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「生きていたら41歳。きっと孫も…」桶川ストーカー殺人事件から20年 被害者の父が語る思い
野村昌二 野村昌二
「生きていたら41歳。きっと孫も…」桶川ストーカー殺人事件から20年 被害者の父が語る思い
埼玉県上尾市の自宅の居間の一角には、詩織さんが好きだったヒマワリの花や、笑顔の写真がたくさん飾られている。今も命日には友人たちが来てくれるという(撮影/倉田貴志) 父親の憲一さん。「あっという間の20年でした」。二度とストーカーによる事件は起きてほしくないと語る(撮影/倉田貴志) 過去の主なストーカー事件(AERA 2019年3月25日号より) 全国の警察へのストーカー相談件数の推移(AERA 2019年3月25日号より)  ストーカー規制法が生まれるきっかけとなった、桶川ストーカー殺人事件から20年。警察が把握したストーカー被害は5年連続で2万件を超え、いまも増え続ける。娘を亡くして以来、講演を続ける父親に思いを聞いた。 *  *  *  埼玉県桶川市のJR桶川駅。西口駅ビル前に、いまも誰かがそっと小さな花束を供えていく。20年前、ストーカー被害を受けていた猪野詩織(いのしおり)さん(当時21)が、交際を断った男の仲間たちによって命を落とした場所だ。 「ずっと毎日毎日、いま詩織が生きていたら、と考えます。夢のある子に育ってほしい、そんな願いを込め『詩織』と名づけました。本当に家族思いのやさしい子で、生きていれば41歳。結婚して子どももいて……。私と妻は、孫の面倒をみているのではないかと」  父親の憲一さん(68)が静かな語り口で心の内を吐露する。同県上尾市の自宅の居間には、詩織さんの遺骨を納めた骨壺がある。いまだに墓に埋葬する気持ちになれず、憲一さんと妻京子さん(68)は居間に布団を敷き、毎晩一緒に寝ている。  1999年10月26日。  当時大学生だった詩織さんは、JR桶川駅前で元交際相手の男の兄やその仲間に刺殺された。交際を断られて逆恨みした男は事件前、仲間と共謀して詩織さんを中傷するビラを自宅周辺の電柱に貼ったり、憲一さんの職場に送りつけたりしていた。名誉毀損容疑の告訴を受理した警察が捜査に乗り出さなかったことや、調書の「告訴」を「届け出」と改竄し、告訴の取り下げを要請していたことが大きな社会問題となった。詩織さんの名誉を傷つけるような報道もされた。  事件はストーカー被害を見直す契機となり、詩織さんの死から約半年後の2000年5月、ストーカー規制法が超党派による議員立法で成立した。ストーカー行為を明確に「犯罪」と定め、警察による警告などの行政措置を盛り込んだ。法律は改正を重ね、現在はLINEなどSNSを使ったメッセージを繰り返し送りつけるといった行為にも規制の対象が広がっている。罰則はストーカー行為が懲役1年以下か罰金100万円以下、禁止命令に違反してストーカー行為をした場合は懲役2年以下か罰金200万円以下と、以前よりは多少厳しくなった。 ●全国のストーカー被害は、5年連続で2万件超  だが、さまざまな形でストーカーによる被害は続いている。全国の警察が把握したストーカー被害は17年に2万3079件と、5年連続で2万件を超え、ストーカー規制法が成立して以来、過去最多を記録した。殺人に至るような事件も後を絶たない(表参照)。  13年10月に東京都三鷹市の高校3年の女子生徒が元交際相手の男に刺殺された事件や、17年1月に長崎県諫早市の女性(当時28)が元夫に刺殺された事件も、被害者がつきまとい行為を警察に相談していたが、未然に防ぐことはできなかった。なぜいまも、被害は増え続けているのか。  ストーカー問題に詳しい常磐大学元学長の諸澤英道(もろさわひでみち)さん(被害者学)は、「これまで表に出にくかった被害が顕在化したことが背景にある」と見る。ストーカー行為から発展した凶悪事件がメディアで報道され、社会の意識も徐々に高まり、隠されていた被害が掘り起こされた結果だと言う。 「しかも、表面化しないものを含めると、5倍近いストーカー被害者がいると考えられます。山に例えると、支援を受けられるのは8合目から上にいる被害者、それが2万3千人という数なのです」(諸澤さん)  残りの被害者が駆け込める「受け皿」がほとんどないことが問題だと、諸澤さんは言う。各都道府県に被害者支援センターは置かれているが、積極的な対応に欠けることが多いという。かと言って、警察が全ての相談に応じるのは物理的に難しい。 「支援窓口の設置、日常生活の支援、住まいや仕事の安定……。被害者にとって最低条件となる支援をどこでも等しく受けられることが必要で、そのためには、都道府県レベルでの条例の制定が不可欠です。条例をつくることで、いままでNPOやボランティアに頼ってきた被害者支援を行政が担うようになる」(同) ●1千通超のメール送信でも、違法性を問えなかった  また、ストーカーを取り締まるストーカー規制法には致命的な欠陥がある、と諸澤さんは指摘する。  同法第2条は、つきまとい、監視、面会や交際の要求など八つの行為を「つきまとい等」とし、それを反復して行うと「ストーカー行為」と定義した。警察が加害者にやめるよう警告し、逮捕することもできる。しかし、八つの行為に限定したことによって、条文に明記されていない行為はストーカー行為に当たらないという運用になっている点だ。  12年11月、神奈川県逗子市で当時33歳の女性が元交際相手の男(当時40)に刺殺され、男は直後に自殺した。この「逗子ストーカー殺人事件」で、男は「結婚を約束したのに別の男と結婚した。契約不履行で慰謝料を払え」などと書いた1千通を超えるメールを女性に送りつけていた。  だが、当時ストーカー規制法では電話やファクスで繰り返す嫌がらせについては禁じていたが、メールは対象外だった。担当した神奈川県警逗子署はすぐに違法性を問えないとして、捜査を終了。その後もパトロールを続けたものの事件を防ぐことはできなかった。  この事件などを機に13年、ストーカー規制法は改正され、メールを繰り返し送る行為も「つきまとい行為」の対象となった。 「ストーカー行為を限定的に定義したことで、警察の介入をきわめて消極的にしてしまった。すべてのストーカー行為に対応できるよう、さらに法律を改正すべきです」(諸澤さん) ●「娘に代わってしゃべる」その使命感で人前に出る 「娘は見殺しにされた」という思いを抱いていた詩織さんの父憲一さんは長い間、警察では講演をしてこなかった。だが、いつか現場の人たちに思いを伝えたいという気持ちもあった。初めて警察で体験を語ったのは、17年9月。京都府警察学校で200人近い警察官や警察学校の生徒らを前に、命を奪われた娘と家族が強いられた苦しみを語り、市民の嘆きや悲しみを聞いてほしいと訴えた。犯人と直接対峙し、捕らえることができるのは警察だけなのだ、と。  約13年前に胆管がんが見つかったとき、「もう死んでもいいと思っていた」と憲一さんは振り返る。 「当初は法律ができたから何なんだ、そんなことよりも娘を返してくれ、という思いが強かった。それが徐々に、じゃあ娘のために親として何ができるのか、と考えるように心が変わっていきました」  被害を食い止めるには捜査を通じた対応だけでは限界があるとして、警察庁は16年4月から加害者に、精神科医による治療やカウンセリングを勧める取り組みを始めた。  こうした加害者の更生支援について、憲一さんはどう考えているのか。 「治療によって治るのであれば治してほしい。被害者を増やさないために、強く反対しない立場をとっている。ただ、加害者に言いたいのは、愛していようが何だろうが、相手はお前の持ち物じゃないということ。このことを理解できなかったら、何をしてもだめです。それを擁護するような考えを持つ人間を強く恨みます」  事件から20年経ついまも、憲一さんは学校や行政機関などで講演を続け、「命」の大切さを訴えている。人前で話すのは勇気がいる。だが娘はもっと苦しい思いをした。それに比べれば人前で話すくらい何でもない、と力を込めた。 「いまは、娘に代わってしゃべらないといけないんだという使命感で話しています。ストーカー被害で苦しむ人がいる限り、活動していきます。それが、かけがえのない私たちの娘、詩織との約束でもあります」  21歳の無念に、私たち社会も応えていかなければいけない。(編集部・野村昌二) ※AERA 2019年3月25日号
AERA 2019/03/25 11:30
ゴーン氏の変装保釈は弁護団の周到な戦略 ミスター・ビーン風“埼玉作業着”の狙い
ゴーン氏の変装保釈は弁護団の周到な戦略 ミスター・ビーン風“埼玉作業着”の狙い
作業着に変装して東京拘置所から出てきたカルロス・ゴーン氏(c)朝日新聞社  日産自動車のカルロス・ゴーン前会長(64)が6日、東京拘置所から保釈された。ところが、108日におよぶ勾留から開放されてはじめて公の場で見せた姿は、イギリスの人気コメディー番組「ミスター・ビーン」の主人公を彷彿とさせる作業着姿と白いマスクだった。予想外の姿に、日本のみならず世界で衝撃が広がっている。  ゴーン氏が着用していた帽子は、埼玉県川口市の鉄道車両整備会社・日本電装のもので、作業着も実在する企業のものだと思われる。乗り込んだ車は、日産ではなくスズキの軽自動車。出発後に多くのマスコミの車両とヘリコプターが小さな車を追いかける様子を見て、まるで滑稽な喜劇をながめているように感じた人も多いのではないか。  その結果だろう。昨晩から今日にかけて、ニュース番組やワイドショーの話題はゴーン氏の変装に集中した。その多くは「拘置所から堂々と出てきてほしかった」などと批判的なものがほとんどだ。だが、まったく別の見方もある。政治ジャーナリストの田中良紹氏は言う。 「変装は弁護団が綿密に準備した戦略でしょう。おそらく、ゴーン氏としては保釈後に『私は無罪です』と堂々と言いたかったのではないか。欧米流ではそれが正しいが、日本の司法で無罪を勝ち取るには裁判所からも国民からも“同情”してもらった方が有利。弁護団としては、ゴーン氏を日本の司法のやり方を理解してもらいたい。その儀式の一つとして、作業着の着用をしてもらったのではないか」  日本の司法が「世論」に左右される傾向があることは、これまでも専門家から指摘されてきた。もし、昨日の保釈でゴーン氏が日産会長時代の堂々とした姿で登場し、無罪を主張すればどうなったか。おそらく、多くのメディアはゴーン氏に批判的なトーンで報道しただろう。それが今ではゴーン事件の報道は「変装」の事実ばかり。「保釈後に報道がゴーン批判一色」という事態にはなっていない。  ゴーン氏の弁護を務める弘中惇一郎弁護士は、報道陣に対し7日、「(変装は)テレビで見てビックリしました」と自らのアイデアではないと話した。また、「あれはあれでユーモラスで、いろいろなアイデアがあっていいんじゃないかと思う」とも語っている。  弘中氏は、報道では小沢一郎自由党代表や厚生労働省の村木厚子元事務次官の裁判で無罪判決を勝ち取ったと紹介されることが多いが、過去にはロス疑惑銃撃事件の三浦和義氏や薬害エイズ事件の安部英(たけし)氏の裁判でも勝利している。両者ともメディアに徹底的に批判された人物で、それを覆した実績がある。最近では、女優の高畑淳子さんの息子・高畑裕太氏の弁護士も務め、メディアスクラムを回避するための対応にも経験がある。前出の田中氏は言う。 「ゴーン氏の変装劇は、弁護団が無罪を勝ち取るための並々ならぬ決意のあらわれです。ゴーン氏と同時に逮捕され、先に釈放されたグレッグ・ケリー氏(日産前代表取締役)の弁護は、喜田村洋一氏が担当しています。弘中氏と喜田村氏は小沢氏の事件でも一緒に弁護人を務め、無罪を勝ち取った。ゴーン氏の保釈は『6月ごろ』と予測されていましたが、3カ月早まったことの意味は大きい。両弁護団は、2人から日産内部の詳細な情報を得られることになり、次の戦略を練り始めているでしょう」  弘中氏は、ゴーン氏による記者会見について「検討します」と話している。ゴーン氏は会見で、日本だけではなく世界に向けて何を語るのか。その時、「無罪請負人」の異名を持つ最強弁護団の戦略の一端が明らかになるはずだ。(AERA dot.編集部/西岡千史)
dot. 2019/03/07 19:48
猫と住むため「事故物件」に… 41歳女性の快適な選択とは?
猫と住むため「事故物件」に… 41歳女性の快適な選択とは?
