に挨拶にいったそうだ。興行の世界は暴力団が仕切っているって本当なんだと驚いた。挨拶するとき、金品を持っていったかどうかは聞かなかったけれども。映画がしばしば暴力団をヒーローにするのは、彼らに対する映画界の媚(こび)なのかもしれない。「ミンボーの女」で暴力団を嘲笑した伊丹十三は襲撃されて大怪我をした。  森功の『大阪府警暴力団担当刑事(でか)』は、暴力団と芸能界、スポーツ界、ベンチャー企業などとのかかわりについて警察側からの視点で描いた本。副題が「『祝井十吾』の事件簿」となっていることから小説だと思う人もいるかもしれないが、ノンフィクションである。ただし「祝井十吾」は仮名。著者が取材した複数の刑事を、この名前で登場させている。  話は島田紳助の奇妙な引退会見からはじまる。自分は被害者だといわんばかりの口ぶりとは違って、紳助と暴力団とのつき合いはかなり深かったのではないか。違和感をもった著者は関係者に話を聞いていく。明らかになっていくのは暴力団と芸能界との濃い関係だ。また、紳助と暴力団の仲介役となったといわれる元ボクサー渡辺二郎の件からは、暴力団とプロボクシング界とのつながりも明らかにされていく。  だが紳助が特異だったのは、彼が芸人だけでなく不動産業をはじめとする実業家としての側面も持っていたからだ。この方面でも紳助は暴力団と無縁でなかったと著者は見る。さらにはベンチャー企業と暴力団とのつながりまでも。山口組の組長が5代目から6代目に代わったことで、あっちにもこっちにもこんな影響が、という話に驚愕。もしかして、政権交代より社会的影響は大きい?  でも、暴力団も悪いけど、税金という名目で広く金を集め、補助金や助成金や減税という名目で一部にばらまく政府だって、五十歩百歩じゃないかと思ったりして。
たくらむ技術
たくらむ技術 テレビのバラエティ番組はあまり見ないが、『アメトーーク!』(テレビ朝日系列)は毎週、楽しみにしている。司会は雨上がり決死隊。珍妙なテーマ、たとえば「運動神経悪い芸人」といったくくりで集まった芸人たちの体験談や検証映像が繰りひろげられ、視聴者は爆笑しながらテーマの面白さに引きこまれる。芸人の隠れた魅力を引き出す斬り口は反響を呼び、「家電芸人」などいくつかのブームも起こしてきた。  この番組を仕掛けたプロデューサー、加地倫三が自分の仕事術をまとめた『たくらむ技術』には、タイトルどおり企みに関するこだわりがたっぷり紹介されている。  企画は自分の中にしかない、見ている人の立場に立つ、文句や悪口にこそヒントがある、マジメと迷走は紙一重、企画書を通すにはコツがある、常識がないと「面白さ」は作れない……体験に裏打ちされた加地の教訓にはどれも説得力があるのだが、これだけを見ると、昔から各分野の成功者が著してきたビジネス書とよく似ている。いつの時代も、売れるビジネス書は旬の人物が語る成功の秘訣と相場が決まっているから、無理もない。  加地本人も、「今が自分のバブル期」と自覚してこの本を出したとあった。「分析屋」と自称するだけあって、加地は自分を取りまく状況も冷静に客観視している。そんな客観力に富んだ加地が、〈「何が面白いか」が分からないことには、せっかくの素材を面白く見せることができません〉と説いていた。何が面白いかわからない者にそもそも面白いものは作れないから、わかっている者たちが、〈どういう順番〉で〈どういうふうに見せれば〉面白さが伝わるか徹底的に分析、工夫してようやく企みは実現していくのだ。  そうやって十年間も『アメトーーク!』をつづけてきた加地の仕事術。曖昧な「面白さ」の可視化と格闘してきたそのノウハウは、どこまで応用できるかはともかく、異業種で企むビジネスマンにもきっと参考になるだろう。

この人と一緒に考える

狭小邸宅
