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「話題の新刊」に関する記事一覧

一流患者と三流患者
一流患者と三流患者 医療の点では日米の差はそれほどないが、患者の意識の差は大きい。私自身アメリカに18年住んで、帰国して一番気になったことは患者が医師の言いなりになっていることだった。  本書によると、一流患者とは「医者まかせにせず、最適かつ最良の医療を医者から引き出せる患者」であり、二流患者とは「医者の言うことを鵜呑みにする患者」である。日本の患者のほとんどはまさにこの二流患者であるだろう。ちなみに三流患者とは文句ばかり言う患者のことだという。  アメリカでは「医者と患者はパートナーであり、対等である」という意識は当たり前であるが、患者力を高めるにはどうしたらいいのか、誰もができるやり方がわかりやすく書かれている。後悔するのは医師ではなく、患者であることを忘れてはならない、と著者は言う。
熟年売春 アラフォー女子の貧困の現実
熟年売春 アラフォー女子の貧困の現実 女性が体を売れば誰もが高収入を得られた時代は昔の話になったそうだ。ハダカの世界でも格差は進行し、二極化が鮮明になっている。本書には頑張っても1日1万円以下、月収10万円程度の世界が広がる。  登場する女性の境遇は様々だ。大学を卒業して結婚して社会のレールに乗っていながら、家計を維持するために体を売る主婦。性産業以外の従事経験がなく、加齢とともに市場から退出を迫られ、その日暮らしをする50代。 「身勝手な選択の末路」と切り捨てるのは簡単だ。だが、生活を営むための最終手段として体を切り売りしてもなお、貧困から抜け出せない社会は過酷だ。  売春の是非論は別に、普通の女性が売春の世界に押し出され、裸になったとしても生きていけない日本の現実にどう向き合うか。著者の投げかけは重い。
テロの文学史 三島由紀夫にはじまる
テロの文学史 三島由紀夫にはじまる イスラム世界に詳しい文芸評論家の著者が、三島由紀夫の「死に方」を軸に、その後の小説家たちがテロを描いてきたことの意味を探った。  著者は三島の影響を受けたというフランスの作家ウエルベックが20年以上も前に小説の中で、イスラム過激派の国際テロを予言していたことを紹介。1970年11月に三島が東京・市ケ谷の陸上自衛隊・総監室で割腹自決した事件をテロとみて、その内実を考察する。さらに村上春樹や桐野夏生、高村薫、町田康、村上龍らのテロに関連した小説を分析し、三島の『金閣寺』や『奔馬』などに分け入る。  終章の「生首考」では総監室の床に置かれた三島の生首とイスラム過激派がメディアに晒す生首の関係を問う。脱線が多いが、その縦横無尽さが本書のテーマの不気味さを緩和している。
食べる私
食べる私 「食」には人間の核心が見える──という発想の下、著名人29人に行われたインタビュー集。毎日何を食べ、どんな生活を送っているのか。あくまで具体的な一つひとつのエピソードから、当人の人生や職業が色濃く立ち上る。  食と肉体が密接に結び付くのがアスリートだ。74歳のときでも、週1度は山を登ったという登山家・田部井淳子は登頂時、ごはんや味噌汁など慣れたものを食べる。山では「食べる人は動ける人」。大勢に囲まれて過ごすタレントはどうか。光浦靖子は「もやしだらけの食事」だった過去を経て、金銭に余裕の生まれた現在までの変遷を語る。飲み歩きの日々かと思いきや、テレビの仕事は「どろどろに疲れる」と、自宅で一人の食事を好む。些細な話にも人の状況や願望が映し出されており、思わずわが身を振り返る。
岐阜を歩く
岐阜を歩く 2006年からチェコやスロヴァキアで暮らす50代の著者のルポ。地味な仕立てだが、複眼的な視点に基づく日本の「現在」が立ち上がってくる。  笠松町の名菓「しこらん」は、老舗の主人が亡くなり、2010年に450年余の歴史に終止符を打つ。だが、老舗の関係者や地元の菓子組合が試行錯誤のうえ復活させた。それを可能にしたのは餅つきを共にするような結束の強さであり、著者はそこに本物の町おこしを見る。  和紙、織部焼、鵜飼い、ギター、ゴキブリだんご、ツチノコ、スーパーカミオカンデ……。岐阜に息づく奥行きを楽しめる。「ニッポンすごいぞ」とは違う次元で、人々の底力が伝わってくる。それは、どの県にもあるのだろう。終章は欧州のルポ。スロヴァキアの世界遺産の村の、観光化になびかない姿もいい。
銅版画家 南桂子 メルヘンの小さな王国へ
