AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

「話題の新刊」に関する記事一覧

中島ハルコの恋愛相談室
中島ハルコの恋愛相談室 フードライターの菊池いづみがパリで出会った厚かましい女──それが中島ハルコ。「喋らなければ美人」の52歳バツ2、IT関係の女社長で、金遣いも人使いも荒い。けれど不思議なことに、ハルコの周りには人が絶えない。  本作は、毎回ハルコが持ちかけられた相談を解決していく1話完結もの。「不倫がやめられない」「息子が大学を辞めてミュージシャンになろうとしている」「親が結婚に反対している」……ハルコは老若男女の悩みを、時には適当に、時には激怒しながら遠慮なくぶった切る。おばさんヒロインが活躍する小説であるのと同時に、林真理子の人生相談エッセイ的な側面もある作品だ。  けっして友達にはなりたくないが、遠くで見ていると愛しく思えるハルコ。モデルとなっているのは、エッセイにもよく登場している林真理子の友人の女性。林の辛口な人生観が加わって、毒々しく気持ちのいいヒロインが生まれた。図々しさだけではなく、弱さを見せるシーンもあり、「かわいいところもあるじゃないか」と思わされてしまうのがにくい。
ネット検索が怖い 「忘れられる権利」の現状と活用
ネット検索が怖い 「忘れられる権利」の現状と活用 インターネットが普及する現在、ウェブにおける個人の誹謗中傷やプライバシー情報流出は誰にでも起こりえる状況となっている。本書はIT分野を専門とする弁護士による、ネット検索被害の入門書だ。  本書を読む上で是非知っておきたいのが「忘れられる権利」という新語だ。ネットから個人の情報を削除させ、人から忘れてもらう権利のことで、2014年にはEU司法裁判所が同権利を参照し、検索大手のグーグルに検索結果削除を命じる判決を下した。著者はこの事例を参考に、同年国内で同種の判決を勝ち取った。検索被害対策は今や世界全体で喫緊の課題なのだ。  ネット上の記事削除/発信者特定にかかる費用・期間や事例紹介など、具体的な説明が充実しているのもポイントだ。さらに、SNS上での個人情報管理など「被害者」とならない方策についても徹底解説。現在進行形で問題に悩む人々はもちろんのこと、ネットを利用するすべての読者にとって第一線の「実用書」といえる。
亡き王女のためのパヴァーヌ
亡き王女のためのパヴァーヌ 第1回日本翻訳大賞の受賞作『カステラ』の著者による初めての恋愛小説。冷蔵庫に「人格」を認め、人がタヌキになってしまうなど、「韓国文壇の異端児」としての存在感を強く印象付けた『カステラ』とは打って変わって、本書では正統な愛の物語が展開される。  80年代半ばの韓国を舞台に、恋に落ちた男女の初デート、誤解、別れ、再会からのハッピーエンディングまで、きらきらと輝く青春ラブストーリーが描かれる。しかし、普通の恋愛小説とは大きく異なる点がある。ヒロインが「ブス」なのだ。すれ違った人に笑い転げられるほどの醜さ。デート後の彼氏に「恥ずかしくなかったですか?」と気を使うほどの醜さ。最も輝いている瞬間のはずが、「彼女」の場合は闇だけがどんどん深まっていく。「僕」はそんな彼女をありのまま受け入れる。「人間は失敗作か成功作かという以前に、ただ『作品』としてだけでも価値があるのではないか」と。
太宰治の辞書
太宰治の辞書 主人公の〈私〉は、出版社で文芸書を担当するベテラン編集者。大の本好きだ。太宰治の小説「女生徒」を読むなかで、女生徒が引いた辞書、すなわち太宰治の辞書は何だったのか? 最後の一文「もう、ふたたびお目にかかりません」とはどういう意味か?など、さまざまな疑問を抱く。それら一つひとつを丁寧に調べ、真相に近づいてゆく。  本書は、著者のデビュー作『空飛ぶ馬』からつづく〈私〉シリーズの最新作。1998年発売の第5作から、17年の時を経て刊行された。  現実の世界と同じだけ歳を重ねた登場人物たちとの再会に、うれしい驚きを感じる読者も多いだろう。 「小説は書かれることによっては完成しない。読まれることによって完成するのだ」と本文にあるように、〈私〉によって丁寧に読まれた小説たちは新たな輝きを持ち始める。まさに「本のための本」なのである。