狭小邸宅 朝井リョウの直木賞受賞作『何者』を読んで、「へえ、いまどきの就職活動は大変だなあ」と驚いた人は、ぜひ本書を読んでいただきたい。せっかく苦労して就職しても、こんな会社じゃやってらんない。新庄耕『狭小邸宅』は、限りなくブラックな不動産会社に入社してしまった若者のお話である。  ブラック企業には二種類ある。ひとつは犯罪スレスレのビジネスをやっている企業。もうひとつは社員を短期で使い捨てにすることを前提とした人事システムの企業で、小説の舞台はこちらだ。  主人公の仕事は住宅を売ること。こんな時代だから、なかなか売れない。売れないと上司が怒鳴る。めちゃくちゃ怒鳴る。人格を破壊するような言葉で怒鳴る。休日もアフターファイブもない地獄のような日々が続く。読んでいて胃が痛くなってきた。  ブラックな企業は多方面にあるが(離職率の高いところは皆その疑いあり)、小さな不動産会社を舞台にしたところがうまい。しかも担当は東京の城南エリアだ。たいていの客は高望みしている。駅からの距離や環境などの立地条件、土地と建物の広さや地形、日当たり、そして値段。これらの希望をすべて満たす物件はありえない。妥協しなければならない。ほしいものは何でも手に入るわけではないということを、人は不動産屋めぐりで学ぶのだ。主人公を責め立てるのは上司だけでなく、客たちもまた同じ。狭小なのに邸宅という矛盾したタイトルがいい。  やがて主人公は売れる不動産販売員になっていくのだが、そのためには人格破壊の洗礼を受け入れなければならない。誇りとか良心とか理想とか、あるいは人間らしさとか、それを全部捨てなきゃ会社では生き残っていけない。身も心も弱ったところで、その企業のやりかたを刷り込む。新興宗教の洗脳と同じノウハウである。  新入社員のお父さん、お母さん。最近、お子さんたちの顔色は大丈夫ですか?
出雲と大和─古代国家の原像をたずねて
出雲と大和─古代国家の原像をたずねて 今年、伊勢神宮は20年に一度の、出雲大社は60年に一度の遷宮を迎える。  伊勢神宮が大和政権の祖神、天照大神を祀っていることを考えれば、「古代国家の原像をたずねて」という副題がついた村井康彦の『出雲と大和』は、そのタイトルだけですでに興味深い。しかも帯には、〈邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである!〉と書かれているではないか。  村井がこの説にたどりつくきっかけは、〈大和朝廷に隷属する存在でしかなかった〉とされてきた出雲論への疑心だった。村井の疑問は、三つのデータに基づいていた。 (1)朝廷が崇めた大和の三輪山の神が、なぜ出雲の大国主神と同神である大物主神なのか? (2)八世紀はじめ、出雲国造が朝廷で奏上した神賀詞(かむよごと)の中で貢置を申し出た「皇孫の命の近き守神」が、三輪山の大神(おおみわ)神社、葛城の高鴨神社など、いずれも出雲系の四神だったのはなぜか? (3)『魏志倭人伝』で知られる倭の女王、邪馬台国の卑弥呼の名が、『古事記』にも『日本書紀』にもまったく出てこないのはなぜか?  (1)と(2)は、大和朝廷ができる前にその土地を出雲系の人々が支配していた証ではないか。(3)は、卑弥呼が朝廷と無縁の存在であり、大王(=天皇家)の皇統譜に載せられるべき人物ではなかったから。したがって、邪馬台国は朝廷の前身ではなかったのではないか……こうしたデータを重ねあわせて導き出されたのが、「邪馬台国は出雲勢力の立てたクニ」という仮説だった。村井は多くの文献をたよりに各地で検証を進めるうちにこれを実説と確信、ここに大胆な持論をまとめあげた。  古代史ファンとしては、『魏志倭人伝』にある「南」を「東」に改めて行程をたどる点に疑念が残るが、過不足ない地図、図表、写真の効果もあり、最後まで好奇心をくすぐられつづけた。出雲と大和の神が遷宮を迎える年にこの国の古代に遊行するテキストとして、実に刺激的な一冊となっている。
できる大人のモノの言い方大全