猫が飼える賃貸物件を探し続け、たどり着いたのは…(写真:getty Images) 「ペット可だけど猫はNG」という賃貸物件は結構多いらしい。都心で好条件の部屋にネコと住むため、事故物件を借りたという人まで。「#猫の日」だから考えたい。猫との生活の現実とは。 *  *  * 「猫とそれなりの部屋に住むためには、何かを大きく妥協するしか無いんです」  東京都内に住む女性(41)はそう話す。猫を飼い始めたのは10年前。小さなころからずっとネコと一緒に暮らしてきて、猫がいない生活に「禁断症状」が出始めたからだった。公園で拾った猫と住み始めた最初の部屋は、明らかに傾いていた。しかもベランダのガラス窓が勝手にカラカラと音をたてて閉まる程……。それでもそこそこの広さがあり、駅近の猫可賃貸は希少。契約更新まで住み続けた。  仕事の転勤で東京に引っ越すことになり、そこでも苦労した。駅近だと学生向けアパートのような、手狭なワンルームしか残っていない。しぶしぶ決めた部屋は、最寄り駅から徒歩20分。内見中に「最初に見た物件はいま決まりました」と不動産屋に揺さぶりをかけられたが、猫可物件はそこそこの条件でもすぐに決まってしまうのが現実。即決した。仕事でヘトヘトになって帰る玄関先で、あの子が「にゃー」と迎えてくれる暮らしは、何物にも代え難い!  住み始めてからも定期的に不動産屋に通い、物件探しを続けていたが、店員たちは 「ちょっと今は(空きが)出ていませんね」 「猫を飼うと相場より2、3割は家賃が高くなるんですよ」  そう言って煙に巻こうとする。大家さんに隠れて飼ったりしたら、ご近所トラブルに発展したり、発覚して退去させられたりしても次に行くところが無い。だから「猫可物件」にこだわった。  数年後、彼氏と住むため少し広めの部屋を探そうとしたら、さらにハードルは上がった。  2人で訪れた不動産屋で「無い」と一点張りの店員に、彼氏がしびれを切らした。 「無いはずは無い」 「明日、別の不動産屋で契約するからもう一回探して」  その言葉に押された店員が1枚の資料を取り出し、渋い顔でこう口にした。 「ただ、ご説明が……」  ピンときた。ああ、事故物件か。強盗だとしたら、防犯面で問題があるマンションと考えられ、また狙われると困る。でも病死や自殺なら、私たちにも猫にも関係ない。 「強盗ですか? そうじゃないなら自殺か怨恨ってことですね」  聞くと同じ建物の別の階の部屋で、2件の“事故”が起きていた。部屋が違うからなのか詳細は教えてくれなかったが、後でネットで調べてみると、飛び降り自殺が1件と怨恨と思われる殺人事件が1件ヒットした。内見しても違和感は無い。それどころか猫が大好きな日当たりの良い広々した部屋。そこに決めた。  不動産屋の店員が契約内定を電話で事務所に伝えると、先輩らしき人の驚いた声が電話口から漏れ聞こえてきた。 「あんた、アレ言ったの!? 2件だよ、2件!!」  絶対に決まるはずのない物件だと思われていたのだろう。しかし、女性はあっけらかんと言う。 「事故物件でも私にとっては全然問題が無いんです。夜中に変な音とかもしないし、猫も私たちも元気に暮らしてる。お隣りさんも犬や猫を飼っているから、毛が生え変わる時期もお互い様。すごく快適です」  不動産・住宅サイト『SUUMO(スーモ)』を運営するリクルート住まいカンパニーによると、首都圏(東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県)の賃貸物件数は186万4千件(2月18日現在)。そのうちペット飼育可の物件は約15%、28万2千件だった。 「10年ほど前から、賃貸でもペット可の物件は増えてきていますが、猫が飼える物件はまだかなり限られています」  そう話すのは、さくら事務所の不動産コンサルタント、土屋和馬さんだ。 「ペットが飼える物件のうち、半数以上は猫NGと考えていいと思います。最大の理由は爪とぎ。部屋の障子や襖、壁紙でもつめとぎをしてしまうので、犬などほかの動物と比べても補修費がかなり高額になってしまうのです。さらに、大家さんにとっては退去後に敷金の返還額などで賃借人ともめたり、交渉したりする可能性があるということ自体も手間に感じ、事前に避けようとするわけです」  希少な物件に出会えたとしても、猫飼いたちの受難は続く。冒頭の女性が言われたように、敷金や賃料が通常よりも高額に設定されるというのだ。 「敷金・礼金は1カ月ずつというのが一般的ですが、猫を飼うと敷金はさらに1~2カ月分が課されることが多い。大家さんとしては原状回復費用を賃借人から取れない場合を考慮して、高ければ賃料が1万円ほど上乗せされるケースも見られます。ただ、賃貸物件の空室が増えているという現状もあり、ほかの物件と差別化するために『猫可』をアピールする大家さんも今後は増えてくるのではないでしょうか」(土屋さん)  冒頭の女性も、猫不可だったはずの両隣りの賃貸マンションで飼い猫を見かけることがあるという。 「コンビニには必ず猫砂が置いてあるし、飼っている人は結構いると思うんです。それなのに、こんなに物件が少ないのはおかしい。もっと条件の良い部屋が増えてほしいと思います」  人を癒やし、たくさんの生活を支えている猫たち。その暮らしがもっと自由で快適であってほしい(AERA dot.編集部・金城珠代)
ねこ
dot. 2019/02/22 11:34
NGT48・山口真帆騒動で指原莉乃が問題提起! 警視庁「防犯アプリ」はベルより使えるか?
福井しほ 福井しほ
NGT48・山口真帆騒動で指原莉乃が問題提起! 警視庁「防犯アプリ」はベルより使えるか?
山口真帆さん (c)朝日新聞社 「ブザー使用時の場所」として表示されたのは実際に鳴らした「築地市場」からは少し離れた隅田川の上だった 画面をタップするとけたたましい音が鳴り響く  時代は「ベル」ではなく「アプリ」になったということか。  いまだ収拾がつかないアイドルグループ「NGT48」メンバーの山口真帆さんへの暴行事件。その再発防止策として、グループの運営会社AKSは全メンバーに防犯ベルを支給すると発表していたが、HKT48の指原莉乃さんは自身のTwitterで<防犯ベル、わたしは怖くて震えて、取り出すことさえできないと思う。。>と吐露。運営会社の対応に賛否の声が上がっている。  そんな中、にわかに注目が集まっているアプリがある。警視庁公認の防犯アプリ「Digi Police」だ。  2016年3月にリリースされたこのアプリ。スマートフォンで犯罪発生情報や不審者情報などがわかる機能が実装されているが、何より警視庁の“お墨付き”という安心感も強い。NGT48騒動のあとにSNS上で話題となり、インストール数が急増。17日時点で16万件になった。  さまざまな機能がある中でも「防犯ブザー」が便利だと話題になっている。  アプリ内の「防犯ブザー」をタップすると、登録したメールアドレスに位置情報が届く仕組み。たとえば、親族や知人などのメールアドレスを登録することによって、不測の事態が起きたときに、ブザーをタッチするだけで登録された人にお知らせメールが届くというわけだ。  いったい、どんなメールが届くのか。試しに記者が使用すると、ブザーを鳴らして約1分後にメールが届いた。 <このメールは警視庁犯罪抑止アプリより自動送信でお送りしています。只今、○○○○(設定した名前)さんが防犯ブザーを使用しました>  シンプルなメールの下部には<ブザー使用時の場所>としてグーグルマップのリンクも貼られている。クリックしてみると、現在地から徒歩13分ほど歩いたところを流れる「隅田川の上」にピンが表示された。残念ながらピンポイントで位置を特定するまではいかなかったが、万一の事態が起きた際に有力な手掛かりになりそうだ。アドレスは3人まで登録できる。  だが、SNS上では、すでに意外な使い方を提案する声もある。 <食事の準備ができた時に押せば、旦那と子供と犬に専用ルートで連絡できて便利?>  つまり、「ごはんできたよー」代わりに、防犯ブザーを押して家族を呼び出すというわけだ。これには警視庁の担当者も「想定外」と驚きを見せる。 「いろいろな使い方を聞くと開発の参考になります。普段から使っていただくことで、本機能に慣れていただき、本当に必要なときの活動につながればと思います」(警視庁総務部広報課の担当者)  ほかにもこんな機能がある。アプリ内の「痴漢撃退」を開くと、黒い背景に白色の文字で、<痴漢です 助けてください>と表示される。声を出すことなく、画面を見せるだけで周りに伝えられるようになっているのだ。さらに画面をタップすると、高めの女性の声で、<やめてください! やめてください! やめてください!>と、再びタップするまで繰り返される。なかなかの音量に一瞬ドキッとする。  埼玉県が2016年に実施した調査では、痴漢被害者488人のうち292人が「何もできなかった」「我慢した」と回答。限られた地域の調査ではあるが、実際、高校生のころに電車で痴漢に遭ったという女性は「恐怖でいっぱいになり、何もできなかった」と言うほど、犯人に対して何らかのアクションを起こすのは想像以上に難しい。それだけに、こういったアプリ機能に期待が寄せられるのか。  なお、アプリ画面には「痴漢です 助けてください」と表示されるが、音声では「やめてください」の一言を繰り返すのみ。画面表示と言葉は「あえて違うものを選んでいる」と前出の担当者は説明する。 「被害者の心情を考慮しました。また、音声では間違っていた場合のトラブル防止のため『痴漢』の言葉をいれないメッセージを選びました」(同上)  他にも、最寄り警察署への最短ルートや近隣コンビニの情報などが分かるようにもなっている。「もしも」のときの駆け込み先を指南してくれる心強い味方というわけだ。  スマホの片隅に忍ばせておくのはいかがだろうか。(AERA dot.編集部・福井しほ)
dot. 2019/02/04 15:40
「自己過大評価」エリート公務員が元恋人の首を切った本当の動機【22歳女性殺害】
「自己過大評価」エリート公務員が元恋人の首を切った本当の動機【22歳女性殺害】
殺害された金井貴美香さん(高崎経済大HPより)  ここまで強い殺意を持ったのはなぜなのか。さいたま市大宮区のビルで会社員の金井貴美香さん(22)が23日午後6時ごろ、首を刃物で刺され、約1時間後に死亡した。殺人未遂の現行犯で逮捕されたのは、鳥山裕哉容疑者(25)。驚くべきことに、群馬県前橋市役所に勤務する公務員だった。  前橋市によると、鳥山容疑者は昨年4月に採用され、建設部道路管理課の技師として働いていた。上司や同僚からの評判は「まじめでおとなしい人」だったという。前橋市の関係者はこう話す。 「事件当日は、通常通り出勤しましたが、吐き気がするなど体調不良を訴え、インフルエンザが流行っているので上司から早退の許可が出ました。午後1時15分に退勤したとのことです。22日までは通常通り出勤していて、何かに悩んでいるような様子もなかったそうで、みんな驚いています」  鳥山容疑者は、早退後に犯行現場であるさいたま市に向かったと思われる。ただ、前橋市は、鳥山容疑者が女性トラブルを抱えていたことはまったく把握していなかったという。ところが、事件前には別れ話をめぐって鳥山容疑者が金井さんに怒りをぶつけ、警察に相談が寄せられていた。  鳥山容疑者のものとみられるSNSによると、群馬の名門校である前橋高校を卒業後、筑波大学に入学。その後に公務員になった。エリートとしての人生を歩んできたはずだ。それがなぜ、こんな凶行におよんだのか。  精神科医の片田珠美氏は、こう話す。 「子供の頃から勉強ができてエリート意識が強く、プライドが高い。そういう人が女性から別れ話をされると、『なぜ、こんなに偉い人間である自分を捨てるのか』という怒りにつながります。怒りは自分への過大評価から起こるもの。包丁で首を刺すという行為は強い殺意のあらわれです。プライドを傷つけられた怒りで、感情をコントロールできなくなったものと思われます」  それにしても、鳥山容疑者の二面性には理解できないことが多い。 「DV(家庭内暴力)やストーカー行為を繰り返す人は、外面がいい人が多い。ストレスを感じることがあってもふだんは我慢しているが、一度、感情が吹き出すとコントロールできない。『打たれ弱いエリート』だったのでしょう」(片田氏)  鳥山容疑者のものと思われるSNSには、2015年3月にこんなこともつづられていた。 <川の周辺には人間を追い詰める全てのものが排除されていてやっぱりいいなぁ> <みんな忙しそうですが僕はゆ~っくりやっていきます>  埼玉県警などによると、鳥山容疑者は警察の捜査に対し、別れ話を持ちかけられて「生きていられない」と思ったと供述しているという。 (AERAdot.編集部 西岡千史)
dot. 2019/01/25 20:30
「おたく」は明るい言葉になった 考案者の中森明夫が語る平成史
「おたく」は明るい言葉になった 考案者の中森明夫が語る平成史