昭和「娯楽の殿堂」の時代
昭和「娯楽の殿堂」の時代 日本じゅうがイケイケだった、高度経済成長期。そのイケイケ感の“増幅装置”のように、首都圏に大型娯楽施設が次々と誕生した。  象徴的な施設のひとつが、東京湾を埋め立て建設された、船橋ヘルスセンター。浴場だけではなく、プールに歌謡ショー、野球場にテニスコート、飛行場(!)まで。その様を、当時、開高健は、「巨大なステテコの共和国」と表現した。競馬場やボウリング場、大劇場に大型キャバレーも。首都圏の風景が一気に変貌していく時代に、都市の流行や移り変わりを伝えてきたマーケティング誌「アクロス」の編集長でもあった著者が切り込んでいく。  バブル以降、モノを消費することが大切だった時代は終わったいっぽうで、同じような巨大ビルやチェーン店で開発される近年の東京は、こぢんまりした「つまらない」都市になっていると指摘する。パワフルに、それこそ“ノリ”で造り上げられた、本書に登場する「娯楽の殿堂」が漂わせる、やたらに楽しそうな極彩色オーラの前には、2020年に向けた開発の縮小ムードが、かなり色あせてみえる。
狂気の科学 真面目な科学者たちの奇態な実験
狂気の科学 真面目な科学者たちの奇態な実験 「真面目な科学者たちの奇態な実験」という副題が素晴らしい。本書では1600年以降の科学者たちの100の実験を取り上げているのだが、驚くほど怪しい実験ばかりなのである。  処刑された囚人の首を生きた犬の循環系につなごうとしたり、死産児の遺体を放置して屍肉食の昆虫がたかる順序を調べたり、黄熱病の感染経路の研究のために患者の尿を塗り、嘔吐物を摂取したり。常軌を逸した行動ばかりだが、見え隠れするのは研究者たちの自説への自負である。  とはいえ、腹を抱えてしまう実験も少なくない。デニス・ミドルミストは個人の私有空間を調べるのに小便器で用を足している人間の隣に人を立たせた。デヴィッド・L・エクスラインらは性犯罪の捜査に役立てようと、性行為の間に起こる陰毛の移行本数を調べた。  価値を見出せない試みが多いのは事実だ。著者も「無意味なものもあるのは否定しない」とまで言い切る。ただ、常識外の彼らの実験の積み重ねがなければ、我々の暮らしが別の形になっていたのもまた事実だろう。

この人と一緒に考える

科学の危機
科学の危機 原発事故、STAP細胞問題など、近年国内では科学不信を招く出来事が続いている。本書はこうした状況を前に、科学思想史の研究者が「科学批判学」という新たな学問領域の確立を試みたものだ。  科学の変容はどこで起こったのか。職業としての科学者が誕生した19世紀以降の歴史を振り返り明らかになるのは、研究成果が個人主体から複数人による生産体制へと変化を遂げる中での「科学者のサラリーマン化」だ。知的分業化が進む中、研究者には計画全体のなかで自ら従事する仕事の意味が見えづらくなる。その最たるものが原爆開発計画であった。「科学批判学」はそうした危機感に誕生の契機を求めるもので、先駆者として水俣病の市民講座で名高い宇井純、政府からは距離を取り原子力研究を進めた高木仁三郎などが紹介される。たとえ少数者でも、彼らが持つ社会正義や倫理観は、本来科学が持つ公益性と重なると著者はいう。ラディカルな問いかけに満ちた領域であるからこそ、「科学批判学」の構想がお題目で終わらないことが望まれる。
酔ひもせず 其角と一蝶