できる大人のモノの言い方大全 書店の店頭に煉瓦のような弁当箱のような分厚い本が積まれている。『できる大人のモノの言い方大全』だ。  内容は社交辞令はじめ大人同士の会話における言葉づかいノウハウ集である。たとえば「相手の自慢話に効くあいづち」は、「よかったですね」「それは何よりです」「うらやましいですねえ」「それは、それは」「さすがですねえ」「素晴らしい!」「すごいですねえ」「それはようございましたね」。  自慢話をされても、にこやかにこれらの言葉がすらすら出てくるようになれば、立派な大人だ。ぼくは若いころからこういうのが得意で、「よく心にもないお世辞をぺらぺら言えるものだね」と先輩に褒められたことがある。今も、女性に会えば「あいかわらずおきれいで」「お若くなりましたね」、男性なら「活躍されているという噂、しょっちゅう耳に入ってきますよ」を欠かさない。そういや先輩に「君は口先だけで世の中を渡っていけると思っているだろう」と言われたことがある。その通り!  伝わりにくい真心なんかよりもおべんちゃら。これが半世紀以上生きてきての実感である。ぜひともこの本を座右に置き、世渡り上手になるための言葉磨きに役立てたい。  本書の魅力はなんてったって厚さと安さである。「3センチ超でこの値段!」的な広告には驚いた。大昔の円本ブームも、コストパフォーマンスが売りだったから、出版界の伝統といえなくもない。  安い秘密は、本書のなりたちにある。『できる大人のモノの言い方』『知ってるだけで一生使えるモノの言い方』『できる大人のモノの言い方「ほめ言葉」の秘密』を改題・再編集したのがこの本だからだ。つまりコンテンツのリサイクル本である。  総ページ数は384ページだが、いわゆる嵩高紙を使って厚くしている。以前、製紙工場で取材したのだが、洗濯で使う柔軟剤に似た成分を紙に混ぜると嵩高紙になるのだそうだ。
わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か
わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か 就職活動をひかえた大学生たちと話をしていると、いつしか「コミュニケーションが苦手で」といった相談を受けることが多い。よく聞けば、自分は企業が求めるコミュニケーション能力を満たしていないのでは、という不安が語られる。  では、企業が求めるコミュニケーション能力とは何なのか。平田オリザの分析によれば、それは、異なる文化や価値観を持った人に対してもきちんと自分の主張を伝えられる能力とともに、従来どおり集団の輪を乱さない能力を併せもつことらしい。しかし、この二つはあきらかに矛盾している。前者は対話を重ねて互いの妥協点を見いだし、後者は言葉を要さずに察しあう能力だ。こんなダブルバインド(二重拘束)状態を求められたら、学生でなくともたまったものではない。  産業構造が大きく変化し、少子化や核家族化、そして経済のグローバル化がこれでもかと進む時代背景もあって、日本社会のコミュニケーション不全は大きな問題となってきた。企業だけでなく学校、家庭にも巣くうこの難題に対して平田は、タイトルにあるように「わかりあえないことから」アプローチしようとする。もう日本人はバラバラなのだと認め、バラバラな人間が、価値観はバラバラなままでどうにかしてうまく関係していくために、まず対話の重要性を説く。その上で、協調性よりも社交性を身につけ、一人の人間がいくつもの役割を演じることで他者とつながっていく可能性について言及する。優れた演劇人である平田がコミュニケーション能力にこだわる理由がここにある。 〈人間は、演じる生き物なのだ〉  ダブルバインドを解きほぐして新たな役割を得るために、平田は「わかりあえないことから」はじまる授業をすでにいくつもの小中学校で実践している。演劇を活用したその内容は、「察しあう」文化に育った者からすれば新しい日本人を育てるプログラムのようで、かなり羨ましい。