クールジャパンの発信地となり多くの若者や外国人が訪れる東京・秋葉原 バーチャルユーチューバーの「キズナアイ」は秋葉原の観光大使として外国人観光客の誘致に活躍している 宮崎勤・元死刑囚。2008年に死刑が執行された (c)朝日新聞社 「おたく」という言葉の考案者とされる中森明夫さん (c)朝日新聞社  日本を代表する文化として認められた漫画やアニメ。外国人観光客にも人気で、「クールジャパン」を支える。平成という時代は、おたくカルチャーが進化した30年間だったが、スタートは暗いものだった。 「おたく」という言葉が一般に広く知られることになったのが、平成元年(1989年)に宮崎勤・元死刑囚が逮捕された「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。88~89年に4人の幼女が犠牲になった。  83年におたくという言葉を初めて使い、サブカルチャーに詳しい作家の中森明夫さんは、こう振り返る。 「マンガ好きの人たちや深夜放送などで知られる言葉で、それほど社会的には知られていませんでした。それが宮崎事件によってネガティブなイメージとともに一気に広がっていきました」  宮崎元死刑囚の部屋は、天井までビデオテープが積み上げられ、床には漫画や雑誌が散乱していた。 「マンガ雑誌やアニメのビデオテープなどが積まれた部屋がテレビで映された。このような青年がなぜ生まれたのかという疑問とともに、『おたく』という言葉が“発見”されたんです。平成元年の夏の時点では、雑誌の図書館である大宅壮一文庫にも、『おたく』という項目はありませんでした」(同) 「遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です」  宮崎元死刑囚は、今田勇子名義でこうした犯行声明を新聞社に送っていた。報道は過熱し、世間が注目するなか初公判は90年3月に始まった。罪状認否では「さめない夢を見ていて、その夢の中でやったことのように思う」と述べた。 「おたく人種なるものは、夢と現実、虚構と現実の区別がつかない不気味な存在だとされました。この事件は、ゲームやホラービデオ、青年向け漫画などに様々な規制がかけられるきっかけにもなりました。僕自身がおたくカルチャーの代表のように、バッシングされたこともあります」(同)  時代は流れ、2000年代になると、おたくをとりまく環境は激変する。 「インターネットを通じておたくカルチャーが広がった。『OTAKU』としても世界中に広まり、僕自身もフランスやイギリスの放送局から取材を受けるようになりました。もうひとつが秋葉原という街の変化です。もともと電気街だったのが、ゼロ年代からおたくカルチャーの街に変貌(へんぼう)していく。メイド喫茶ができて、コスプレ店員も当たり前になっていく。04年にはネット掲示板『2ちゃんねる』の書き込みから誕生した恋愛小説『電車男』がベストセラーになり、ドラマや映画にもなった。AKB48劇場は05年にできています。秋葉原はクールジャパンの発信地になり、おたくという言葉もポジティブなイメージとして生まれ変わったんです」  いまおたく文化を牽引(けんいん)するのは、宮崎事件のころに生まれていなかった世代だ。暗い過去は引きずらず、明るくアニメや漫画を楽しむ。3DCGの架空キャラクター「バーチャルユーチューバー」など、新たな人気分野も生まれている。訪日促進キャンペーンでも活躍する、「キズナアイ」と呼ばれるキャラクターはその代表格だ。 「外国人が日本のおたくカルチャーに憧れてやってくる時代です。いまや国が推し進めていくような文化になりました。言葉のイメージもずいぶん変わったものだと、改めて感じます」  平成後の時代も、おたく文化はますます元気になりそうだ。 (本誌・太田サトル) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2018/12/31 10:00
「知って得する季語」── 平成最後の「大晦日」
「知って得する季語」── 平成最後の「大晦日」
平成30年の12月もそろそろ終わりに近づきました。今年は記録的な猛暑や甚大な災害など、近年まれに見ない印象深い一年だったのではないでしょうか。そんな一年を振り返りつつ、明後日には「大晦日」を迎えます。 日本の「大晦日」は、古くから年越しそばを食べ、除夜の鐘を聞きながら新年を迎えてきました。現代では海外や旅先などで思い思いの年末を迎える人も増えてきましたね。 しかし今年は、平成で迎える最後の「大晦日」であり、ある意味特別な「大晦日」でもあるのです。そこで今回は年末年始の季語や平成という時代も含めピックアップしてみました。 年末年始の季語あれこれ ○「大晦日」にあったこんな意味 「大晦日」は、一年が去り新しい年を迎える年越しであり、さまざまな行事が行われます。「みそか」とは月の初めから数えて30番目の日、つまり月末のことで、特に12月の末日を「おおみそか」というようになったそうです。 けれども、もうひとつの読みと意味があるのはご存じですか? 「大(おお)晦日(つもごり)」 「おお」は「大年(大晦日の異称)」、「つごもり」はツキコモリの意味であり、陰暦では月の下旬や末日に月の光がまったく見えなかったそうで、そのため、年の最後の日を「おおつごもり」と呼ぶようになったのだとか。ちなみに、大晦日の前日12月30日は「小晦日(こつもごり)と呼ばれています(参照:日本語、どうでしょう?)。 ○あらためて「師走」とは? よくいわれるのが、「師」が「走る」ほど忙しい月だから「師走」。確かに間違いではないようです。もう一つは、「為果つ月(しはつつき)」。一年の終わりの物事をなし終える、という意味もあるそう。「師走」の異称「極月(ごくげつ)」も、一年の極みをさす年末らしい言葉ですね。 ○「去年今年」読みは?意味は? 「去年今年」は「こぞことし」と読みます。「去年(こぞ))」も単体の季語で、前の年のこと。それに「今年」を合わせたのが「去年今年」です。年越しをして新年になれば、たった一日で昨日は去年、今日は今年となる。この新年に感じる、時の速さへの深い感慨が「去年今年」なのです。ちなみに「去年今年」は冬の季語ではなく新年の季語に該当しています。 (参照:俳句歳時記(春~新年) 角川学芸出版 角川文庫) 平成の出来事を振り返ってみよう 最後に、平成元年と平成30年の主な出来事を振り返ってみましょう。 〈平成元年〉 ・消費税施行 税率は3% ・美空ひばり、手塚治死去 ・オウム真理教問題を追求していた坂本弁護士一家が殺害される ・中国で天安門事件発生、ベルリンの壁崩壊 ・流行語大賞にセクシャルハラスメント、24時間タタカエマスカなど ・カラオケボックスが流行 ・シングル1位 プリンセス・プリンセス:「Diamonds(ダイアモンド)」 ・魔女の宅急便が公開 ・年間ベストセラー1位 TUGUMI:吉本ばなな:中央公論社 ・日経平均株価最高値 3万8915円87銭 ほか 〈平成30年〉 ・平昌オリンピック開催。日本は冬季過去最多のメダル13個を獲得 ・オウム真理教事件に関与した死刑囚全員の死刑が執行 ・FIFAワールドカップロシア大会開催 日本はベスト16 ・西日本で平成最大の豪雨被害 ・埼玉県熊谷市で気象観測史上最高気温となる41.1度を記録。日本全国で猛暑 ・歌手の安室奈美恵が引退 ・北海道の胆振地方中東部で地震発生 ・シングル1位 AKB48 – 「Teacher Teacher」 ・年間ベストセラー1位 漫画 君たちはどう生きるか:吉野源三郎 原作/羽賀翔一 画:マガジンハウス ・漫画家さくらももこ死去 ほか (参照:時事.JP) 平成の次の時代への「去年今年」 いかがでしたか?── 言葉や漢字の成り立ちを知ることは、日常生活に膨らみを持たせてくれるはず。 四半世紀以上の長きにわたって続いた平成の時代。それぞれが印象に残った出来事は違っているかもしれませんが、今年の「大晦日」から「新年」は、平成という時代の終わりと、平成30年のあらゆる出来事を過去とする、未来をまたぐ時をしみじみと思う機会なのかもしれません。まさに「去年今年」ですね。 みなさま、どうぞよいお年をお迎えください!
tenki.jp 2018/12/29 00:00
THE YELLOW MONKEY、19年ぶりのオリジナル・アルバム『9999』リリース&全国アリーナツアー発表
THE YELLOW MONKEY、19年ぶりのオリジナル・アルバム『9999』リリース&全国アリーナツアー発表
THE YELLOW MONKEY、19年ぶりのオリジナル・アルバム『9999』リリース&全国アリーナツアー発表  THE YELLOW MONKEYが、19年ぶりのオリジナル・アルバム『9999』を、2019年4月17日にリリースする。  10月1日のATLANTICとのタッグを発表してからオフィシャルHPに突如始まったカウントダウンの先は、19年ぶりのアルバム・リリースだった。本作は、2001年の活動休止、2004年の解散、そして2016年の再集結を経て、良いことも悪いことも4人で乗り越えてきた今、最新形のTHE YELLOW MONKEYとして作り上げた作品。アルバム・タイトル「9999」(読み:フォーナイン)には、4桁の最大数、4人の最大限を、という意味も込められているとのこと。バンドとして初となるLAでのレコーディングが決行された。  収録曲は、2016年の再集結以降に発表してきた楽曲や、新曲「I don't know」などを収録。この新曲は、2019年1月10日からスタートするテレビ朝日系列木曜ミステリー『刑事ゼロ』の主題歌に決定した。このドラマは、刑事としての常識、捜査テクニックを積み上げてきたベテラン刑事が、20年間の記憶を失い、刑事として全くの“ゼロ状態”になってしまうが、記憶を失ったかわりに研ぎ澄まされるようになった五感や洞察力で、思いもよらないアプローチから難事件を解決していくストーリー。主人公・時矢暦彦は、確かな演技力でシリアスからコメディーまで変幻自在にこなし、今なお進化し続ける俳優・沢村一樹が演じる。  なお、12月19日19:19より、THE YELLOW MONKEYのYouTube番組『STORY of THE YELLOW MONKEY』がスタートする。#01はLAでのレコーディングの様子をが番組に収められている。  また、9thアルバム『9999』を引っさげた全国アリーナツアー【THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019】が2019年4月よりスタートする。オフィシャルファンクラブ『BELIEVER.』では、チケット最速先行受付を実施中。 ◎リリース情報 アルバム『9999』 2019/04/17 RELEASE <初回生産限定盤(CD+DVD) > WPZL-31619/20 / 4,500円(tax out) <通常盤(CD) > WPCL-13119 / 3,000円(tax out) ◎ツアー情報  【THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019】 4月27日(土)静岡 静岡エコパアリーナ 4月28日(日)静岡 静岡エコパアリーナ  5月11日(土)北海道 北海きたえーる  5月12日(日)北海道 北海きたえーる  5月25日(土)福井 サンドーム福井  6月07日(金)大阪 大阪城ホール  6月08日(土)大阪 大阪城ホール  6月11日(火)神奈川 横浜アリーナ  6月12日(水)神奈川 横浜アリーナ  6月29日(土)秋田 秋田県立体育館  7月06日(土)埼玉 さいたまスーパーアリーナ  7月07日(日)埼玉 さいたまスーパーアリーナ  7月13日(土)福岡 マリンメッセ福岡  7月14日(日)福岡 マリンメッセ福岡  7月20日(土)広島 広島グリーンアリーナ  7月21日(日)広島 広島グリーンアリーナ 8月03日(土)宮城 宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ  8月04日(日)宮城 宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ 8月27日(火)兵庫 神戸ワールド記念ホール  9月03日(火)徳島 アスティとくしま  9月15日(日)福島 あづま総合体育館  9月22日(日)熊本 グランメッセ熊本
billboardnews 2018/12/19 00:00
大阪2児餓死事件の担当職員らが語る「児童相談所の現実」
野村昌二 野村昌二
大阪2児餓死事件の担当職員らが語る「児童相談所の現実」
