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「ベストセラー解読」に関する記事一覧

スタンフォードの自分を変える教室
スタンフォードの自分を変える教室 ダイエット本や英会話本はベストセラーの定番だ。次から次へと“画期的な方法”が提案される。しかし長続きする人は少ない。画期的な方法よりも、挫折せずに続ける方法を教えてほしい……。  と思っていたら、すばらしい本が登場。『スタンフォードの自分を変える教室』である。著者のケリー・マクゴニガルは米国スタンフォード大学の心理学者。意志力をどのようにコントロールするかをテーマにした講義は大人気で、本書はその書籍化である。  最新の心理学や脳科学などの成果をもとに、どうすれば続けられるか、どうすればやめられるかを考える。「へえ、なるほど」と納得する話や、驚く話が満載だ。  たとえば、人は何かほかのことに気を取られていると、意志をコントロールできなくなる。ストレスも意志力を弱める。仕事や人間関係でくたびれているときに、テレビを見ながら食事をしたり酒を飲むのは最悪だろう。  サラダを見るとジャンクフードを食べてしまう、という話が出てくる。ニューヨーク市立大の研究だ。健康によさそうなものがメニューにあると、それを見ただけで達成感を得て、本能が求める高カロリー食に手が出てしまう、ということらしい。人は「よいことをすると悪いことをしたくなる」のだと著者はいう。まだやってもいないことをやった気になり、自分へのご褒美だけはちゃっかり現実に、というメカニズムだ。  ぼくたちは自分が思っているほど理性的でもなければ賢くもないらしい。人類がヒトになる前の、常に飢えていた時代の記憶が、脳の中で眠っている。それが疲れたときや、強いストレスにさらされたときなどに目覚める。  「体重を減らす方法としては、ダイエットはまったく役に立ちません」と著者はいう。ほとんどの人はリバウンドするし、体重の増減を繰り返すことで病気になる危険も高まる。では、どうすればいいのか。それは本書を読んで……。
サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて
サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて タイトルにあるサンカーラとは、〈この世の諸行〉を意味する。 〈私という意識の経験の蓄積、様々な印象を寄せ集めたモザイク。生きるために身につけてしまった行動や考え方の癖、感情。それらは、いつしか垢のように魂にこびりつき、精神や肉体をも歪める。そのことを認めないわけにはいかなかった〉  たとえば、東日本大震災の発生から1年9カ月がたとうとしている今、私たちはそれ以前と何か変わっただろうか? 被災者のために物資を送り、寄付し、ボランティアに出かけるという経験は、自分を変えたのか? あるいは、福島第一原発の事故をきっかけに、自分は変わったのか?  歴史を繙(ひもと)くまでもなく、大地震は以前にもあった。広島、長崎には米国の原子爆弾が落とされ、第五福竜丸はやはり米国の水爆実験によって被曝した。公害で海や空が汚染され、多くの人が亡くなった。海外に目をむけても、人はまあなんと同じようなことをくり返してきたかと、あらためて呆れるしかない。  なぜだろう? なぜ私たちは、いや私は、時間が過ぎるとまた同じことをくり返してしまうのか。変化はあっても変容のない社会、そして、変容できない私。なぜ?  田口ランディはこの問いと真正面から向きあった。過去に起きた家族内の凄惨な出来事も、義父母の看取りも、昨年来この国にうずまく事象もすべてたぐり寄せ、考え、まるで瘡蓋(かさぶた)を剥(は)いだ傷口からえぐり出すように言葉をつづった。終始、魂にこびりついた垢を落とそうと田口は問いつづけ、考えつづけた。 〈精神はほっておけば後戻りする。すぐに環境に適応し怠惰になり、道を失う。どうやら魂は、日々、鍛練しなければ筋肉と同じで衰えるのだ〉  まったくそのとおりだ。私たちはすぐに適応を優先して、「あの日の問い」を忘れてしまう。だから今、この本が一人でも多くの日本人に読まれることを私は願う。
MAKERS 21世紀の産業革命が始まる