酔ひもせず 其角と一蝶 2007年に時代小説家としてデビューした田牧大和氏の新刊は、江戸を舞台に俳諧師・其角と絵師・朝湖(後の英一蝶)の2人組が、吉原の闇を暴くミステリーだ。松尾芭蕉の弟子で、一門の要と言われながら、どこか居場所がない疎外感を拭い切れない其角は、豪放磊落な性分で、頭でなく心で思案し、理屈ではなく情で動く、江戸で一番の粋人で絵師の朝湖とやけに気が合った。 「屏風の犬が動いた」と言い残して、次々と姿を消していった遊女たちを救うため、奔走する其角と朝湖。田牧氏の得意とする、粋で、リズムのある会話により、物語はぐんぐん進んでいく。  謎解きの中に、いくつもの“情”が交わり、深い余韻を残す。哀しくも美しい文章には、笑いも涙もある。  唯一無二の親友でありながら、なれあいにならず、気持ちのいい緊張感がみなぎる2人の言葉と行動が、清々しく描かれている。読後、自分も親友とサシで呑みたくなる、そんな気持ちになる小説だ。
槐(エンジュ)
槐(エンジュ) 『土漠の花』や『機龍警察』シリーズ、『コルトM1851残月』などで次々に文学賞を受賞している作家、月村了衛。本書は月村の最新作にして、直球かつ豪速球のエンターテインメント小説だ。  水楢中学校の野外活動部に所属する7人の中学生たちは、脇田教頭と臨時女性教員の由良の引率のもと、恒例の合宿に訪れていた。しかし、武装した犯罪集団「関帝連合」がとある目的からキャンプ場を占拠。薬物を濫用した半グレたち、中国拳法を使う少年、屈強な黒人のジョンとボブ……暴力が襲い掛かる絶体絶命の状況の中、由良は正体を現す。実は彼女は、〈最後の赤軍〉〈最後の闘士〉の異名を取る国際テロリスト・三ツ扇槐だった──。  極限の状況下で、誰もが大きく変化する。ヒロインの由良や子どもたちはもちろんだが、印象深いのは〈学校一嫌われ者〉と称される脇田教頭。彼はかつて教育熱心な教師だったが、ある出来事を機に情熱を失っている。彼らは戦い、自らの誇りを手に入れる。その瞬間、読者の心は強く動かされるはずだ。
誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録
誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録 1970年代から東京・浅草に通い、下町に拠る普通の人々の肖像を撮り続けた写真集『PERSONA』(2003年、土門拳賞)ほかで国内外に評価が高い著者のエッセイ。雑誌連載の36編を収めるが、見事な筆遣いだ。  月山の麓で生まれ育ち、長じて写真家を志す。以来、何を、なぜ、どう撮ってきたか。資金稼ぎの職業遍歴、インド往還、そして浅草……。原風景に重なる懐かしさを誘う人、風物との出会いを求めて今に至った軌跡を本書に知る。いずれも短編小説の趣だ。  表題作は台湾、路地奥の飯屋が舞台である。阿吽の呼吸で働く主人、妻、舅姑。隅で教科書を広げる幼い娘。著者の体内記憶装置は、各場面を絶妙のアングルでとらえる。言葉化されたその連続はやがて物語性を帯びてくる。蘇る、かつて日本にもあった家族労働の様。  巻末の書き下ろし「[番外篇]一番多く写真を撮らせてもらったひと」は哀切。『PERSONA』の主役さくらさんの行き倒れに近い死を悼む。居場所の路傍に献花の山が出来たという。
吉原まんだら 色街の女帝が駆け抜けた戦後
吉原まんだら 色街の女帝が駆け抜けた戦後 昭和26年暮れ、東京の下町で夫と金物屋を開いていた女性が、夫がばくちのカタに入手した吉原の家に移り住んだ。おきちこと、高麗きち。本書刊行時で94歳。あらゆる水商売を手がけ、「この商売はよ、人殺しを使えるようじゃなきゃやってらんねーんだよ」と喝破する。  著者はそんなおきちの元に通い、松の葉を水に漬けた特製ドリンクを飲んだりしながら、四方山話に耳を傾ける。昭和30年代、おきちのキャバレーでは、青大将を女性器に入れて客の間を歩く女性がいた。蛇と愛し合っているという。写真が載っているが、生きることの哀しさと靱さが伝わってくる。  おきちの家には、吉原の史料が大量にある。著者の関心も自ずと、風俗の近現代史へ向かう。関東大震災、戦争、赤線廃止、改正風営法施行……。業界が逆風を乗り越える姿からは、性が人の根源にある様子がにじむが、昨今の吉原は閑古鳥が鳴いているという。複線的に、上野の浮浪児から一大ソープチェーンを築いた男の一代記も描かれる。ロールスロイスに乗る彼の日課は公衆便所の掃除。示唆に富む。