大阪市中央区にある児童相談所「大阪市こども相談センター」。「最初は自分の行為を虐待と認めなかった親御さんが変わっていく姿も励みになる」と職員は話す(撮影/編集部・野村昌ニ) 児童福祉司1人当たりの虐待対応件数(AERA 2018年12月3日号より) 児童福祉司の数が追いつかない(AERA 2018年12月3日号より) 「戦場」と呼ばれる職場がある。あらゆる子どもの相談に対応する児童相談所だ。虐待で命を落とす子どもが後を絶たない中、パンク寸前の現場は、どうあるべきなのか。大阪で起きた2児餓死事件の担当者が悔根を込めて語った。 *  *  *  大阪市の児童相談所(児相)「大阪市こども相談センター」は、大阪城を望むJR森ノ宮駅近くにある。古い5階建てビル。その1階にあるのが、子どもへの虐待の対応を専任で担う「虐待対応担当課」だ。 「あの事件は絶対に忘れてはいけないと肝に銘じています」  同課の岩田幸夫(ゆきお)課長(52)が、絞り出すように話す。  センターに虐待対応担当課ができたのは2010年9月。転機となったのが、「あの事件」だ。同年7月末、大阪市西区のマンションで当時23歳の母親(殺人罪で懲役30年が確定)による育児放棄の末、3歳と1歳の幼い姉弟が餓死しているのが見つかった。 「『ママー、ママー』と部屋から叫ぶ声が聞こえる」  事件前、住民から3回、センターに通告があった。センターの職員が計5回、部屋を訪問したが一度も母親や子どもたちに接触できなかった。「異臭がする」との通報で警察官らが駆けつけると、ゴミが散乱した居間に全裸の幼児2人が寄り添うように倒れていた。  幼い命は、なぜ奪われたのか──。児相の「放置」が問題視された。  当時、係長として虐待対策室に在籍していたのが岩田課長だった。母子の住民票はなく、管理会社に聞いてもわからなかった。職員から「部屋には人の気配がしない」との報告を受けて、幼子がいると確信が持てなかったという。結果、救いの手は差し伸べられなかった。岩田課長は言う。 「もしどこかのタイミングで子どもたちの泣き声を職員が直接聞いていたら、何としてでも助けたと思う。大きな反省点の一つは、同じ住民から3回、虐待を疑う通告があったのに、その後の調査や対応の進捗状況がセンターとして十分把握できていなかったこと。1回目や2回目に訪問した時の状況を、組織全体で共有し、対応について検討できていたら子どもたちを救えた可能性もあった」  虐待で命を落とす子どもが後を絶たない。今年3月、東京都目黒区で両親から虐待を受けた5歳の女の子が「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」などと書き残して亡くなった。あまりに痛ましい事件は、改めて児童虐待の残酷さを社会に突きつけた。  児童虐待の最前線で対応にあたるのが児相だ。都道府県や政令指定都市など全国212カ所(10月1日時点)に置かれている。その全国の児相が対応した虐待件数が17年度、過去最多の13万3778件(速報値)を記録した。この5年で2倍。対して、児相で虐待対応の中核を担う児童福祉司の数は現在約3200人。同じ5年間で1.2倍になったに過ぎない(グラフ参照)。児童福祉司を増員しても虐待件数の伸びに追いついていないのが現状だ。その多忙な現場を、職員らは「戦場」と呼ぶ。 ●人手不足と過酷な業務で、燃え尽き症候群に陥る  社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」(東京都世田谷区)理事で、30年近く都の児相で働いてきた片倉昭子さんは、虐待を巡る制度の変更が職員の忙しさに拍車をかけていると指摘する。 「2000年に児童虐待防止法が施行され、それまで保護者からの相談に重点を置いていたのが、施行後は、虐待に気づいたら、児相に通告することが義務となりました。通告が入ると休日でも『待ったなし』の場合があります」  さらに04年の法改正で、子どもの目の前で親が配偶者に暴力を振るう「面前DV」も心理的虐待に当たるとした。07年には虐待通報から48時間以内に安否確認をする「48時間ルール」が決められ、13年にはきょうだいの虐待を見た子どもも「心理的虐待」を受けたとして児相が調査するようになった。15年には全国共通ダイヤルの「189(いちはやく)」がスタート。いずれも欠かせない取り組みだが、社会的関心の高まりとともに、児相の業務が急増した。  児童福祉司1人当たりの虐待の対応件数で、最も多いのは埼玉県と大阪府の64人(表参照)。奈良県が55人と続く。継続案件や非行など虐待以外の案件を加えると、児童福祉司1人が抱えるケースは100件を超す場合もある。先の片倉さんは言う。 「1人の職員が1年間で対応できる子どもは、私の経験をもとに考えればせいぜい30人か40人。よりきめ細かく対応しようとすれば20人程度です」  慢性的な人不足による過酷な業務とプレッシャーは、バーンアウト(燃え尽き症候群)に陥りやすい。  児童福祉司として働き、『走れ!児童相談所2 光に向かって』(アイエス・エヌ)などの著書がある公務員の安道理(あんどうさとし)さん(50代)は、大学で心理や福祉を学んでいても、現場で通用する研修を受けていなければ燃え尽きて心を病んでしまうケースがあるという。 「次々と入る虐待通告への対応に追われ、新人職員の研修もままならない。様々な虐待に対応できる児童福祉司を育てにくい、構造的な問題を感じます」 ●マニュアルが優先され、心の叫びを聴けていない  児童福祉司は国家資格ではなく、大学で心理や教育を学んだ人や、社会福祉士資格を持っている人を自治体が任用する。通常は4、5年かけて一人前になっていく。だが近年は、人事の異動サイクルが短くなり、1、2年で別の部署に配置転換されることも少なくない。現在、経験年数が3年未満の児童福祉司が約40%も占める。  ソーシャルワーカーらでつくる「子ども研究会」代表で虐待対策コーディネーターの齋藤幸芳(ゆきよし)さん(68)は、今の児童福祉司の中に「児童の専門家」と胸を張れる人が何人いるのだろうかと指摘する。 「児童福祉司の個性は失われ、誰がやっても同じような金太郎アメの状態。マニュアルが優先され、子どもの個々の心の叫びを聴けていない」  国は今年7月、児童福祉司を約2千人増やすことを決めた。だが齋藤さんは、「質」を高めた上での増員でないと意味がない、増やすだけでは危機感も使命感も責任感も持たない児童福祉司が増えるだけと語る。 「質の確保のためには、児童福祉司を国家資格のような位置づけにすることが急務。そして、経験値を高めてから実践の場に出る仕組みが必要です。例えば、イギリスでは、児童福祉司は1年間ケースを持たずに経験豊かな職員につく。対して、日本は長くて1カ月。子どもを助けるのは命がけです。知識と技術、経験が重要であることを認識しなければいけない」(齋藤さん)  児童相談所が限界にきている背景には、何もかも「児相頼み」という側面がある。首都圏のある自治体の児童相談所に勤務する管理職の男性(40代)は、全ての対応を「児相一辺倒」で担うことに問題があると話す。 「いま児相には、アクロバティックなことが求められています。まず虐待されている子どもの身柄を保護し、次に必要な場合は一時保護施設に入れ、そして保護者や子どもを支援する──。これはつまり、保護者から強制的に子どもを引き離し、それでいて一緒に頑張りましょうと握手を求めるようなもの。これでは保護者といい関係を築けるはずがない。児相の本来の役割はソーシャルワーク、福祉の分野での支援です。欧米では警察が子どもを保護し、司法が一時保護所に入れる判断を下している。児相の負担を軽くするためにも、日本でも役割分散が必要です」  先の片倉さんも、こう説く。 「児童虐待には複雑な背景があり、児相のみで解決できるものではない。福祉、医療、保健、教育、警察、司法など各分野に子どもの虐待について専門的知識を持つ部署が置かれ、連携しながら社会全体で支える仕組みをつくっていかなければなりません」 ●僕が親にされていることを信じて対応してくれた  一方、現場でも工夫は始まっている。  冒頭で紹介した、大阪市こども相談センターの岩田課長は次のように話す。 「センターに虐待通告が入ったら、まずスーパーバイザーや課長代理に報告がきて、初動の方針を整理する。速やかに動けるようにしています」  センターの体制は、餓死事件を受け一新された。虐待の対応を担う「虐待対策室」は「虐待対応担当課」に昇格。課長、課長代理が専従で配置され、係長も2人増員された。大阪府警本部から現職警察官2人の派遣もあり、人数は1.5倍に増えた。  虐待の疑いがあるケースについては、管理職が出席する進捗管理会議を毎週開き、通告後の調査の進捗状況を把握。対応についても組織的に共有するようになった。ほかにも、夜間の緊急通告に即応するため宿直職員を置き、現場に急行できる体制にした。  今、センターには警察官OBが24時間勤務し、24時間体制で消防に出動を要請する仕組みもある。組織間の連携が強まり、緊急時にすぐ対応できるようになったという。現在、同課の児童福祉司は約30人。2人一組、ベテランと新人がチームを組んで事態にあたる。岩田課長が言う。 「児童相談所は子どもの権利を守る最後の砦。何年か経って、当時保護した子どもが訪ねてきて、『あの時、大人は誰も僕の話を信じてくれへんかったけど、ここでは僕が親にされていることをちゃんと信じて対応してくれた』と言ってくれたりする。子どもが変わっていく姿が私たちの原動力。研修では必ずあの事件に触れますし、センターみんなで子どもの最善の利益を守る責任を果たしていきたい」  虐待を受けて死亡した子どもは年に77人(16年度)。今も5日に1人、未来ある幼い命が失われている。(編集部・野村昌二)
AERA 2018/12/03 07:00
東出昌大×笈田ヨシ『豊饒の海』対談 舞台化への思いを語る
坂口さゆり 坂口さゆり
東出昌大×笈田ヨシ『豊饒の海』対談 舞台化への思いを語る
東出昌大(ひがしで・まさひろ、右):1988年2月、埼玉県生まれ。映画「桐島、部活やめるってよ」(2012年)で俳優デビュー。18年は「菊とギロチン」「寝ても覚めても」「ビブリア古書堂の事件手帖」ほか多くの出演・主演映画が公開/笈田ヨシ(おいだ・よし、左)/1933年7月、兵庫県生まれ。文学座、劇団四季を経て68年にロンドンで舞台「テンペスト」に出演するなど国内外で活躍。2019年には新国立劇場でオペラ「紫苑物語」の演出を手掛ける(撮影/写真部・加藤夏子)  三島由紀夫の小説『豊饒の海』が舞台になる。この大作に主演するのは東出昌大。生前の三島と親交があった笈田ヨシも出演する。二人に舞台への思いを聞いた。 *  *  *  三島由紀夫が約6年をかけて全てを織り込んだ絶筆の書『豊饒の海』。「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4作からなる長編小説を、今回1本の舞台として創作した。美の象徴ともいえる松枝清顕に、思春期から三島由紀夫作品の虜になってきたという東出昌大。また、清顕という美に憧れ続け、取り残されてしまった本多繁邦の老年期を、三島と親しくしていた笈田(おいだ)ヨシが演じる。 東出:僕は三島文学の中での最高峰は『豊饒の海』だと勝手に位置付けていました。この作品は他の作品と比べて、読むのに非常に時間と労力がかかります。美文であるのはもちろんですが、三島文章の表現の美しさがブイブイ腕を鳴らして描かれているのも素晴らしい。 笈田:三島先生は「俺はこの作品で地球に爪痕を残す」とおっしゃって、これを書かれた。本作は『浜松中納言物語』からヒントを得たと言われています。書かれた当時、1970年代は古典を軽視する傾向があった。そんな時に僕はどうして中世の焼き回しをするのか、という気がしていました。その後、私がはじめて外国から帰った時、先生に、「お書きになったことがやっとわかったような気がします」と伝えたことがあります。「そうか、お前でもわかったのか」と言われましたが、自分の解釈は話さなかったので、それが正しいかどうかはわからないままです(笑)。不敬な話になってしまいますが、この作品は、先生が死ぬことを決めてから、お書きになった。だから、『豊饒の海』は4作と自害を合わせて一つの作品だと思っています。 東出:今回初めて舞台化の話を聞いた時は、脚本を読んでいなかったので耳を疑う思いでした。4作を1作品にするとはどういうことなのか。でも、脚本を読んだら、4作がまとまっていて素晴らしい1本になったと思いました。移ろいゆく時代も視覚的に楽しみですし、三島文学の綺麗さが戯曲になっても生きているので、三島ファンとしても嬉しいです。 笈田:一作一作が完成した素晴らしい4作を1本の芝居として2時間半にまとめたのは大変なこと。脚本の長田育恵さんが非常にうまく一つの線を引っ張られて、懸命な脚色をされた。いろんな登場人物が数多く出てきますが、一人一人が違った生き方、違った死に方を選んでいる。ご覧になる方が自分の人生観と、ここに生きている人物たちとの生き方を比べていろいろ感じていただければ。 東出:笈田さんは文学座時代に三島先生に出会ったそうですね。 笈田:三島先生は若者に対して誰にでも、友達みたいに付き合って下さいました。先生ぶったり先輩ぶったりなさいませんでした。先生が演出した「サロメ」(60年)で大役をいただいた時、衣装を見たら上半身裸。「先生、僕は洗濯板だからこんな衣装は不可能です」と言ったら、「じゃあ俺の弟子にしてやろう」とボディービルに連れていかれました(笑)。以来時々ジムで会うと、「お前に肉をつけるために」とおっしゃってビフテキをよくご馳走して下さいました。 東出:演出は日本人ではなく、英国人のマックス・ウェブスターさんですが、最初に語られた言葉の中で素敵だなと思ったことがあります。僕は三島という神話を知らないでこの作品に取りかかった。そういう意味では、人間のドラマを描こうというところに最初から目的意識を持っている点で、みんなより三島の影に怯えないですむのは有利。人間ドラマを描くんだと。 笈田:僕は拠点がヨーロッパなので、これまで外国人の演出家ばかりとやってきましたが、演出家のタイプはいろいろです。装置に衣装、演出家のアイデアがすごく重要で、役者はそのためのオブジェにされる場合も多い。だけど、マックスは役者から人間を引き出して人生を表現しようとする。芝居の作り方が役者第一だから装置は簡単。