MAKERS 21世紀の産業革命が始まる 工業製品というと、工場じゃないとつくれないものと思っていた。ところが誰もが自分でつくれる時代になりつつあるという。パソコンとプリンタを使って、年賀状を自宅で印刷するように。 『フリー』で無料ビジネスの世界を紹介したクリス・アンダーソンの新著は『MAKERS(メイカーズ)』。この21世紀の産業革命ともいうべき事態を詳しくリポートしている。誰もがメイカー(つくり手)になれるというのだ。  きっかけは3Dプリンタやレーザーカッターといった工作機械の登場である。3Dプリンタは、3次元、つまり立体のものをつくる。パソコンのプリンタの3D版だ。レーザーカッターは細かく複雑な仕事でも正確にこなす電動鋸。どちらも机の上にのるほどの大きさで個人でも買えるが、これらを備えた工作室が世界中で増えている。オバマ政権は今後4年間で千カ所の学校に工作室を開く。  工具だけでものづくりはできない。設計図が必要だが、コンピュータとインターネットによって設計も簡単になった。セミプロが知識を持ち寄り、ネットで共有する。それを3Dプリンタやレーザーカッターに送ってものをつくる。大量生産が必要なものは、工場に設計図を送る。  これだけでは、ものづくり革命ではなく日曜大工革命である。ちゃんとビジネスにつなげるしくみも生まれている、とアンダーソンは紹介する。インターネットで客を集め、資金を募るのだ。音楽の世界でメジャーとインディーズの境目がなくなったのと同じことが工業でも起きつつある。  こうした21世紀の産業革命を可能にしたのは、コンピュータとインターネットだ。時代は大量生産から、少量多品種生産へと変わりつつある。となると、人件費はものづくりの決め手ではない。日本の企業は、生産拠点を海外に移すよりも、国内でコンピュータに関するスキルを磨いたほうがいいのではないか。
シルバー川柳
シルバー川柳 シルバー川柳とはいかなるものか。その面白味を端的に伝えようと工夫したのだろう、タイトルにも一句盛ってある。 〈誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ〉  いわゆる老年世代の日常に題材をとったシルバー川柳は、社団法人全国有料老人ホーム協会が主催し、2001年から毎年公募されてきた。そこで入選した作品群から88句を選んでまとめられたこの本には、日本の超高齢社会の現実がつまっている。 ○医療に支えられた長寿の実情 〈延命は 不要と書いて 医者通い〉〈無農薬 こだわりながら 薬漬け〉〈クラス会 食後は薬の 説明会〉 ○老々介護 〈ボランティア するもされるも高齢者〉 ○子どもの独身問題 〈二世帯を 建てたが息子に 嫁が来ぬ〉 ○しのびよる呆け 〈立ちあがり 用事忘れて また座る〉〈忘れ物 口で唱えて 取りに行き〉 ○孫への愛情 〈「いらっしゃい」 孫を迎えて 去る諭吉〉〈孫の声 二人受話器に頬を寄せ〉〈孫帰り 妻とひっそり茶づけ食う〉  厳選された傑作ぞろいなだけに、どれを読んでも苦笑する。巧いなあ、と声に出して感心する。諧謔の精神に裏打ちされた自虐の妙味がそうさせるのだが、当事者たちが客観したそれらの自画像は、だからほのかな哀愁を読後に残す。つい老いた両親の顔を思い出し、掲載されている川柳をヒントに二人の本音を探ってしまう。そして、自分にも訪れるその時を想像する。 〈飲み代が 酒から薬に かわる年〉  1句に1ページを割き、〈中身より 字の大きさで 選ぶ本〉よろしく大きな字を用い、明るい素朴なイラストを添えた編集と造本の良さも見逃せない。内容とデザインが快く組み合わさって税込み千円。売れないわけがない。
中国人エリートは日本人をこう見る