銅版画家 南桂子 メルヘンの小さな王国へ 南桂子の名前を知らないまま、彼女の銅版作品のメルヘン的な世界に親しみを覚えた人は少なくないだろう。少女や小鳥、樹々……。42歳でパリに渡り、70歳を過ぎて帝国ホテルの全客室に作品が飾られた。明治生まれの銅版画家の作品群と生きざまを、日記や縁のあった人々の回想から紹介する。  南の描く、幸福と哀しみが静かに溶け合うような目をした少女に、「人は自身の孤独を見るのではないか」と有吉玉青。南と同時期にパリに滞在した宮脇愛子は、純真で柔らかな人柄が作品にそのまま表れていると述べつつも、人を辛辣に見て、「人間なんて誰も信じられやしない」と偽悪的に話した一面を回想する。南のパリ時代の日記には、「身にまとい寒さをふせぐものがあれば充分也」とある。脇目もふらず制作に打ち込む姿が美しい。

この人と一緒に考える

彼女に関する十二章
彼女に関する十二章 約60年前にベストセラーになった伊藤整のエッセイ『女性に関する十二章』の章立てに沿って書かれた長編小説だ。夫が仕事で必要としたのをきっかけに、妻の宇藤聖子も同書を読み始めるところから物語はスタートする。  聖子はパート先で、眼鏡からパソコンまで器用に修理する元ホームレスと知り合い、「お金を持たない生活」に触発される。初恋の男性の遺児が現れ、一生童貞と危ぶんだ息子が突然、彼女を連れて帰宅する……。当初は古臭いものに映っていたエッセイが、日々の雑事のなかで響き合い、途中から聖子のなかで輝きを放ち出す。  田山花袋の『蒲団』をもとにした『FUTON』でデビューした著者の再生手法が冴えを見せる。映画「男はつらいよ」をめぐるやりとりがいい気配を醸し、人生の意味を考えさせられる。
哲学者に会いにゆこう
哲学者に会いにゆこう 現代に生きる哲学者は、どんな生活をしているのだろうか。本書は大学で働く傍ら、哲学の雑誌を発行する著者が、大御所から若手まで哲学徒をたずねたインタビュー集だ。  注目すべきは思想内容のみならず、彼らの生き方にある。環境倫理学者・鬼頭秀一氏は大学院博士課程まで薬学を学んだ後、科学哲学に専攻を変えた。40歳を過ぎて世界遺産・白神山地にて聞き取り調査に関わったことを機に「現場の声」から倫理学を立ち上げる、新たな試みに関わる。漫画家・前邑恭之介氏は幼少時代に交通事故を経験。大学卒業後就職するが、身体が一部変わっても「私が私である理由は何なのか」を追求し、作品制作を続ける。何かにつまずいた時、哲学的な問いと出会うチャンスはどこにでもある。その機会の生かし方は自由だと教えてくれる。
世界の名前
世界の名前 ひとには、名前がある。当たり前のことだ。しかし、そのあまりにも当たり前に感じる「名前」にも、親の思いが込められた名前、一族に代々伝わる名前、地域や民族独自の法則が込められた名前など、いろいろある。なぜその名付け方なのか、国や文化、時代を飛び越えて、名前にまつわる不思議や謎、そもそも「名前」って何なのか。あらためて考えると、様々な知りたいことが浮かんでくる。 『岩波 世界人名大辞典』を発行する岩波書店辞典編集部、いわば名前のエキスパートが編纂した、世界じゅうの名前にまつわるエッセイの数々。  古代文明の時代から、現代のキラキラネームの時代まで。世界各国各地域、人類の歩みとともに広がってきた、名前という広大すぎる海へのガイドブックのようにも感じられた。
いいかげんに、生きる
いいかげんに、生きる 人気の心理カウンセラーによる、てきとうに生きることを勧めるメッセージ本。  格言は、ときに心の枷になる。自身の幸せよりも、苦労することが目的になっていないだろうか。著者は、他人に甘えて全てをまかせようと提言する。木村秋則の『奇跡のリンゴ』では、それまで木の生育に必要と思われていた草取りなどの手間の全てを排除し、無農薬無肥料の林檎を実らせた。それと同じように、部下など他人を成長させるには、手をかけない「放牧」が良いのだという。そして自身は小さくまとまらず、我慢をやめて原生林のように生きよう、と。  あえて手を抜いてみるとたくさんのことが楽になり、初めて世間の人のやさしさに気づくことができるという。添えられた写真にも心がなごみ、ほっと息をつくことができる。
ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年
ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年 同名の映画のために作られた100頁余りの冊子。だが内容は濃く、拳闘に関心のない人でも主人公の辰吉丈一郎に興味を抱かせる構成だ。 「どついたるねん」の阪本順治監督が、1995年、25歳の時から、次男がプロテストに合格した2014年11月、44歳の時まで、辰吉の20年間を撮り続けた。いまだ現役を続け、トレーニングを欠かさない辰吉の映画での全発言録のほか、プロデューサーや撮影スタッフらの語りのいずれも密度が濃い。なかでも阪本監督のロングインタビューが面白い。穏やかに訥々と語る辰吉が国語辞典をいつも鞄の中に入れていること、それが父親譲りであることを明かし、辰吉を「考える人」だと評する。  ドキュメンタリーとして本作が異色なのは、まったくといっていいほど第三者の証言を交えず、対話だけで進むところにある。リングでの映像も最小限に抑え、常套の手法をあえて外している。10分ごとにロールチェンジを強いられるフィルムでの撮影は当初4、5年で終わると考えていたという。辰吉でなければ、こうはならなかったにちがいない。
エロティック日本史 古代から昭和まで、ふしだらな35話
エロティック日本史 古代から昭和まで、ふしだらな35話 日本人がかつて性におおらかだったのは知られた話だが、果たしていつからなのか。本書は、近代以降の性風俗史を専門にしてきた著者が古代まで手を広げて完成させた性の通史だ。  イザナギとイザナミがどのような体位で交わったかを検証し、夜這いを始めたのは大黒さまと突き止め、古代の神々は混浴の果ての奔放な営みで生まれたと指摘する。  中世以降も祭りに伴う男女の雑魚寝や、夏の風物詩の盆踊りは男女が交じり合う乱痴気騒ぎのレジャーだったからこそ広く浸透したという。明治政府が風紀の乱れを懸念し、盆踊り禁止令を出したところ暴動が起きたというから、民衆のエロへの執念はすさまじい。  もちろん日本人が年中、みだらな欲望にまみれていたわけではない。非日常で性を解放することが、規範意識や同調圧力が強い日本では、社会の重要な調整弁だったことを本書は示唆する。明治期の西洋化でエロスが一気にタブー視され始めたことは、地域共同体が経済だけでなく性で強固に結びついていたがために、その崩壊を招いたとも言えるのでは。

特集special feature

    失敗すれば即終了!日本の若者がとるべき生存戦略
    失敗すれば即終了!日本の若者がとるべき生存戦略 人気ブログ「デマこいてんじゃねえ!」が本になった。少子化や世代間格差、働きかたなど、現代の若者が直面するテーマについて、「1985年東京都生まれ」以外のプロフィルを明かさない著者の鋭いメッセージが詰まっている。  日本の少子化の原因を考察した章では、少子化を経験したOECDやアジア諸国のデータを参照し、その原因とされる女性の社会進出や識字率向上は、少子化傾向とあまり関係がないと指摘する。多くの国で先立って起きていたのは、乳児死亡率の低下だった。では、あえて子どもを少ししか残さないという、一見不自然な人間の行動の理由は何か。人間の生殖パターンや生産手段の変化を軸に、SF的想像力を駆使して結論を導いていく。  その一方、仕事や出産に悩む友人たちとの会話を引き、「いい人生」や「正しい生き方」をめぐる思索を小説のような文体で綴る章もある。一貫するのは、個人や社会にとって実現可能な解決策を示そうとする姿勢だ。このままでは現役世代がつぶれてしまうという危機感と、同世代へのエールが伝わってくる。
    科学の困ったウラ事情
    科学の困ったウラ事情 時にメディアで華々しく取り上げられるも、内情は見えづらい科学の世界。生命科学の研究者が近年の変化を総括した。  かつて競争とは無縁だった学問の世界だが、科学技術の振興が国家政策となり、近年とみに「商業主義化」していると著者は警鐘を鳴らす。顕著な変化は、大学の運営費が年々減り、代わりに競争的資金が増えていることだ。そのため研究者はとかく具体的な成果を上げるべく追い立てられることになる。その不幸な帰結の一つは、研究不正だ。中でも無視できないのが「不適切なオーサーシップ」問題だろう。論文の「著者」は本来、研究発案から成果公刊まで一連の過程に関わる存在と国際的基準で定められている。しかし掲載確率を上げることなどを目的に、研究室のボスや共同研究者を「空著者」とする慣習が「見かけ上の多作研究者を生んでいる」と著者は指摘する。その一部を税金で賄う科学は、れっきとした社会的取り組みだ。「権威ある論文」を批判的に読み解く視点を養うためにも、研究者か否かを問わず手に取って欲しい。
    チェーホフ 七分の絶望と三分の希望