役者としては非常に楽しいですし、自分はオブジェだと思わなくてすむ。役者を大事にしてくれて、自分のアイデアを押し付けるような芝居を作らない方ですね。 東出:日本人だとちょっとの言い回しに過敏になったりしますが、そこにある意味鈍感であることによって、もっと大枠で舞台表現としての流れを、俯瞰で見られるところがあるのかなと思ったので、よりドラマチックに作品は動くかなと思います。時代と三島の世界に固執しすぎても舞台としては悪い方に傾倒してしまうので、中立を保てるのはマックスならでは。 笈田:東出さんは舞台が約3年ぶりだそうですね。映画やテレビとどう違います? 東出:前回の舞台とも違うのですが、今回発声がまず大きく違うと思いました。マイクを一切使いませんし、壇上にも置かないそうなので、観客数が470近い劇場で地声です。映像作品では、その熱量ではもちろん演じないのですが、共通点もあります。生きるということ。相手の話に反応すること。だから、切り離して考えすぎると全く違うところへ行っちゃうので、共通点はあると思いつつも足りないところを急ピッチで補填していく感じかなと思っています。 笈田:僕の年になるとね、こう見せたいというのはないんですよ。ただとにかく舞台に上がったら、ここは右向く左向く?とか、相手がゆっくりセリフを話すから僕は早く喋らなくてはいけないとか。そんなことをやっているだけでお客さんにどう見えるかなんてあんまり関係ない。 東出:(深くうなずく) 笈田:つまり、瞬間瞬間の反応で、後はそれがどう見えようがどういう人物かというのはよくわからない。自分のこともどういう人間かよくわからないのに、どうして役柄のことがよくわかる? 自分なんてないんですよ。映画の場合は監督が料理人です。いくらいい料理人でもいい食材がなければいい料理はできない。だから、役者は監督のためにいかに良い食材を提供するか。でも、舞台ではカメラアングルを決めるのは役者だし、テンポは自分で作らなければならない。舞台に出るまで自分がどういう演技をしたらいいのかわからなくても、お客さんの空気でどう演技すればいいかわかります。 東出:話を伺っていると、舞台での演技は日々変わるものなんだろうなと思います。決め切ってこれだけをやればいいというのは生きていることにはならない。ある程度嘘をつかなければいけないところもある。 笈田:役者が日常のまねをするだけならドキュメンタリーみたいなもの。だけど、舞台では1年のことを5分間でやらなければいけない。その変化を出さなければいけない。いわゆる日常のまねをしてもダメなんですよ。 東出:材料は揃いました。あとは最高の舞台にするだけです。 (構成/フリーランス記者・坂口さゆり) ※AERA 2018年11月5日号
AERA 2018/11/05 11:30
投下できないはずの爆弾が… 新証言で明かされる特攻隊のリアル
投下できないはずの爆弾が… 新証言で明かされる特攻隊のリアル
咲き乱れる花を意味する「万朶隊」の佐々木友次伍長と握手をし激励する冨永恭次司令官(c)朝日新聞社 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)(左)/1958年、愛媛県生まれ。作家・演出家。新作音楽劇「ローリング・ソング」(8月11日~9月2日)を紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAにて上演。福岡・大阪公演もあり。吉田 裕(よしだ・ゆたか)/1954年、埼玉県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科特任教授、専攻・日本近現代軍事史、日本近現代政治史。著書に『昭和天皇の終戦史』『兵士たちの戦後史』など。  版を重ねて18万部を突破した『不死身の特攻兵』の著者で作家の鴻上尚史さんと、13万部を数える『日本軍兵士』を著した吉田裕さんが、特攻隊について新たな証言が出てくる背景について語り合った。 *  *  * 吉田:10年ほど前から、不時着したり、わざとエンジントラブルを起こしたりして戻ってきた特攻隊の人たちの話が出てきた。特攻の多様な事実が明らかになってきた。  大岡昇平の『レイテ戦記』は立派な本ですが、体当たりに成功した人を偉大だと讃えている。それによって、生きて戻ってきた人たちに沈黙を強いる結果になった。それだけに新たな証言が出てきたことの意味は大きい。 鴻上:「志願」だったのか「命令」だったのかというのも調べてみると、たしかに志願した人もいたんです。しかし、それは予科練のように14、15歳から軍隊教育を受けた一部の人たち。陸軍の整備兵だった人たちの話では、多くの人は特攻の指名を受けた途端、顔色が本当に真っ青になったといいます。 吉田:軍隊以外の社会を知らないまま、17、18歳で特攻に行った人たちはそうかもしれないですね。  特攻をめぐる新たな証言が出てくるようになった背景には、戦友会などが相次いで解散したことも大きい。これまでは、日本軍の恥部に触れることは言わないという空気がありましたから。南京事件などの戦争犯罪の場合でもほとんどの人が出身地に帰って暮らしていたので、匿名で証言をしても誰が言ったのかすぐにわかってしまう。「おまえ、なんであんなことを言うんだ」と電話がかかってくる。そうした圧力が薄れてきたということもあるんでしょうね。  陸軍の特攻に朝鮮の人たちがいたことも少しずつわかってきています。 鴻上:吉田さんの『日本軍兵士』がすごいと思ったのは、身体に即して書かれているところ。たとえば水虫にかかった兵士が半年間、靴を脱げなかったという話。どんな理屈を口にされるよりも「行軍中、水虫に苦しめられるんだよ」と言われたほうが、戦争はいやだと思いますよ。 吉田:そうですね(笑)。 鴻上:戦地ではろくに歯も磨けない。歯医者も兵士4千人に1人しか配置されず、歯痛の治療も受けられなかった。 吉田:戦争の悲惨さを語ることで平和の尊さを訴えるよりも、戦争の評価について迷いのある人に読んでもらいたい。そんな思いから、だれにとっても一番身近な問題である身体に関わるものを紹介するように心がけたんです。あの戦争では1944年以降に亡くなった人が大部分なんですが、それさえ「初めて知りました」という読者が多い。歴史の基本的な事柄が継承されてこなかったんです。 鴻上:議論の大前提となるものが損なわれていますね。  僕は、『不死身の特攻兵』でインタビューした、9回出撃して9回生還した元特攻兵の佐々木さんがどうして生き残れたのか、そこを知りたくて何度もお会いして話を聞いたんです。佐々木さん自身はそういう言い方はされませんでしたが、結局、飛行機に乗るのが好きだったからじゃないかと思うんです。彼は戦場に行くのを怖いと思ったことがない。いつも、わくわくドキドキしていたという。 吉田:そうですか(笑)。 鴻上:佐々木さんの乗った「九九式双発軽爆撃機」というのは評判の悪い飛行機だったんですが、熟練すると鳥の羽のようになる。空を飛ぶのが好きで、こんなにも飛行機を愛している。だから、特攻で愛機をダメにするというのは嫌だと思ったんじゃないか。でも、軍隊という“超ブラック組織”の中で「好きだ」という実感を語ることは難しい。 吉田:なるほど。 鴻上:企業が新製品を発売するとき、「ビッグデータから見るとこうで……」などと理屈を並べるんだけど、中心にいる人間は「だってこれおいしいんだもの」と言いたいだけだったりする。佐々木さんがラッキーだったのは、どんなに理不尽な上司がいても、空では腕が一番ものをいう。「死んでこい」と言われながらも、行くたびに爆弾を投下して戻ってくる。これが歩兵だったらそうはいかなかったでしょう。好きでなおかつ技術をもっていたのは大きいと思います。 吉田:陸軍の場合は、正式な特攻部隊を形成していなかったために指揮権があいまいで、懲罰を含め上下関係の圧力が少なかったということもあったでしょうね。 鴻上:佐々木さんのようなパイロットは、仲間が何人も殉職するような激しい訓練を受けてきた。それなのに、「急降下爆撃なんかしなくていいから体当たりしろ」と言われて憤ったわけです。70数年前の彼らも自分たちと変わらない人間だと思えましたね。特攻機は爆弾を機体から切り離せないつくりでしたが、整備兵たちは爆弾を投下できるように手を加えました。現場レベルのリアリズムは「落とせない爆弾はありえない」だった。そこにはわずかな希望を感じましたね。(構成/朝山実) ※週刊朝日  2018年8月17-24日合併号
週刊朝日 2018/08/14 07:00
“オウムシスターズ”次女と交際を黙認された端本悟の怒り「麻原さんを許せない」 <教団エリートの「罪と罰」(6)>
“オウムシスターズ”次女と交際を黙認された端本悟の怒り「麻原さんを許せない」 <教団エリートの「罪と罰」(6)>
証言拒んだ「沈黙の男」 横山真人死刑囚 (C)朝日新聞社 勝手気ままな「フリーマン」 端本悟死刑囚 (C)朝日新聞社  医師、弁護士、科学者……「宗教国家」を夢想した麻原彰晃の下には、高学歴で才能あふれるエリートが集まっていた。26日に死刑が執行された、勝手気ままな「フリーマン」端本悟と証言を拒んだ「沈黙の男」横山真人。地下鉄サリン事件から17年となった2012年、最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、オウム真理教を徹底取材。麻原の操り人形として破滅へと堕ちていった彼らの、封印されたプロファイルをひもとく――。 物理の秀才が麻原の「浮揚」を信じた瞬間 <教団エリートの「罪と罰」(5)>よりつづく ■勝手気ままな「フリーマン」 <端本悟(はしもと・さとる)> (1)生年月日:1967年3月23日 (2)最終学歴:早大法学部中退 (3)ホーリーネーム:ガフヴァ・ラティーリヤ (4)役職:自治省 (5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):愛長  勝手気ままな性格で、信徒仲間から「フリーマン」と呼ばれた男は、武術の腕を買われて教団の“戦闘要員”を務めていた。  北海道出身。都立高を卒業後、早大法学部へ進学した。大学2年のときに、入信した高校時代の友人を取り戻そうとオウムについて調べるうちに興味を持ち、セミナーに参加。当初は両親に、 「弱虫の集まりみたいな集団だ」  と話していたが、取り込まれて入信し、88年末に大学を退学して出家した。  物静かで線が細かったが、大学時代には空手サークルに入っており、89年、教団内の武道大会では元ボクサーの信徒などを破り優勝。麻原から「減量してボクシングの世界チャンピオンになれ」と指示されるなど「武道の達人」と認識され、教祖の警護役に抜擢されたことが運命を変えた。  同年11月の坂本弁護士一家殺害事件では、腕を見込まれて直前に実行役6人の一人に選ばれた。「ポアしろ(殺せ)」という命令に逡巡したが、「教団で生きていくにはやらなければならない」と、犯行を決意。坂本弁護士の顔を殴って組み伏せたり、叫ぼうとする妻・都子さんの腹にひざを強く打ちつけたりと“制圧”役を担い、他のメンバーとともに一家3人を殺害した。  94年の松本サリン事件では、村井秀夫が乗っていたサリン噴霧車を運転した。  95年7月、埼玉県大宮市(現さいたま市)のマンションに潜伏しているところを見つかり逮捕された。かくまっていた女性は、恋愛関係にあった「オウムシスターズ」の次女。恋愛禁止の教団内でも、例外的に交際を黙認されていた。  法廷では検事と激しくいがみ合うなど、しばしば好戦的な態度をとった。教団内での自分の立場を「しらけていた」と説明。91年に教団がドラム缶を改造して作った粗末な「潜水艦」に乗るよう指示され、事故死しそうになったことについて聞かれると、 「はっきり言って、麻原さんをぶちのめしても許せないって気持ちがすごいあった」  と、教団へのいら立ちを吐露。松本サリン事件については「教団のすることはバカで間抜けなことばかり」であり、「鼻水を出させる程度のものと思っていた」と、殺意を否認した。一方、信徒たちがマインドコントロールされていたと言われることについては、「そういう言葉で納得するのは簡単だが、そんな言葉でごまかしたくない」  と、明確に否定した。2007年10月、死刑が確定した。 ■証言拒んだ「沈黙の男」 <横山真人(よこやま・まさと)> (1)生年月日:1963年10月19日 (2)最終学歴:東海大工学部 (3)ホーリーネーム:ヴァジラヴァッリヤ (4)役職:科学技術省次官 (5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):菩長補  神奈川県出身で、少年時代は剣道や美術に熱中。地元の東海大学に進み応用物理学を専攻した。湘南にあるキャンパスでは、いつもTシャツにジーパン姿で通し、友人たちとの会話では聞き役だった。  1986年4月、卒業と同時に中堅の電子部品メーカーに入社。群馬県の工場に配属されて産業用ロボットの設計・製造を担当し、独身寮から通った。  自己表現が苦手だったのか、新入社員を紹介した社内報の自己PR欄は、生年月日と血液型しかない。入社1年目の夏、長期休暇から戻ると同僚に、 「本屋でオウムの本を見た。俺にはあれだ」  と話した。この時期からオウムのヨガ道場に通い、麻原の説法テープをすべて購入するほど熱中した。  89年、出家を理由に退職。上司に教団の書籍を渡し、 「読んで勉強してください」 「私は(教団内で)偉くなりたい。それには土、日だけの修行では足りない」  と主張。家族には反対されたが、「人類を救うため」に振り切った。  教団では科学技術省に所属し、機械班の仕事を任された。仲間との会話は「ワーク」についてのみで、自室にこもって睡眠も忘れるほど作業に没頭し、布教活動用のロボットやホーバークラフトを作った。自動小銃の製造でも、電機メーカーの生産技術課で身につけたノウハウを生かし、中心的な役割を担った。  だが、周りのことには無頓着で、逮捕されるまで松本サリン事件があったことさえ知らなかったという。  地下鉄サリン事件では、丸ノ内線の四ツ谷駅でサリンをまいたが、この車両からは死者が出なかった。95年5月16日、麻原とともに上九一色村の教団施設で逮捕された。  裁判では地下鉄サリン事件実行犯の中で、ただ一人詳細な証言を拒否。裁判のごく初期を除き、弁護人や検事の質問に下を向いたままひたすら無言を貫いた。  死刑を求刑された後の最終弁論でようやく、 「犯した罪を逃れようとは全く考えていません。刑罰を受け入れる覚悟はできています」  と、メモを読みながら消え入るような声で語った。07年7月、死刑が確定した。 ※週刊朝日 臨時増刊「オウム全記録」(2012年7月15日号)