中国人エリートは日本人をこう見る 中国で日本車が売れなくなっている。影響は部品メーカーにまで及ぶ。「尖閣ショック」と呼ぶメディアもあるようだが、ぼくは「石原不況」と呼ぶべきだと思う。この際、責任の所在をはっきりさせよう。  もっとも、すべての中国人が反日感情を抱いているかというと、そうでもない。すべての日本人が中国嫌いではないように。  中島恵の『中国人エリートは日本人をこう見る』は、中国人若手エリート約百人に聞いた、日本観・日本人観である。  びっくりしたのは、小泉元首相の人気がけっこう高いという話。靖国神社参拝で対立の種を蒔いた張本人ではないか、と思ったが、小泉のように白黒はっきりするほうがわかりやすいということらしい。人気があるからといって、靖国神社参拝に賛成している中国人が多いということではない。  登場するのは日本への留学生をはじめエリートたちだ。高い教育を受け、経済的にも恵まれている。都会育ちで、家庭環境もいい。  彼らは冷静に日本と日本人、中国と中国人、そして世界を見ている。日本はいい国だといい、日本人に対してもよい感情を持っている。中国のGDPが日本を追い抜いたことについても浮かれてはいない。国民一人当たりではまだ大差があるからだ。「中国に負けた」「日本はもうダメだ」と悲愴感ばかりの日本人よりもずっとクールである(と、つい自虐的に悲愴感にひたってしまう)。  しかし、親日的なのがエリート層だということに注意を払わなければならない。貧しい、地方の、高い教育を受けられない人びとは、反日的な感情を抱いているだろう。それは中国社会の矛盾かもしれないし、もしかするとその矛盾を政治が利用しているのかもしれない。  国家間の対立を煽って状況がよくなることなどあり得ない。歴史を振り返ればそれは明らかだ。暴走老人よりも中国人エリートと手を結び、新しい日中関係を築いていくべきだ。
大阪アースダイバー
大阪アースダイバー 以前、朝日新聞が「ゼロ年代の50冊」というアンケート企画を実施した際、私は迷わず『アースダイバー』を選んだ。縄文期の地図と現在の東京を重ねることで、古代からの地勢がそれぞれの街の成立に根深くかかわっているとわかり、いたく興奮したからだった。  土地の歴史や記憶をたどるアースダイビングの手法は、人間の勝手な思惑でできているように見える街の表層を剥がし、真の地肌を顕わにする。その作業には当然、膨大な参考資料や証言が不可欠となる。東京篇から7年後に刊行されたこの大阪篇でも、中沢新一はそれらをふまえつつ自身の知見を総動員し、無垢な大阪の実像に迫っている。  固い洪積層を土台とした東京とは違い、「くらげなす」土砂層の上につくられていった大阪。古代、南方や朝鮮半島から海民が上陸し、上町台地や生駒山の麓に暮らす先住民と出会うのだが、弥生式の生活様式を持つ彼らは、新たにできた砂州を拠点とした。そこで古来の土地に縛られない無縁の原理を育んだ海民の子孫たちは、商都「ナニワ」を生成していく。中沢は、無縁を前提に新たな社会をつくりだした大阪こそが〈真性の都市である〉と説き、何より信用を重んじた船場の商人たちを再評価する。また、ミナミが誕生する過程も細かく紹介し、かつての処刑場や墓地に漫才が生まれ、歓楽街ができた必然を物語る。  そして、大阪の地と血の関係性を考えるときに必ず直面する差別問題にも、中沢は丁寧に挑んだ。渡辺村の住民がたどった苛酷な歴史、朝鮮半島から移住した人々が果たした役割などを、背景にある為政者の意図とともに書いた。偏見の助長ではなく、史実の理解を願う中沢の思いは、行間にあふれていた。  大阪の誕生と発展にかかわった死者たちが動きだし、私たちにつながる人間の営みの切なさや愉楽が伝わってくるこの一冊。中沢新一、渾身の作である。

この人と一緒に考える

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史
中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史 日本が中国化している。経済は中国依存だし(中国がくしゃみをすると、日本が風邪をひく)、尖閣問題をきっかけに中国が日本の領土を奪っていく……なーんて早合点してはいけない。若手歴史学者、與那覇潤が『中国化する日本』で述べているのは、日本社会の中国化である。中国政府とも中国共産党とも人民解放軍とも、まったく関係ない。  中国は世界でいちばん進んだ国だ、というのが著者の前提だ。宋の時代(960~1279)に貴族制を廃止し皇帝に権力を集中させた。官僚は科挙によって広く集める。経済は自由。  著者はあまり強調していないけど、科挙というものが鍵だったとぼくは思う。前科者など一部の例外を除いて誰でも受けられた、つまり人間の能力は平等で、努力の差が結果の差になる。難問奇問愚問のイメージもあるが、実際には考え方を問うものだったらしい。