統計学が最強の学問である
統計学が最強の学問である 何がいいのか正しいのか、迷うことの多い今日このごろ、「である」と断言してくれる人に出会うとほっとする。だからぼくは西内啓『統計学が最強の学問である』を手に取った。表紙には「データ社会を生きぬくための武器と教養」との手書き文字がある。あまり上手くない脱力系。「最強」「学問」の力強さとのアンバランスがいい。タイトルとデザインの勝利だ。  内容はよくできた統計学の入門書である。この本を読んだからといって、すぐデータ分析できるわけではないから、入門書というより入門の入門。統計学的な考え方を教えてくれる。  そういえば、ビッグデータの時代なのだと誰かがいっていた。コンピュータとインターネットによって、大量のデータを集め、分析することが可能になった。ぼくらは検索したりメールしたりして、せっせとデータを提供している。プロバイダや通信会社に料金を払ったうえデータ提供までしているのだから、盗人に追い銭という気もしないではないが。  しかし、いくら大量のデータがあっても、その分析のしかた、読みかた、つかいかたがわからなければ何の意味もない。逆に、適切な扱い方さえわかっていれば、データの量は少しでもいい。全員に聞かなくても、適切にサンプリングした人々だけに聞けば、全体のことはだいたいわかる。重要なのはデータを見るセンスだ。  よくアドバイザーやらコンサルタントやらが、アンケート調査のデータをもとに「ですから御社では~」などとプレゼンする。もっともらしいスライドを見せて。でも、それが本当に意味のあるものかどうか、本書をよく読んで判断したほうがいいだろう。世の中には、下らない出費の正当化のために行われる下らないアンケートが多すぎる。  統計学が最強かどうかは知らないけれど、統計学を知らずして天下国家を語るなかれ、という気分にはなるね。
空白を満たしなさい
空白を満たしなさい 32歳で逝ったサラリーマンの男が3年後に生きかえる。男は勤務する会社のビルの屋上から飛びおり自殺したのだが、本人はある人物に殺されたと思っている。しかし、その人物の行方がわからない……。  平野啓一郎の長篇小説『空白を満たしなさい』は、これまでの小説や映画にもよくあるよみがえりの設定ながら、生きかえった人間が出現した時の周囲や社会の反応、中でも家族の困惑の描写が丁寧で生々しく、無理なく引きこまれる。生きかえった死者、作中では「復生者」と呼ばれる者がもしも身近にいたら、おそらくそのようになるだろうと思わせる筆力に導かれ、読者は主人公とともに、彼の死因を探りはじめる。  少々思いこみが強いものの実直で勤勉な主人公。どこにでもいそうな気のいい彼の迷走と思索を追いながら、読者はどうしたって自身の死生観と向きあうことになる。一度は永遠に失った自身の「生」を検証する彼の視座に立って、つい自分を見つめてしまう。  たとえば、幸福を求め、あるいは手に入れた幸福を維持しようと努めるために生じる疲弊が、じわじわと自身の生きる気力を蝕んでいるのでは、という問いがそこに浮上する。その果てに、死ぬ気などまったくなかった者が、直後に自ら命を絶ってしまうのではないか。そうならば、その時、自分を殺した真の犯人は誰か──この小説が従来のよみがえり小説にない深みをもっているのは、この究極ともとれる問いと、その解明のために用意された「分人」なる考え方だ。  対人関係ごとに変わる自分を、「個人」に対して「分人」と呼ぶ思考は、最近の平野のテーマでもある。この考えに基づいて自分と向きあえば、人はもう少し生きやすくなるのではという平野の思いは、作品の底流となっている。  かくして、上質なホラー・ミステリーを楽しむ気分でたどりついた先には、静かな哲学の時間が待っていた。

特集special feature

    自選 谷川俊太郎詩集