オウム真理教
週刊朝日 2018/07/26 13:07
物理の秀才・広瀬健一が麻原の「浮揚」を信じた瞬間 <教団エリートの「罪と罰」(5)>
物理の秀才・広瀬健一が麻原の「浮揚」を信じた瞬間 <教団エリートの「罪と罰」(5)>
「浮揚」信じた物理の秀才 広瀬健一死刑囚 (C)朝日新聞社 東大卒の豊田亨死刑囚 (C)朝日新聞社  医師、弁護士、科学者……「宗教国家」を夢想した麻原彰晃の下には、高学歴で才能あふれるエリートが集まっていた。26日に死刑が執行された、東大卒の死刑囚・豊田亨、麻原の「浮揚」信じた物理の秀才・広瀬健一。地下鉄サリン事件から17年となった2012年、最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、オウム真理教を徹底取材。麻原の操り人形として破滅へと堕ちていった彼らの、封印されたプロファイルをひもとく――。 *誰より多くサリンを撒いた「殺人マシン」の意外な素顔 <教団エリートの「罪と罰」(4)>よりつづく ■東大卒の死刑囚 <豊田亨(とよだ・とおる)> (1)生年月日:1968年1月23日 (2)最終学歴:東大大学院理学系研究科中退 (3)ホーリーネーム:ヴァジラパーニ (4)役職:科学技術省次官 (5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):菩長  兵庫県の旧家に生まれ、1986年に現役で東大に合格した。文武両道で、理学部物理学科で学びながら、少林寺拳法部では三段を取得。几帳面にとったノートは、友人に重宝がられた。性格も温厚で、周囲から信頼される好青年だった。 「必ずノーベル賞を取る」  友人にこう語るほど熱心に物理を学び、90年に同大大学院へ。成績上位の1割しか入れない難関の研究室で、素粒子理論を研究した。  オウムへは、東大合格時に書店で麻原の本を見かけたことがきっかけで入信した。しかし、学生時代の友人に自身の信仰を明かすことはなかった。  オウム真理教が衆院選に出馬した90年には、趣味のギターを弾きながら「ショーコー、ショーコー」と教祖の歌まねをして友人を笑わせた。血を見るのが嫌いで、同級生が医学部の解剖実習の様子を語って聞かせようとすると、 「堪忍しとくんなはれ」  と逃げ回ったという。  修士論文試験の最中だった92年4月に突然出家。麻原から直接説得され、その日のうちに決めた。家族や友人の元には、 「彼女が重病で、あと半年の命だ。最期を看取りたいので捜さないでくれ」  という内容の手紙が送られてきたという。  まじめな性格が災いし、教団では次第に危険な思想に染まっていく。教団の反社会的な側面を知った時は、 「我々は極めて危険なことをやろうとしているのではないか」  と思ったというが、教団幹部の村井秀夫に、 「危険なことはやりたくない、と考え、尊師の指示に従わないのは自分の煩悩であり心のけがれである」  などと言われて疑念を封印してしまった。  地下鉄サリン事件では、実行犯として地下鉄日比谷線恵比寿駅でサリンをまいた。その後も東京・新宿青酸ガス事件や、東京都庁小包爆弾事件などに関与し、4件の事件で起訴された。  法廷では、教祖を批判することが多かった他の信徒に比べて感情を表に出さず、寡黙に振る舞った。その点について問われると、 「これ以上、多くの方に不快な思いをさせる行為は慎まなければいけない」  と語った。2009年11月、上告が棄却されて死刑が確定した。 ■「浮揚」信じた物理の秀才 <広瀬健一(ひろせ・けんいち)> (1)生年月日:1964年6月12日 (2)最終学歴:早大大学院理工学研究科 (3)ホーリーネーム:サンジャヤ (4)役職:科学技術省次官 (5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):菩長補  物理学の秀才は、科学の法則より教団の「奇跡」を信じ、破滅への道を歩んだ。  小学校時代から剣道に打ち込み、明るく温厚で勉強熱心。通知表に「包容力 統率力 絶対的な信頼」と書かれる優等生だった。  1987年春、早大理工学部の応用物理学科を首席で卒業し、同大大学院修士課程で超伝導を研究。同年6月、担当教授と連名で作成した論文を京都の国際会議用に送ったが、認められなかった。  この“挫折”が影響したのか、次第に瞑想などにのめりこんだ。自身の体験談によれば、88年3月、教団の書籍を読んでいる時に、「『バーン』と、突然発破を仕かけたような爆音が体を走りぬけた」  そのため、オウム真理教のヨガ道場に通い始め、同年10月には内定していた大手電機メーカーの研究所への就職を断って出家。  止めようとした担当教授から、「空中浮揚は慣性の法則に反している。学問を積んだ者が、なぜバカなことを信じるのか」  とただされたが、「見た」と譲らなかった。だた、空中浮揚の矛盾には気付いていたらしく、逮捕後に当時の心境を振り返って、 「(空中浮揚を力学的に測定した)データを見せてもらったが、明らかに脚の力で跳んでいた。それを見てもおかしいと思わず、教義への信を失わなかった」「麻原を信じていたから、としか言えない」  と、複雑な思いを語った。90年2月の衆院選では、埼玉5区から出馬するも落選。地下鉄サリン事件には実行犯の一人として加わり、丸ノ内線御茶ノ水駅付近でサリンをまいた。  旧ソ連製のAK74をモデルにした自動小銃の製造にもかかわり、試作銃一丁を組み立てた。  逮捕後は黙秘を続けていたが、脳に関する書籍を読み、脳内物質の作用によって、"神秘体験"に似た現象が起きることを知る。このことや裁判での麻原の言動への不信感がきっかけとなり、教団の教えと決別した。  2009年11月に死刑が確定。裁判中に被害者の悲痛な叫びに接し、一時は精神状態に変調をきたすこともあったが、 「多くの人を苦しめ続けている私の罪は、私の命をもってかえるしかない」  と、最後は淡々と罪を受け入れた。 “オウムシスターズ”次女と交際を黙認された男の怒り「麻原さんを許せない」 <教団エリートの「罪と罰」(6)>へつづく ※週刊朝日 臨時増刊『オウム全記録」(2012年7月15日号)
オウム真理教
週刊朝日 2018/07/26 12:19
オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実
オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実
端本悟死刑囚 (c)朝日新聞社 林泰男死刑囚 (c)朝日新聞社  松本・地下鉄両サリン事件などで29人の死者を出した一連のオウム真理教事件で死刑判決を受けた林(現姓・小池)泰男死刑囚(60)ら6人の刑が26日、執行された。林死刑囚のほか、岡崎(現姓・宮前)一明(57)、横山真人(55)、豊田亨(50)、広瀬健一(54)、端本悟(51)ら5人。オウム事件での死刑囚は13人で、教祖の麻原元死刑囚(本名・松本智津夫)ら7人は7月6日にすでに執行されていた。1カ月の間で2回の執行は初めてで、残された死刑囚の精神状態を考慮し、早まったとみられる。死刑囚全員の刑が執行されたことで、一連のオウム事件に終止符がうたれたが、事件にはまだ多くの謎が残されている。阿鼻叫喚の地獄絵のような現場で被害者、医師、捜査員、脱洗脳カウンセラーらは何を思ったのか? ■「接見で林、端本ら死刑囚が見せた素顔」 オウム真理教家族の会会長 《死刑囚6人と接見した「オウム真理教家族の会」の永岡弘行会長がその長い道のりを振り返る。》  東京拘置所で土谷正実、新実智光、井上嘉浩、中川智正、林泰男、端本悟と会いました。  拘置所の土谷は最初は何も話さなかったが、やがて「後悔している。両親に会いたい」ということを言いだした。それで、うちの家内が土谷の母親に会いに行ったんですが、「あの子には会いたくない」とおっしゃった。その後、土谷には彼女ができて、獄中結婚しました。戸籍上結婚していないと、会うこともできないんですね。彼女とも私は長時間話をしたことがあります。結婚生活は3~4年は続いたが、彼女からある日、「アメリカへ行きます」と電話がかかってきた。数年前に離婚したようです。  新実とは何度も会っています。麻原をまだ、尊師と呼んでいた。高橋克也被告の公判に証人として出廷したときも、オウムのころから着ていたサマナ服でした。接見したときも、「親はお前を心配してるんだぞ」と言っても、黙して語らず、そういう感じになってしまいましたね。井上は拘置所で自殺を図ったことがある。彼は房内で眠れなくなって、睡眠薬をもらっていて、それを一生懸命ためて、一気に飲んで自殺を図った。私は驚いて、飛んでいきましたよ。「卑怯なことをするな。生きて償うほうがもっとつらいんだぞ」と叱ったら、唇を噛みしめて「わかりました」と答えた。何が好きか聞いたら「オートバイが好き」と言うので、バイクの雑誌を差し入れました。彼は2年くらい前まで、短歌を作って、私に送ってきていました。2015年に証人として井上が裁判に出廷したとき、彼のお父さんが会いたいと言うので、会ったことがあります。お父さんはただただ「申し訳ない」と言うばっかりでしたね。  中川も獄中で短歌を作っている。彼とも何度か会い、同年3月4日にも接見してきました。彼のお母さんとはよく連絡をとりあうんですが、彼のお父さんは病気らしく、お母さんはちょっと面会に来れないんだよということを伝えてあげました。彼はうなずいていました。  林泰男は私が接見したときは何もしゃべらなかったんですが、公判ではよくしゃべります。彼は古参の信者だったから、母親もいい年なんですよ。私どもの会合など、いろんな会合に顔を出しておられたのですが、健康状態がすぐれないようで、最近はあまりお見かけしなくなりました。  端本君と接見したときには、拘置所の中でうちひしがれている感じでしたね。死にたいみたいなことを言うので、「そういうことはまかりならん」と、言っておきました。  私は95年1月、自宅の近くの郵便ポストに行く途中、オウム信者にVXをジャンパーの襟にかけられ、意識不明になって、病院のICUに運ばれました。今も体にしびれが残ります。けれども、私は彼らの死刑には反対しています。彼らは麻原の操り人形だった。償うことのできない大罪を犯したが、宗教法人としての認証を与えるべきではなかったんです。私はそれに反対する行動を起こしていました。先日、久しぶりにオウムのサティアンがあった旧上九一色村へ行きました。サティアンがあった場所は野っ原で牧歌的な場所になって、慰霊碑が立ち、そこでお祈りしてきました。涙が流れました。宗教法人としての認証を与えないように、あのときちょっとでも行政が聞く耳を持ってくれたならば、という気持ちも込み上げてきました。 ■「教祖を法廷で罵っても悪の教義は今も信じている信者」 脱洗脳カウンセラー  尊師の「ポア(殺せ)」という指示で凶悪なテロをためらいもなく実行した実行犯たち。事件直後から、オウム信者の脱洗脳を手掛けてきた脳機能学者・苫米地英人氏がその動機を語る。 「サリン事件は、オウムにとって“ヴァジラヤーナ”という教義に基づき、教えを実践したまでのこと。麻原は最終解脱者で、他人の魂を解脱させて転生することができ、人々はカルマ(悪業)を積んでいるから、苦しめば苦しむほど、より良い転生ができる。つまり、サリンをまいて苦しめて殺すことが、人のためという危険な教義だったのです」  苫米地氏は、重罪を免れ、社会復帰した一部の幹部らは今も確信犯とみている。 「元幹部らオウム信者の多くは麻原を否定しても、ヴァジラヤーナを全く否定していない。やはり、オウムに対し、破壊活動防止法で組織を壊滅させるべきだったと思います」(苫米地氏)  実行犯・高橋克也被告の裁判で、林泰男死刑囚や林郁夫受刑者はかつての尊師を罵った。 「本当に洗脳が解けているかは極めて怪しい。薬物を使った洗脳は簡単に解けるものではない。ずっと刑務所にいて自然に解けたなんてあり得ません」(同)  苫米地氏は、十数人の元信者の脱洗脳に成功したが、当時の苦労をこう話す。 