そこから科挙の合格者は頭がいいだけじゃなくて徳もある、となる。トップの皇帝は徳の体現者だ。  新自由主義経済の社会に似ている。勝ち組は努力したいい人で、負け組は怠け者のだめな人、と。  「中国」と正反対なのが「江戸」だ。江戸時代は身分制で階級移動をできなくし、ムラとイエで個人を縛った。不自由だけど、保護もされているので、現状維持で満足という人にはハッピーだった。  中世から現代まで、日本の歴史は中国化と再江戸時代化の両極のあいだを揺れ動いてきたと著者はいう。なるほど、こういう見方もあるのか、とエンタメ的におもしろい。異論反論もいろいろあるだろうが。  現代の日本社会が中国化しているというのはその通りだと思う。もうムラもイエもない。正規雇用労働者はどんどん減り、みんな流民のようになっていく。いくら「絆」だなんだと言っても、崩壊してしまったものの再現は難しい。  中国化は歴史の必然なのだろうか。中国でもなく江戸時代でもなく、という第三の道はないのか。
百年前の日本語─書きことばが揺れた時代
百年前の日本語─書きことばが揺れた時代 今から100年前、明治時代が終わった。  日本史において「明治維新」と呼ばれるほど大きな改革があったその時期、日本語はどのように書かれていたのか。今野真二の『百年前の日本語』は、当時の日本語の書きことばを採りあげて現代との違いを指摘し、この100年ほどの間に日本語がどんな変化を遂げてきたか明らかにする。  副題にもあるように、明治期の書きことばには「揺れ」があったと今野は説く。それは不安定な「揺れ」ではなく、「豊富な選択肢があった」状態を意味する。  たとえば、「コドモ」にあてられる漢字は、現代なら「子供」で統一されているが、明治期には、「小兒」「幼兒」「童兒」「童子」「小供」「子共」「児」なども使われている。  このような多様な書き方を支えていたのが、振仮名だった。また明治期には、話しことばで使われていたと思われる語形も書きことばに持ちこまれている。そのために語義に近い漢字を借用したり、仮名で書いたり、振仮名や送り仮名を活用して工夫され、書きことばの選択肢はひろがっていったのだ。  しかし、活字印刷の技術が進んで新聞や雑誌が普及しはじめていくと、「不特定多数への情報発信」にふさわしい書きことばが求められるようになり、明治期の後半には、日本語は「収斂」への道を進みはじめる。そして統一化の動きは、周知のとおり、現代にいたるまでつづいている。  一つの語はできるだけ一つの書き方にしようとする人為的な作業。つまり、書きことばの「揺れ」を排除することは、コミュニケーションの効率化には有益なのだろう。しかし、〈現代のような状態になったのは、日本語の長い歴史の中で、ここ百年ぐらい〉だと知ると、不安になる。はたして、日本語の書きことばはこのままでいいのか?  統一化の推進によって選択肢をせばめてきた日本語の書きことばの歴史は、どこか、日本社会のこの100年とだぶって見えてくる。
日本の七十二候を楽しむ
日本の七十二候を楽しむ 冲方丁の歴史小説『天地明察』が映画化され、絶賛上映中……だからか知らないけれど、『日本の七十二候(しちじゅうにこう)を楽しむ』が売れ続けている。旧暦の季節感を味わおう、という本である。文章を書いている白井明大は詩人で、イラストレーターの有賀一広が絵を担当。  初版が出たのが3月で、私が買ったのは9月に出た第7版第2刷。ロングセラーだ。この本に『天地明察』は出てこないけど、江戸時代に「本朝七十二候」をつくったのは渋川春海。『天地明察』と無関係ではない。  七十二候というのは、中国から伝わった季節の分けかただ。1年を24に分けるのが二十四節気で、七十二候はさらに細かい。  二十四節気は「秋分」や「立冬」や「冬至」などよく知られているが、七十二候の名称はちょっと不思議だ。たとえば二十四節気の「寒露」は10月8日ごろから10月22日ごろまで。七十二候はこれをさらに三分し、順に「鴻雁来(がんきた)る」「菊花開く」「蟋蟀(きりぎりす)戸に在り」という。著者は「季節それぞれのできごとを、そのまま名前にしているのです」と書いている。  日常会話ではどう使うのだろう。「涼しくなりましたね。ようやく寒露ですものね」などとはいうけれども、「蟋蟀戸に在りですなあ」なんていったら「お宅ではキリギリスを飼っているんですか」と聞き返されるだろう。「蟋蟀戸に在り」は10月18~22日ごろ。  これまで旧暦についての本はたくさんあったが、本書はいろんな角度から季節を楽しもうとしている。季節そのものだけでなく、季節に因んだことばや、旬の魚介・野菜・果物、行事などについてもイラストつきで解説する。「鴻雁来る」の項であれば、「菊と御九日(おくんち)」と題して長崎くんちの話があり、旬の魚介はししゃも、旬の野菜はしめじ、旬の草花はななかまど、といった具合だ。スーパーマーケットから季節感がなくなったいま、せめてこの本を眺めてしみじみとしたい。