    自選 谷川俊太郎詩集 岩波書店の広告を見てびっくりした。岩波文庫で『自選 谷川俊太郎詩集』が出たのだ。岩波文庫といえば文庫の王様、古典・名作の宝庫である。なんとなく物故者の入る文庫というイメージがあって、「えっ! 谷川さん、ピンピンしているのに」と思った。  もちろん岩波文庫に物故者限定のルールがあるわけではない。以前、『寒村自伝』が岩波文庫に入った時、荒畑寒村が大いに喜んだという話を聞いたことがある。  谷川俊太郎のアンソロジー詩集は集英社文庫の『谷川俊太郎詩選集』全3巻はじめいくつかある。「それらと重複するような本にはしたくない。かと言って世間が代表作としてくれている作を、全く入れないのも、この本で初めて私の詩に触れる読者に不親切だろう」と、まえがきで書いている。  デビューは1952年、20歳のときの『二十億光年の孤独』で、以来、60年以上書いた詩が二千数百。それらを辿るように読み返し、いまの自分の目で選んだのがこの自選詩集だ。  通読してみて、谷川俊太郎の詩の幅の広さと奥の深さにあらためて感動する。『ことばあそびうた』や『わらべうた』のように、子ども向けの愉快な詩もあれば、『定義』や『メランコリーの川下り』のようにちょっと難しい詩もある。もちろん子ども向けの詩が軽くて浅いというわけではない。あれもこれも入っていて、とてもお得な詩集だ。  詩集のタイトルがかっこいいのにうっとりする。デビュー作もそうだけど、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』とか、『コカコーラ・レッスン』、『夜のミッキー・マウス』なんてすばらしい。でも、タイトルがポップだから内容も軽いだろうと思って読みはじめると、意外と手ごわい。  岩波文庫というと装丁が地味だというイメージがあるが、デビューのきっかけになったノートをあしらったカバーがいい(デザインは中野達彦)。
    国の死に方
    国の死に方 2011年3月11日以降に顕わになった日本の根深い問題──原発、ポピュリズム政治と官僚組織の弊害、終わりの見えない不況、東京と東北の関係性などと向きあうとき、私たちは何を手がかりに考えればいいのか。  いろいろな視座がある中、片山杜秀は過去、つまり歴史を重視した。〈現在から想起される過去について書くことで、現在を思う糧(かて)が得られるように〉明治から太平洋戦争前後までの日本の政治史を精察し、この国がかかえる病巣の特質を明らかにしようと試みたのが、『国の死に方』だ。  たとえば第1章を読めば、どうして権力は低きに流れて官僚支配がはじまるかよくわかる。それを防いで独裁者となったヒットラーの手法が第2章で紹介され、第3章では明治憲法がかかえた権力者の生まれない構造について知る。第9章にはようやく実施された普通選挙がいかに気分に左右されたか書かれている。その後は、米作にまつわる東北の苦悩とテロ事件の関係や映画『ゴジラ』が象徴する〈死に体政治に未曾有の国難が迫る〉状況が解説され、敗戦後の国体論の歪みに言及していく。  誰が最初に言ったかは知らないが、歴史はくり返すらしい。そうならば、現況をどう受けとめ、どこへ向かって行けばいいか迷ってしまったとき、片山がここにまとめた歴史は現在の鏡となる。この本は、不吉な予感とともに打開の種を与えてくれる鏡の書だ。  なお片山は、最終章で里見岸雄という思想家が説いた国体の核心、〈端的に言えば犠牲を強いるシステム〉を取り上げ、こう結んでいる。 〈犠牲社会とは縁を切った国、どんな過酷な事態に至っても誰ひとりにも捨て身の対応を命じられない国、しかも世界に冠たる地震大国が、国中を原子力発電所だらけにしてしまった。そんなに国を死なせたいのか〉  奇妙なタイトルにこめた片山の烈しい思いが伝わってくる。
    今日から使える大人の男のオシャレ塾