「隔離して専門的な技術を使って脱洗脳を行い、やっと解けたのです。その中の一人の正悟師のMは、現在刑期を全うし、OLとして社会復帰をしています」  麻原死刑囚がいた東京拘置所(葛飾区)の周辺は、「麻原のエネルギーが強い」という理由から、信者の間では“聖地”とされている。ぶつぶつと何かを唱えながら巡礼する信者が近所の人の間で、たびたび見かけられている。 「麻原の死刑が執行され、神になるだけ。オウムの闇は今も解明されていないことが多いのです」(同)  だが、未解決事件を掘り起こしてほしくない人がいるようだと、苫米地氏は指摘する。 「國松(孝次元警察庁)長官狙撃事件も、K(元巡査長)が証言をしても、証拠が次々と消されて隠滅されてしまった。サティアンがあった旧上九一色村に、核廃棄物がいまだに埋められているという話も、当局は調査しようとさえしなかった。麻原ら13人の死刑が執行されて、問題がなかったことのように、闇に葬られようとしています」(同) ■「車内にシンナーのようなにおいが漂い、『毒ガスだ、逃げろ』と」 被害者が語った忘れられない記憶 《地下鉄日比谷線北千住発中目黒行きの午前7時46分発の電車に、実行役の林泰男死刑囚は、杉本繁郎受刑者の運転する車で上野駅から乗り込み、秋葉原駅でサリン液の入った三つのポリ袋を傘の先でついた。その結果、電車は築地駅で緊急停止。死者8人、重軽傷者約2500人を出し、日比谷線のこの電車はサリンがばらまかれた丸ノ内線、千代田線などの5本の電車の中で最大の被害が出た。当時、会社員だった石橋毅さんは、埼玉県越谷市で暮らし、朝の出勤途中、電車に乗り合わせることになった。》  1995年3月20日は普段と何ら変わらない、晴れ渡った朝でした。日比谷線神谷町駅の近くにある会社のビルのメンテナンスに出勤するため、午前7時くらいに自宅を出て、越谷駅から東武伊勢崎線に乗り、日比谷線の北千住駅で席に座り、車内ではスポーツ紙で好きなプロ野球の記事を読みながらウトウトしていました。  日比谷線の人形町駅か八丁堀駅を過ぎたころ、何か2回くらいドスンというような音がして、目が覚め、車内を見回したら、左斜め前に立っていた初老の男性がいきなり、のど元に手を当て、体を硬直させながら後ろ向きに倒れた。  2メートルくらい離れたドアの近くには水たまりのようなものがあった記憶があります。車内にはシンナーのようなにおいが漂っていて、クラクラした気分になった。キャーという女性の悲鳴も聞こえた。  スーツ姿のサラリーマンが、ハンカチを口に当てながら、ドアの近くにあった非常通報ボタンを押して、電車は築地駅で緊急停止した。「毒ガスだ、逃げろ」という声が聞こえ、乗っていた人たちは、ドアをこじ開け、一斉に走りだした。私も駅の外へ逃げようと全力で走ったが、階段を上っている途中で、足が動かなくなった。四つん這いになって地上を目指した。  階段を上り切って、外に出ると築地本願寺のそばに出た。青い空、澄みきった空気でした。  何が地下鉄で起きたのかはわからなかったが、とにかく会社へ行くことだけを考えていた。築地本願寺の前あたりから市場のほうへ交差点を目指して歩き、交差点でタクシーを拾い、後部座席に座り込んだ。運転手さんと話をしているうちに、息苦しくなり、大きく口を開けてハアハア言うようになって、そのうち気を失ってしまった。  気づいたら、タクシーの運転手さんにかつがれて、虎の門病院の受け付けへ到着していた。病院ではソファに倒れ込んでいる人、ハンカチで口を覆ってうずくまっている人、駆け回る看護師さん。パニック状態でした。  私は集中治療室(ICU)に運ばれ、点滴を受け、しばらく気を失っていた。スタッフが電話で「えー、サリンだってよ」と話している声が聞こえてきた。それで、サリンがまかれたのを知りました。病室がとても暗く感じました。後で知ったのですが、目の前が暗く感じるのはサリンの中毒症状だそうです。  4日間入院しました。その後、通院しているときに、病院で警察の方からも事情を聴かせてほしいと言われ、話をしました。警察官から、地下鉄の電車の車内に、私が通勤の緑のバッグを忘れたと教えられました。中には弁当が入っていました。  事件後、疲れやすく、膝に力が入らないなどの症状があり、誰かにつけられているという妄想にとりつかれた。精神科に入院したりもしました。  3~4年勤めていたメンテナンス会社は、事件の半年後に辞め、地元の新潟県に戻ってきました。サリン事件後、5回転職し、結婚もしたけれど、5年で離婚。離婚してからプライベートでは何一つ楽しいことがない日々が続いた。  2008年12月、政府はオウム真理教による八つの事件の被害者に対し、給付金を支払いました。  そのとき、私は特に申請もしなかったのですが、一時金100万円を給付されました。  その際に、警察の方が尋ねてこられ、新潟にもそういう被害者が十数人いるということを聞きました。  今は新潟県長岡市の地元の会社に勤めて14年ほどになります。心の病や引きこもりの人たちがタレントとして活動する地元のグループ「K-BOX」に参加し、地下鉄サリン事件を題材にした詩を作って朗読したり、ピアノの弾き語りをするようになり、心の安定が得られるようになりました。 ■医師が明かす「手探りだったサリンの解毒」  地下鉄サリン事件では、約700人の患者さんが東京・築地の聖路加国際病院に殺到しました。それ以外の患者さんが都内の大病院にそれぞれ30~40人くらい搬送されました。私は34人の患者さんを診ました。今度は公的機関から「爆発ではなくて、どうやら青酸ガスによるシアン中毒のようだ」という情報が入り、やがてそれが誤りで、サリン中毒だったという情報に変わりました。  救急車で患者さんが運ばれてきて、一番の症状は目の異常でした。サリンの影響で瞳孔が小さくなってしまい、光が入らなくて、まわりを暗いと感じる患者さんが多かったんです。息苦しいと呼吸の異常を訴える人や言語障害などの症状が出た人もいました。地下鉄サリン事件で、オウムが教団内部で実行犯たちの解毒剤として使っていた硫酸アトロピンやパムは、うちの病院に大量に保管してありました。特にパムは特殊な薬で、普通の病院にはあまりなかったので、東京都の他の病院にお分けしました。病院に搬送された方には、シャワーを浴びて浴室で着替えをしていただいてから入院していただきました。うちでは除染をやったおかげで、病院スタッフに誰も被害を出さずに診療ができました。体や衣服についたサリンが洗い流されたんですよね。  重症化した人には衣類についたサリンを継続的に吸い続けて悪くなった人もいます。救急車で運ばれてくるとき、4~5人を詰め込んで連れてきたため、軽症の人や救急隊員も二次汚染した例がありました。他の医療機関で、患者さんの除染をせずにたくさん診察室に入れてしまって、医療スタッフが二次被害を受けたということもあったようです。サリンの診療にかかわった医師たちは諸外国の国々に呼ばれて講演に行っています。世界のテロ災害医療では、アメリカの9.11テロと日本の地下鉄サリン事件が、大きな教訓になっています。 ■「サリン、VX液攻撃されても、平田被告らを弁護したワケ」 滝本太郎弁護士 《1994年5月9日、オウムからサリンの襲撃を受けた滝本太郎弁護士がこう事件を語る。》  当時、私は甲府地裁にいて、山梨県旧上九一色村のオウム真理教の教団施設を巡って、教団の弁護士と法廷で争っていました。開廷中、裁判所の駐車場に止めてあった、私の車のボンネットの空気口からサリンを流されました。空気口は閉じてあったのですが、帰りの車を運転していたら、突然、視界が暗くなった。親がクモ膜下出血の病気を患いましたから、私にもクモ膜下出血の前兆が出たのかと思い、脳ドックをしてもらいに病院へ行ったのを覚えています。  サリンという言葉は麻原説法で知ってはいましたが、まさか自分がやられるとは思ってもいなかった。その後、教団による一連の事件で次々に信者が逮捕され、何人かが「滝本さんの車にサリンをまいた」と自白して、事態を知ったのです。93年7月からはオウム信者の脱会カウンセリング活動を始め、95年に一連のオウム事件がはじけるまで、三十数人が脱会したことから、麻原に狙われたんでしょう。私はサリン1回、VX液2回、ボツリヌス菌1回の合計4回襲撃されました。VXは一滴かければゾウも死亡してしまうほどの猛毒。  94年10月、オウムの信者がデパートで買ってきたポマードにVX液を混ぜて、私の車のドアのノブに2回塗ったんです。私はノブを触りましたが、手袋をしていたのと、VX液も未完成だったので何とか無事でした。この事件の後の94年11月4日、今度はボツリヌス菌で殺害されそうになりました。この日、オウムから脱走した両親の2歳にもならない子供を教団施設から取り戻す交渉をしていたのです。私が静岡県富士宮市の旅館で、教団の弁護士と林郁夫受刑者と交渉していると、「これは健康的な飲み物です」とジュースを出されました。薄汚れたガラスコップだなぁとは思ったんだけど、のどが渇いていたし、飲んじゃった。そのコップにボツリヌス菌が塗られていましたが、飲んでも何ともなかった。警察は周りを見張っていたんですけどね。17年逃亡し、特別手配されていたオウム元幹部の平田信が突然、警視庁丸の内署に出頭しました(2011年12月31日)。平田が「滝本さんに会いたい、呼んでくれ」と言っていると警視庁から連絡があり、会いに行きました。  重要なのは、彼をかくまっていた元女性信者を自首させないと2人とも刑が重くなるということだった。平田は彼女の自首に同意して、私にだけ、彼女の電話番号と居場所を話してくれた。彼女は一旦、犯人蔵匿罪で指名手配されたんですが、そのあと、指名手配が解かれたんですよ。彼女はもう罪になることはないんじゃないかと誤解していてね。私が電話で「犯人蔵匿罪は、住まわせたりして逃亡を助けていれば継続しているから、まだ時効なんて完成してないよ」と教えてあげたら、彼女は「じゃあ自首します」と了解したから、私が大阪へ車で迎えに行って、その車に段ボール6箱を積んで、付き添って自首させたんです。  平田と彼女との利益対立を避けるために、私は10日間で平田の弁護人からは降りました。オウム元逃亡犯の菊地直子が逮捕されたとき(12年6月3日)は、親から弁護人になってくださいと依頼されて、面会に行った。菊地とは一度会っただけです。菊地本人が「親にいろんな迷惑をかけたくないから国選弁護人にしてください」と希望したので、私は辞退しました。 ■「オウムに先手を打たれた」残党信者が今も増加する教団の実態 元警視庁捜査一課幹部  地下鉄サリン事件の裁判では、教祖、麻原元死刑囚と信者9人の死刑、信者4人の無期懲役が確定した。  未曽有のテロの“引き金”となったのは、迫り来る強制捜査だった。当時、サリンの製造責任者だった土谷正実死刑囚など教団幹部の取り調べを行った元警視庁捜査一課理事官の大峯泰廣氏がこう語る。 「サリン事件の1週間前の日曜日、捜査一課捜査員200人全員が陸上自衛隊朝霞駐屯地に集められ、ガスマスクの装着訓練を極秘で行いました。これは強制捜査に備えたサリン対策の訓練でしたが、オウム側へ情報が事前に漏れてしまい、先手を打たれてしまった」  公判記録などによると、麻原は1995年3月18日、故・村井秀夫幹部を呼び、社会をかく乱して強制捜査を防ぐために、「ポア」(殺人を意味するオウムの概念)を指示。大峯氏がサリン製造責任者だった土谷死刑囚らを取り調べた当時をこう振り返る。 「村井は3月18日、『大至急、作らないとダメだ』と土谷に指示し、前夜に約700グラムのサリンができあがりました。それを20日朝、霞ケ関駅などでバラまいたのです。麻原は『ハルマゲドン(人類最終戦争)が起こるから教団は武装しなければならない』と言い、VX、ソマン、イペリットガスなど多くの化学兵器を土谷に作らせていました。当時、土谷は後悔した様子は微塵もありませんでした」  オウムは最盛期、在家信者1万4千人、出家信者1400人を抱える組織にまで拡大したが、公安調査庁によると、サリン事件後は信者数を千人まで減らした。  だが、組織の再興に取り組み、99年に1500人まで回復。その後も微増の傾向を示している。2007年、オウムは現在「アレフ」を名乗る主流派と上祐史浩氏(52)が率いる「ひかりの輪」の両派に分裂。昨年の信者数は両派を合計して1650人。いずれも依然、麻原の影響下にあるとされる。  昨年の資産額は両派を合計して6億9千万円。00年と比べて17倍以上の増加となった。アレフではお布施を集め、ひかりの輪では寺院を巡るツアーを企画するなどして、積極的に資金源を確保しているという。  東京都足立区でオウム対策の住民運動を行う男性はこう語る。 「施設に出入りしている信者数名が、駅で若いころの麻原彰晃の写真を眺めていました。近所の女子大生が、『ヨガに興味はないか?』と誘われたこともありました。信者は何をやっているかわからず、恐ろしい。早く解散してほしいです」  なぜ、あれだけの凶悪事件を起こした団体が、求心力を持ち続けているのか。 「新しく入信する人たちの動機は、『悪の組織だと思っていたけど、教義を聞いてみたら、すごいことを言っているじゃないか』というもの。単純に、『頭のおかしな集団がいて、危険だから監視しろ』と責め立てるだけでは、問題は永遠に解決しない。客観的な視点を踏まえた分析が必要です」(元信者) (本誌取材班) ※週刊朝日 2015年3月27日号より抜粋、加筆