よく晴れた日にイランへ
よく晴れた日にイランへ 個人旅行の草分け的存在である著者が、24年ぶりにイランを旅した。1カ月間、名所旧跡を経めぐり、奇景を追い、かの国の人々と触れ合った、大人のバックパック紀行である。  旅の前、珍しく周囲の反対にあった。殊更に危険視する風潮に「イランとイラクの区別がちゃんとついているのか」と著者は小さく苛立つ。実際、これまでの旅と同様、往復の航空券を購入し、現地で宿と移動手段を確保しながら、旅は粛々と進むのである。特に「この風景が見たい」とネットで拾って持参した画像を手に聞き込み、タクシーと交渉して辺境の地に赴く情熱には脱帽。グラフィックデザイナーでもある著者が、カメラに収めた精緻なタイルや絨毯が、旅ごころをくすぐる。  イランは果たしていいところか、ヤバい国か。本書は、著者の旅行ルートや泊まった宿の情報を、詳細に提供するのみだ。その上で、IS(イスラム国)の影響などにもふれ、「今日旅ができたところが、明日旅できるとは限らない」と結ぶ。だから行くのか、やめるのか。すべては旅人の自己判断に委ねられる。

特集special feature

    原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年
    原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年 広島・平和記念公園の片隅にたたずむ小さな塚を「原爆供養塔」という。1945年8月6日の原爆投下による死者のうち、無縁仏となった約7万人もの遺骨が納まる場所だ。  本書は広島テレビ出身の記者による、供養塔をめぐるノンフィクションである。物語は佐伯敏子という女性を軸に展開される。敏子は原爆をきっかけに母や親戚を亡くし、死者に向き合いたいと昭和33年から長きにわたり供養塔の清掃を続けた。13年目には塔の合鍵を手渡されるようになり、塔内のノートをもとに遺骨の引き取り手を探し始める。彼女と出会った著者もまた、当時を知らぬ人間として「『ひとり』の死者に徹底して向き合わなくてはならない」と、納骨名簿を手に遺族探しを決意する。通名(日本名)と朝鮮名という二つの名前を持ち現在も遺族を探す在日韓国人の女性、本籍は沖縄にあれど軍人として広島で亡くなった男性……。名簿からは決してわからない数々のライフヒストリーが取材から浮かび上がる。戦後70年、原爆経験者が減少する中、資料価値は大きい。
    流
    若者がひとり荒野で脱糞しようと力んでいる。このとぼけたプロローグから、ラストの展開を誰が想像できるだろうか。予想外の展開が続く冒険小説だ。  1975年春。台湾の総統・蒋介石が死去し、国中が喪に服していたある日、台北市の高等中学校2年生で17歳の主人公は、風呂場で祖父の遺体を発見する。祖父はなぜ誰に殺されたのか。不良仲間との友情、幼なじみとの恋。大人へ成長していく過程を描きつつ、ヤクザとのカーチェイスがあるかと思えば、大量発生したゴキブリに震えあがるシーンがあるなど、軽妙で振り幅が大きいのが本書の特色。  祖父の事件を忘れかけた後半、物語は怒濤のうねりをみせる。中国大陸にルーツを持つ祖父はそこで何をしたのか。村がまるごと消滅した日のことが解き明かされる。主人公の目線が回想的で、未来予告が入り込むあたりはスティーブン・キングを思わせる。少年期を台湾で過ごした著者による、抗日戦争から国共内戦へいたる裏面史を物語る筆致は、ポップにして重厚。とりわけラスト20頁は圧巻だ。
    ICカードと自動改札