    今日から使える大人の男のオシャレ塾 大阪・梅田のデパート戦争は阪急の圧勝だそうだ。鳴り物入りで参入した三越伊勢丹はパッとしない。  阪急圧勝の立役者のひとつが、男性向けファッションに特化したメンズ館だ。メンズ館は東京・有楽町にもあるけれども、梅田店のにぎわいぶりは凄まじい。  阪急メンズ館にはスタイルメイキングクラブという会員制のサービスがある。専属スタイリストがアドバイスやコーディネートをしてくれる。なんならワードローブを見て、手持ちの服の仕分けだって、というサービスである。入会金は3000円だ。そのメンズ館が監修したファッション指南書が『今日から使える大人の男のオシャレ塾』である。ぼくは今年55歳になるのだが、毎日、何を着るかで悩む。若者と同じかっこうはできないけれど、かといっていかにもシニア向けというのも躊躇する。  というわけで、大いに期待して本書を手にした。「男性ファッションの『そもそもどうしたらいいのか?』がわかる」と書いてあるし。で、どうだったか?  ……ますますわからなくなりました。まずいきなり最初のほうに「色の基本を知り、コーディネートに生かそう」とあって、色相環やらトーン表やらが載っているのだ。色合わせと色の濃淡がコーディネートの生命線なのだそうだが、彩度だの明度だのめんどうくさそう。似たような色で組み合わせろということらしいのだが。  パート1は「定番アイテムをそろえて、まずはコーディネートの基本をマスターする」というのだが、定番アイテムが12もある。そろえるお金と時間と労力を考えると気が遠くなりそうだ。パート3の「オシャレ度アップの活躍アイテム」は、はるかかなた。  うーん、まてよ。この本2冊分のお金でスタイルメイキングクラブに入れるではないか。ここに書いてあるようなことは教えてくれるはずだ。本を読むより入会しよう、と思わせるのがこの本の目的なのか?
    戦争と一人の女
    戦争と一人の女 〈夜の空襲はすばらしい〉  坂口安吾の同名小説を原作とする近藤ようこの『戦争と一人の女』は、こんなモノローグではじまる。太平洋戦争末期、米軍機の空襲に脅えるようになった東京で、防空壕から夜空を見上げる女。〈私は夜の空襲が始まってから 戦争を憎まなくなっていた〉  親に売られて女郎となった女は、客の男に落籍(ひか)されて酒場のマダムをやっているとき、野村という男と知りあった。女は不感症ながら淫蕩で、野村も含めほとんどの常連客と関係をもった。ある晩、女は一緒に暮らさないかと野村を誘い、〈どうせ戦争で滅茶々々になるだろうから今から滅茶々々になって 戦争の滅茶々々に連絡しようか〉と野村もこれを受けいれる。こうして戦時下にはじまった二人の生活が、敗戦直後まで描かれる。  安吾の原作は野村の視点で書かれた女の話であり、その続編は、同じ事象を女自身の眼からとらえたものだった。共鳴しつつも微妙に異なる両者の思案は、漫画の中で淡々と丁々発止をくりかえす。互いに抱きあっているときもそれは続き、女が戦争を好む理由もほどなく読者にわかってくる。  終戦の日、野村は女に言う。 〈君の恋人が死んだのさ〉  その一方で、色餓鬼のごとく女の体を貪ったと野村は自嘲する。女はそれを聞き、〈でも 人間はそれだけのものよ〉と応える。  いつも不吉な、展望の欠片もない破滅の気配が色濃くまとわりつく女。それは戦争とよく似ているのかもしれない。そう考えれば、野村は戦争を貪り、首尾よく〈戦争の滅茶々々に連絡〉して生きながらえたことになる。歴史に登場することはない、現実を生きている男女の実状から描いた戦争の一面が、ここにある。  近藤の『戦争と一人の女』は、絶妙な構成と繊細な人物描写、何より女の美しさがからみあって昇華し、安吾の思いをたっぷり汲みつつ、原作の何倍も魅惑的な作品となっている。
    冷血