本人伝説
本人伝説 人気イラストレーター、装丁家にして「本人術師」を名のる南伸坊、65歳。その素顔は、この本の帯をはずしてもらえば写真が載っているからすぐわかる。白髪の短髪、エラが張った立派な下顎、柔和な目。南自身が描く似顔絵どおり、おむすびに目鼻と口がついているような顔である。  しかし、この顔に本人術が施されるとあら不思議、ダライ・ラマ14世にも松田聖子にもスティーブ・ジョブズにもヨーコ・オノにも似てしまうのだ。他にも、茂木健一郎、櫻井よしこ、ウッディ・アレン、鶴見俊輔、島田紳助、ペ・ヨンジュン、石破茂、ダルビッシュ有、吉本隆明、孫正義、糸井重里、ワンチュク国王、内田裕也、荒木経惟、野田佳彦など、総勢70数名もの著名人「本人」と化した南の顔が一冊に収まっている。  そもそも本人術とは何か。それは、〈いわば顔をキャンバスにした似顔絵のようなものだ〉と、南はあとがきに書いている。だから、化粧品を使っても化粧をするのではなく、あくまでも自分の顔に自分で絵を描くための道具として用いる。他にはテープやかつらで似顔絵の精度を上げ、卓上スタンド一本という乏しい照明の下、文子夫人が撮る写真によって「本人」は完成する。  こうして仕上がった「本人」には、これまた「本人」が書きそうな小文が添えられ、笑いを増幅する。中には似ていないものもあるが、それでもつい笑ってしまうのは、こちらの記憶にある「本人」の特徴がそこにあるから。その特徴は、ときに「本人」の気質や本音すら瞬間的に感じさせる力をもっていて、そこを捉えた南の批評眼に感心しつつまた笑ってしまうのだ。  そして、すべての「本人」たちと向きあって爆笑、苦笑、失笑、微苦笑をくり返した後に感じるのは、体を張ってこんなことをやってしまう65歳の大人が同時代にいる愉快だ。南伸坊は本人術師として国宝にすべきだと、私は真剣に思っている。
2050年の世界 英「エコノミスト」誌は予測する
2050年の世界 英「エコノミスト」誌は予測する 官公庁の未来予測とその結果について分析した人の話を聞いたことがある。無残なものだ。予測のほとんどは外れていた。だからこんな本に意味はあるのか、と眉に唾して読んだのが『2050年の世界』。副題にあるように、イギリスの経済誌「エコノミスト」編集部による未来予測だ(なお、日本の「週刊エコノミスト」とは無関係)。  なんとこの本の最終章は「予言はなぜ当たらないのか」である。周到にも「外れます」と宣言しているのか、と思いきや、そうではない。過去の未来予測はことごとく外れた、でも本書は違うよ、というのである。  なぜ当たらなかったのか。悲観的だったからだ、と本書はいう。本書の未来予測はおおむね楽観的だ。  「人々は、もっと豊かにそして健康になり、人間同士の結びつきはさらに強くなる。より持続可能な社会になっているだろうし、生産性は向上し、より多くのイノベーションが起きるだろう」と「はじめに」にはある。  たとえば人口問題。過去の未来予測では、爆発的に増える人口が、食糧不足などさまざまな困難を引き起こすといっていた。本書も2050年、世界の人口は90億人を超えていると予測。でも、なんとかなるという。90億人が食べていくには食糧生産高を70パーセント上積みしなければならないが、過去40年間で世界の穀物生産高は250パーセント上昇したのだから、と。このように、過去の変化を観察して、約40年後の未来を予測するのが本書のやりかたである。  もっとも、楽観的なのは世界全体についてであり、日本だけに限ってみると、いまひとつさえない未来が待っているらしい。本書全体を見回しても、世界史上最も高齢化の進んだ社会になること以外に目立った記述はない。一人当たりGDPはアメリカの六割に満たず、イタリアにもロシアにも追い抜かれている。なんだかこの予測、当たりそう。 週刊朝日 2012年10月12日号