    ICカードと自動改札 駅業務の省力化を目指し、自動改札が最初に導入されたのは、1967年。2001年にはSuicaが導入され、ICカードの時代が訪れた。本書はそんな自動改札とICカードの歴史と背景、しくみなどを、Suicaの開発に携わった、元JR東日本IT・Suica事業本部副本部長の著者が解説する一冊。  自動改札の機種のひとつ〈新幹線型〉には「プール部」という切符を一時的に保持する箇所があり、複数枚の切符の磁気情報を一度に処理することができる。乗車中に運賃値上げの日の午前0時を過ぎても、最終電車までは前日と判定される。かつては改札で駅員に見せるだけでよかった定期券を、自動改札に投入するためいちいち取り出して投入しなければならない煩わしさが、ICカード式開発のきっかけのひとつだったなど、雑学的な知識も得られる。  ICカードは、電子マネーやクレジットカードなどの機能も盛り込まれ、ますます進化を続ける。“かざしてピッ”も、やがて懐かしい光景になっていくだろうか。
    キラキラネームの大研究
    キラキラネームの大研究 「澄海(すかい)」「在波(あるふぁ)」「心愛(ここあ)」。これまでの漢字のとらえ方では読むのが難しい「キラキラネーム」が日本に溢れている。「親のモラルが低下した」「日本語が崩壊する」との指摘も多い。  明治期にも「紅玉子(るびこ)」「元素(はじめ)」など難解な名前は少なくない。難しい字面は日本語が和名に漢字を当てはめて磨き上げてきた言語だけに、古代からの宿命であった。キラキラネームが先祖返りしたと見る向きもあるようだが、著者は断層を指摘する。難解な漢字が近代化の弊害になっているとの主張が明治期に広まり、戦後、漢字の制限が進んだことが転換点になったという。字源や字義への関心は失われ、漢字軽視の文化が半世紀熟成された結果、響きと字面だけのキラキラネームが大繁殖する。外国人が好む漢字の変なタトゥーを笑えないとの指摘はもっともである。  嘆いてばかりでも仕方がない。本書では難読なキラキラネームを読む法則をいくつか紹介している。現状を憂いつつも、不思議と読めてくる。 ※週刊朝日 2015年6月12日号
    人のかたち
    人のかたち 本書は歌手、アイドル、映画監督など、多彩な分野で活躍する人物を描いたノンフィクション短篇集だ。  氷川きよし、泉ピン子、北野武、山田太一、三遊亭円楽ら、いずれも有名人だが、マスメディア越しでは伝わらない別の顔がルポから浮かび上がる。例えばジブリ映画の音楽で知られる久石譲。「国民的作曲家」の呼び声も高い彼だが、作曲の原点は難解な現代音楽。ニューヨーク同時多発テロ以降、社会への危機感をミニマル音楽やクラシックと結びつけた曲制作を手がけているという。「脱原発」の俳優として知られる山本太郎の章では、東日本大震災以前はサーフィンに夢中だった彼が反原発デモへの参加を決め、SNSで誹謗中傷を受けたり、事務所を辞めるなど、激動に巻き込まれる過程がつぶさに描かれる。  今村昌平ら何人かは既に亡くなっている。初出は「AERA」などの雑誌のため、時間とともに忘れ去られてしまいがちだ。本としてまとまることで、彼らの「声」が歴史としてよりはっきりと刻まれた。
    沈黙を聴く
    沈黙を聴く 拾ってきた石ころを眺め、壁の小さな染みにこだわり、殺人者の内面を探究することからスタートした秋山駿の批評活動は、その後、『歩行と貝殻』『内的生活』『舗石の思想』『砂粒の私記』といった特異な「私批評」を展開した。  その一方で、作家・作品論、中原中也や小林秀雄、織田信長などの評伝を著し、文芸時評も担当した。他に類のない独特の批評精神を持った貴重な文芸評論家であったが、2013年10月、食道がんで亡くなった。遺稿となった長編エッセイ『「死」を前に書く、ということ』(講談社)は、読者の魂を強打するほどの迫力に満ちたものだった。  本書は、晩年に雑誌や新聞に発表されたエッセイや評論を収録したもので、文学や小説だけでなく、政治からスポーツ、芸能、戦時の回想や日常の感想まで、範囲は幅広い。どのテーマにも味わい深い秋山節の音調が流れ、最期まで試み続けた「私とは何か」の問いが顔をだす。  中野孝次、吉村昭、小川国夫、三浦哲郎、安岡章太郎らへの追悼文も収められている。その文章は「人生」の深淵を覗くようだ。

    カテゴリから探す