    冷血 街にクリスマスソングが流れるころ、歯科医師の一家4人が皆殺しにされる。犯人はケータイサイトで知り合った若者二人。目的はカネでもなく恨みでもなく、ただなんとなく。残酷ではあるけれども凡庸な事件を、徹底的に緻密に描いたのが高村薫『冷血』である。  上下二巻、三章からなる。「第一章 事件」は、被害者と犯人、それぞれの視点で、犯行に至るまでのプロセスが描かれる。「第二章 警察」は、事件発生から犯人逮捕までを警察側の視点で描く。刑事・合田雄一郎が登場するのは、この第二章、149ページから。そして下巻は「第三章 個々の生、または死」に丸々充てられる。  たいていの犯罪小説は犯人が逮捕されるところで終わる。ヤクザの家系に生まれた男と教育ママに育てられてドロップアウトした男が出会い、行きずり的な犯罪に手を染める。男たちの意識の流れは克明に描かれていて、どこにも謎はない(はずだ)。新聞で報じられても「ひどい事件だ」「こいつら死刑だね」で終わる話。  だが、高村薫の真骨頂はここからである。なぜいい年をした男が二人、あとさきを考えない場当たり的な犯罪をしたのか。なぜ恨みもない歯科医師夫妻を殺しただけでなく、熟睡している幼い子ども二人を撲殺したのか。合田雄一郎の目と耳と頭脳を借りて、読者は徹底的な腑分けに立ち会う。まるでミリ単位でCTスキャンし、人体を輪切りして見るように。  虞犯(ぐはん)少年がそのまま大人になり愚かな罪を犯す典型例のように見えながら、虞犯少年にも一人ひとりの人生がある。彼らは何を考え、何を感じたのか。殺された少女は数学オリンピックを目指す秀才だったが、少女の生と犯人の生の重みにどのような違いがあるのか。第三章の表題がいうように、生と死について深く考えずにいられない。本書は犯罪小説のかたちをとった哲学書だ。日本語で書かれ2012年に刊行された書物のなかで最高の作品である。
    藝人春秋
    藝人春秋 水道橋博士をテレビで初めて見たのは、もう20余年ほど前になるだろうか。その頃から今にいたるまで、博士は芸人らしからぬ雰囲気を放っていると感じてきた。漫才をやっても、たけし軍団の一員として体をはっていても、司会をやっても、どこか醒めている。本人は否定するだろうが、私はそんな違和感を覚えながら注目してきた。  特に気になったのは、目だった。小柄な体にぴったりの童顔にあるその目は、いつも何かを観察しているようだ。この『藝人春秋』に編まれた15人(そのまんま東、甲本ヒロト、石倉三郎、草野仁、古舘伊知郎、三又又三、堀江貴文、湯浅卓、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、太田光、北野武、松本人志、稲川淳二)のルポエッセイでも、まずは博士の観察眼が力を発揮し、彼らのちょっとした表情の変化を的確にとらえる。そして、豊富な語彙とリズムに乗ったシャレを駆使して書かれた文章とあいまって、それぞれの芸人の過剰ぶりが痛々しいほど伝わってくる。  とはいえ、読後感はどれもほのかな暖気に包まれる。笑いをちりばめつつそれぞれの暗部に迫りながらも、そこに尊敬の念があるからだ。たとえ、三又のような不見識な後輩が対象であっても、彼の中にある「自分にはない過剰なもの」への畏怖を博士は忘れない。 〈名もなく過ごす平凡で安全な日々〉を捨て、23歳のときに〈出家同然にたけしに弟子入り〉した博士は、50歳になった今もまだ、「自分にはない過剰なもの」に惹かれつづけているのだろう。その証拠に、博士はよく見てよく調べ、よく訊いてよく聴き、その上で、よく書いている。まるで、文芸の世界からテレビの裏側という魔界に送りこまれたルポライターのようだ。  テレビに映る博士に私が違和感を抱いた理由もこれではなかったか、と思う。いわば30年近くもの潜伏期間をかけて取材し、ついに報告されたこの本は、だから、哀しくなるほど面白い。

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