ペコロスの母に会いに行く
ペコロスの母に会いに行く 岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』はコミックエッセイ、つまり漫画による随筆である。この本を読んで、漫画というものがあって本当によかったと思った。漫画だからこそ描けるもの、漫画でなければ描けないものがある。  ペコロスは著者のペンネーム。小タマネギのことだが、体形およびツルツル頭が由来。このペコロスと母との日常がテーマだ。ペコロスは62歳、母は89歳。母は認知症で、グループホームにいる。さっきあったことはすぐ忘れてしまうし、はるか昔のことと現在とを混同することもある。日々起きることをユーモラスに、短い漫画で描いている。  たとえば、「不穏解消の処方箋」という八コマ漫画。ホームに行くと母は不穏(気持ちや言動が不安定で、穏やかでない状態)。ペコロスが車椅子を押すと、悪態ばかりついている。そこでペコロスは帽子をとって母に頭を見せる。すると母は息子だと気づき、「また立派にハゲてェ」と上機嫌に。ペコロスは「ハゲてて良かった、とシミジミ思った」という。認知症になった肉親について語るのはつらいことだが、こうして漫画にすると、たんにつらい・悲しいだけではないものが伝わる。  母の89年の人生にはいろんなことがあった。それが認知症の症状のなかで噴き出してくる。息子は正面から受け止め、ユーモラスな漫画に転換する。なんと素晴らしい。  感動と同時に、介護というものの困難さも痛感する。施設に預けているので「介護という言葉は縁遠く畏れ多いと思っていた」と著者はあとがきで述べている。在宅介護が理想で、施設に頼るのは良くないといわんばかりの風潮があるのだ。和田秀樹が『人生を狂わせずに親の「老い」とつき合う』(講談社+α新書)などで述べているように、在宅介護至上主義が多くの人を苦しめている。介護施設をもっと拡充しないと、大変なことになる。

特集special feature

    びっくり観察フィールドガイド こびと大百科
    びっくり観察フィールドガイド こびと大百科 小学校では新学期がはじまったが、8月のベストセラーランキングを見ていてどうしても気になったのが、この『こびと大百科』だった。しかも、再登場。早々に入手してみると2008年の刊行とあり、今年の6月時点でなんと35五刷となっていた。  写真と絵を多用したオールカラーのこの本、未見の方には、たとえば「クワガタ大百科」といった内容を想像してもらうといいかもしれない。クワガタでなければサイ、あるいはペンギン。生息域別に分けて、それらの外見的な特徴や生態を紹介する大百科の編集方法がそのまま踏襲され、21種類もの「コビト」が登場する。  また、副題にあるとおり、この本はコビト観察のガイドブックとしても活用できる。服装や持ち物からはじまり、各コビトがどのように隠れ、動き、獲物を捕るのか、脱皮した抜け殻はどんなものかなど、注意すべき点はすべてビジュアル付きで解説されている。  なお、それぞれの写真にはちゃんと立体のコビトが写っている。クサマダラオオコビト、カクレモモジリ、ツチノコビト、イケノミズクサ、ホトケアカバネ……。いわゆるキモカワイイ(気持ち悪いけど可愛い)とも違う、すっとぼけた無気味さを漂わせるコビトたち。もちろん、すべて作者の創作。紙粘土で作ったと思われるそれらのコビトは、しかし、ひょっとしたら本当にいるのではと期待させる奇妙な魅力を放っている。もしも小学校低学年の頃にこの本があったら、私はきっと、コビト探しに出かけただろう。  やるからには徹底して真面目にふざける。このパロディの基本精神に則ってコビトの生態を具現化してみせた作者は、見えない世界に潜む別世界の可能性を子どもたちに伝える。別世界への探検はもともと子どもが得意とするところ。そして探検は夏と相性がいいから、来年の夏休みになったら、この本は再びベストセラーランキングに登場してくるに違いない。

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