    チェーホフ 七分の絶望と三分の希望 19世紀末に『かもめ』「かわいい」など数々の名作を残したロシアの作家チェーホフ。100年以上が経った今でも読まれ続ける彼の魅力にロシア文学者が迫る。  遺された作品や手紙などの資料から浮き彫りになるのは、「冗談好きの陽気な南方気質の持ち主」であるチェーホフのユーモアだ。例えば著者が「『ユーモア短編』の頂点」と評する「ワーニカ」。主人公ワーニカは、奉公先でひどい扱いを受けていることを田舎の祖父に伝えようと手紙を書くが、9歳の少年が必死に考え出した宛先は「村のじいちゃんへ」だった。この言葉は現代のロシア語辞典に「宛先不明のときにおどけて言う慣用句」として登録されているという。  医師でもあったチェーホフは執拗な喀血に見舞われながらも結核にかかったことを一向に認めようとせず、冗談まじりの言葉ではぐらかそうとする。作品も人生もユーモアを徹底したチェーホフの態度に好感が持てる。何よりも笑いを大事にしたチェーホフの魅力を存分に味わえる一冊だ。
    観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること
    観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること 「台本なしの映画づくり」と呼ばれる想田和弘監督のドキュメンタリー製作作法。テーマも、キャストも、撮影日数も決めないまま、一人でカメラを回し、音声を録(と)り、目の前で起きる出来事の「観察」にのぞむ。本書はそうした「観察映画」の最新作「牡蠣工場(かきこうば)」の製作過程を通じて、その独特の手法を明らかにしていく。  撮影中に何が起こるかは、監督自身にも予想がつかない。だからこそ、見たことをどのように映画にまとめるか、監督の「観察眼」が重要となる。今回も「牛窓(うしまど、岡山県)で漁師を撮影する」以外は何も決まっていなかった。現地では漁師や牡蠣工場の人々、そこで働く中国人労働者だけでなく、時にはよその飼い猫にもレンズを向ける。グローバリズム、高齢化、第1次産業の苦境……。映画を見た人がさまざまな解釈ができるよう、一つの意味に絞り込むことを避けながら撮影し、編集していく。  本書には監督へのインタビューのほか、監督自身によるコラム、ツイッターでの発言なども含まれる。「記録」とは何か、本の作り方そのものが問いかけているような一冊だ。
    地球のふしぎを歩こう
    地球のふしぎを歩こう テレビ番組の取材を通じて、地球のふしぎを体験してきた旅人の初めての紀行エッセイ。その場所の名前を聞いたり、写真で見たりしたことはあっても、実際に行くのが難しい「絶景・秘境」の旅20編がまとめられている。  子どもの頃の「雲に乗りたい」「空を歩きたい」という願いをかなえるため、オーストラリアでは、巨大なロール状の雲の帯「モーニンググローリー」の上をモーターグライダーで飛ぶ。塩の大地に雨がたまり、水面が鏡のような状態になるボリビアの「ウユニ塩湖」では、水面に立ち、空を歩くような気分で青と白の世界を体感する。さらに南極では砕氷船の上で年越しを体験し、元日に南極大陸に初上陸。興奮のあまり、つまずいて転んでしまう。  夢がかなった喜びと、想像を超える絶景に「私もこの惑星の一部なんだ」と著者は感動する。 「自分たちの住んでいる地球はこんなにも素敵なんだ」(「おわりに」から)。世界各地で様々な人に出会い、触れ合うなかで成長していく著者の言葉に引き込まれる。元気をもらえる一冊である。
    カルト村で生まれました。
    カルト村で生まれました。 伴侶を得て今は「ふつう」に暮らしているけれども、19歳まで、「所有のない社会」をめざす「カルトの村」で生活していた。35歳になり、子どもの頃の記憶を巻き戻して再生した「実録コミックエッセイ」だ。  著者の両親は、大学時代に理想を求めて村に入り、村で出会って結婚。著者に続き、妹を産んだ。「なんかおかしいぞ」。著者が村を異質と感じだすのは、地元の小学校に通い始めてからだ。村の子どもたちは集団で生活し、両親と一緒に過ごせるのは年に数回しかない。「まだ帰りたくない!!」と泣く場面はジンとくる。基本的にスパルタ教育で、体罰も日常的。お小遣いもない。すべての物が「共有」で、祖母からの贈り物でさえも没収される。  ひどい所に思えるが、有機野菜がふんだんにあり卵が食べ放題だったことや、村の子で一緒に「探検」などの外遊びをしたことなど、楽しかった時間も綴られる。理念のよしあしではなく、子どもの目に「理想郷」がどう映っていたかを知る貴重なドキュメンタリーだ。なによりユーモラスなタッチがいい。

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