オウム真理教
週刊朝日 2018/07/26 00:00
コブクロ、結成20周年を前に初開催した“2人だけ”のツアー 21年目のリスタートに向けて盤石ぶりを確信する充実のステージ
コブクロ、結成20周年を前に初開催した“2人だけ”のツアー 21年目のリスタートに向けて盤石ぶりを確信する充実のステージ
コブクロ、結成20周年を前に初開催した“2人だけ”のツアー 21年目のリスタートに向けて盤石ぶりを確信する充実のステージ  2018年5月末からスタートし、先日7月22日の大阪・京セラドーム大阪公演で幕を閉じたコブクロの“2人だけ”のツアー【KOBUKURO WELCOME TO THE STREET 2018 ONE TIMES ONE】。その埼玉公演が7月14日と15日の2日間、さいたまスーパーアリーナにて開催された。本レポートではその二日目の15日の公演の模様を伝える。 ライブ写真(全6枚)  2018年9月の結成20周年を前に、ストリートでの弾き語りからキャリアをスタートした2人が、いま改めて「WELCOME TO THE STREET」を掲げ、初となる2人編成で開催した本ツアー。その意味合いを2人は「原点回帰ではなく、新しい挑戦」と表現していた。それは活動20周年を前に、今一度2人だけでステージに立つことで、自分たちの足場を再確認し、21年目以降のリスタートへの準備という意味合いもあったはずだ。  開演前には“ストリート”というツアーのテーマを受けて、大阪・道頓堀の映像がスクリーンに投影され、街の雑踏の音がBGMとして場内に流れていた。定刻を過ぎ客電が落ちると、スクリーンには、まさにストリートで歌うデビュー前の2人の映像が、フラッシュバックのように短く編集され流れる。その音が次第に大きく、激しくなっていき、クライマックスで一転、無音に。アリーナ中央に斜め十字状に置かれたステージ、その対角線上の端と端に、小渕健太郎と黒田俊介が拳を掲げて登場した。  そのままセンターのステージへ移動し、一曲目に披露されたのはメジャーデビュー・シングルである「YELL~エール~」。小渕の弾くブルージーなアコースティック・ギターの低音リフから、2人の歌う大らかなメロディが紡がれていく、「これぞコブクロ!」という一曲でライブの開幕を告げた。そして、続けて披露された「One Song From Two Hearts」も圧巻。足踏みドラムとブルースハープが登場、ギターと歌に加えてこれらの楽器も弾きこなし、一人二役どころか、三役も四役もこなす小渕のミュージシャンとしてのエネルギーにも圧倒される。  序盤、コール・アンド・レスポンスが特徴の「ストリートのテーマ」で場内は一気にお祭りモードに。小渕と黒田がステージをところ狭しと動き周り、アリーナを周遊するトロッコも登場して、観客を煽り盛り上げる。この1曲を通して、全部で2万人以上を収容するさいたまスーパーアリーナの大空間がグッと親密に感じられる気がするから不思議だ。  漫画家の高野苺とコラボレーションした「君になれ」の演奏前には、小渕がMCで「今日は2人だけのステージだけど(バンド編成の普段のライブと比べて)足りない音は、皆さんの想像力で足してください」とコメント。ある意味では観客に対する、これ以上ないほどの信頼を示した一言だったといえる。とはいえ、いざ演奏がはじまると、ループマシンを使って、アコースティック・ギターのリフやボディを叩く打音を重ねて即興的に鮮やかなアレンジを組み上げていくのは流石。その魅せ方も含めた確かな技術は、〈いつの日か/本物の君になれ〉というこの曲の歌詞のメッセージに、ますますの説得力をもたらしていた。  今回のツアーの中盤の見どころだったのは、ライブ当日に、その日の気分で演奏曲を決める3曲の“当日選曲コーナー”。曲の決め方も自由で、一曲目を担当した黒田は観客にその場でアンケートを行って曲を決めた。そうした流れで最初に披露されたのは「流星」だったが、曲が決まってからの流れも実にユニークで、まず2人が、おそらく候補曲の譜面(コード譜?)がまとめられた分厚いファイル(候補曲は150曲以上もあったとのこと)をめくりながら、決まった曲のパート割を確認していく。もちろん、ただ目で見るだけでは思い出せない部分もあるので(他会場では「二番に入れない」という事件も起きたそう)、実際にその場で早口で歌いながら、どのパートをどちらのメンバーが歌うのかを確認していくのだ。その様子は普段のライブではなかなか見ることの出来ないもので、二人のリハスタにお誘いを受けたような、妙な贅沢感もあった。ちなみに、打ち合わせの最中、スクリーンには、道路工事の現場などによくいる、三等身のアニメ風キャラとしてデザインされた小渕・黒田が登場、キュートな姿も会場の注目を集めた(ちなみに、このイラストは小渕作とのこと)。  当日選曲コーナーの二曲目は、小渕が決めた「Bell」。ライブ冒頭の「YELL~エール~」と両A面になっていた曲で、粋な選曲にファンも大興奮の様子だった。そして、三曲目は再びの観客アンケート。ここでは黒田がアリーナにまで降りていって、一人ひとり指名しながら、歌って欲しい曲を聞いていく。だが、候補曲が挙がっても、他の観客の反応や拍手が今ひとつだったらNGという、ややハードルの高い設定もあり、なかなか曲が決まらず。そんな中、一人の観客が挙げた「ANSWER」という選曲に、会場から大喝采が起こる。メジャーデビュー・アルバム『Roadmade』の最終曲としてレコーディングされたこの曲について小渕は、メジャーデビューが決まり、お客さんとの距離が離れていってしまうのではないか? という(自分たちも含めた)懸念への回答として作った曲だと当時を振り返りながら説明。この原点回帰的なステージにピッタリの一曲を高らかに歌い上げ、コーナーを締めくくった。  ここからはライブ後半戦。これまでとは雰囲気を一転、照明演出も絡み合ってクールなムードを醸し出した「Ring」をはさみ、コブクロの代表曲である「桜」「風」「ここにしか咲かない花」という3曲が立て続けに披露される。小渕の職人的なギタープレイとエモーショナルな歌、そして黒田の大空に舞い上がる大砲玉のような強烈なヴォーカルが観客を圧倒。その深い余韻に、観客の長い長い拍手が響き渡った。  ライブの最終コーナーは、アッパーなパーティー・モードに突入。爽やかな曲調が夏にピッタリの「潮騒ドライブ」に始まり(この日のさいたま市の最高気温は36度だった)、コール・アンド・レスポンスで会場が再び一体化した「Moon Light Party」、そして、どこか和を感じさせるメロディとポップ・パンク調のリズムが軽快な「轍」と、ライブ終盤に相応しいナンバーが続く。本編の最後は、ツアータイトルにも掲げられた「ONE TIMES ONE」。「1×1が、2にも3にも、無限にもなる」というメッセージを込めた、人生の可能性を讃えるような1曲で本編を締めくくった。  「轍」の歌詞の一節、〈そんな時は/僕のところへ おいで/歌を唄ってあげよ〉というフレーズのファンの合唱が繰り返される中、その期待に応える形で行われたアンコール。この日は「WHITE DAYS」そして「バトン」の2曲が披露された。後者は“命のバトン”をテーマにした曲だったが、それは必ずしも親子や家族の関係のことばかりではなく、誰かが誰かに「がんばれ」と声を掛けて、そのことが人が後押しされることも「バトン」の一つなのだ、と語った小渕のMCも印象的だった。  全18曲に、楽しいMCや選曲コーナーも加え、気がつけば3時間半という長丁場のライブとなっていたが、その長さを全く感じさせないライブだった。文章の冒頭で、このライブがコブクロにとって「自分たちの足場を再確認し、21年目以降のリスタートへの準備をする」ものだったのであろう、と書いたが、蓋を開けてみれば、2人というこれ以上ないほどミニマムな編成でも、音楽面、パフォーマンス面で全くの不足を感じさせない見事なステージ。その安定感は特筆すべきものだった。この日、コブクロは、アーティスト/エンターテイナーとしての実力と、そこに集った観客たちの愛情によって、アリーナを、まさに(その場にいる人々の温もりに溢れた)“自分たちのストリート”に変えてしまったのだ。21年目以降に向けて、2人の自信と確信を感じるステージだった。 ◎公演概要 【KOBUKURO WELCOME TO THE STREET 2018 ONE TIMES ONE】(埼玉公演) 2018年7月15日(日)埼玉・さいたまスーパーアリーナ ※終了
billboardnews 2018/07/23 00:00
菅野と筒香が遭遇した「振り逃げ3ラン」…夏の甲子園、地方大会の衝撃シーン
久保田龍雄 久保田龍雄
菅野と筒香が遭遇した「振り逃げ3ラン」…夏の甲子園、地方大会の衝撃シーン
東海大相模時代の巨人・菅野 (c)朝日新聞社  今年も各地で地方予選が行われ、夢の甲子園出場へ向け球児たちが熱い戦いを続けているが、懐かしい高校野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「思い出甲子園 真夏の高校野球B級ニュース事件簿」(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、夏の選手権大会の予選で起こった“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「勝敗を分けた珍プレー編」だ。 *  *  *   振り逃げ3ランの珍プレーが勝敗を大きく分けたのが、2007年神奈川県大会準決勝、東海大相模vs横浜。  0対0で迎えた4回、東海大相模は4番・大田泰示(現日本ハム)の左越え二塁打などで1死二、三塁のチャンスをつくり、大城昌士の左前安打と原大地の右越え二塁打で3点を先取。なおも2死一、三塁と攻めたてたが、9番・菅野智之(現巨人)はカウント2-2から落司雄紀のワンバウンドになるスライダーにバットを中途半端に出した。球審が一塁塁審に確認を求めると、スイングを取ったことから、右手を高々と上げて「スイング」を宣告した。  これを見た横浜の1年生捕手・小田太平は、てっきり球審が「アウト」をジャッジしたと思い込み、ボールをサードの1年生・筒香嘉智(現DeNA)に転送すると、ベンチに引き揚げた。他のナインも笑顔で続々とベンチへ。捕手がワンバウンドで捕球した場合は、打者の菅野にタッチするか、一塁に送球しなければいけなかったのだが、ピンチを切り抜けてホッとした気持ちがアダとなったしか言いようがない。  一方、「捕手が打者にタッチしていないのがハッキリ見えた」という東海大相模・門馬敬冶監督は、三振だと思った菅野がベンチに戻ろうとすると、大声で「走れ!」と指示した。菅野ら走者3人は慌ててダイヤモンドを1周し、振り逃げ3ランが成立。6対0となった。この間、すでにベンチに戻っていた横浜ナインは、どうすることもできなかった。  ノータッチの判定に対し、横浜・渡辺元智監督は「球審のジャッジがアウトと思った」と主張したが、「捕手が打者にタッチしたかは(ベンチから)見えなかった」とあって、引き下がるしかなかった。  しかし、さすがは全国制覇5度の実績を誇る強豪。その裏、筒香、中原北斗、松本幸一郎、高浜卓也(現ロッテ)の4連打で3点を返し、あっという間に3点差に詰め寄った。  だが、気持ちを切り替えた菅野は5回以降1失点と踏ん張り、東海大相模が6対4で逃げ切り。結果的に自ら記録した振り逃げ3ランの3点が勝利をもたらした。  前年、県大会決勝で敗れた宿敵に雪辱をはたした菅野は「“打倒横浜”でやってきました。横浜の選手の分も背負って、必ず甲子園に行きます」と誓ったが、決勝で桐光学園に8対10と打ち負け、チームメートの1番打者・田中広輔(現広島)ともども無念の2年連続決勝戦敗退となった。  ピッチャーのサヨナラボークは甲子園の試合でも見られたが、ボークが記録されるのは投手に限った話ではない。  捕手のボークでサヨナラ負けという珍幕切れとなったのが、2017年の徳島県大会1回戦、阿波vs城東。  1対1で迎えた9回裏、1死三塁のピンチに、阿波の鳴川真一監督は次打者の敬遠を指示した。  しかし、捕手がキャッチャースボックスの外に出た状態で投手が敬遠のボールを投げたことから、ボークが適用され、三塁走者がホームイン。まさかのサヨナラゲームとなった。  これは敬遠の際にだけ適用されるルール(野球規則6.02)で、1年生の捕手はルールを知っていたようだが、一打サヨナラの緊迫した場面で「急いでしまった」という。  野口浩史県高野連審判部長も「約30年間野球の審判に関わってきたが、今回の事例は聞いたことがない」と驚くほどの珍事。鳴川監督も「何がボークになるか、選手たちにきちんと伝えられていなかった。私の責任です」とコメントした。  また、勝敗が分かれる重要局面とあって、球審も捕手に対して事前に注意するのは公正中立を欠くという判断から、ルールを優先する形となった。  事情はどうあれ、申告敬遠制ならあり得ない悲劇だが、高校野球では今年も従来どおりの敬遠が採用されている。敬遠の場合は、捕手の立ち位置にも要注意だ。  今夏、阿波は初戦を8対0とコールド勝ち。前年の雪辱をはたした。  延長戦で決定的な3点を追加したのに、ベース踏み忘れで取り消され、直後、逆転サヨナラ負けの悲劇が起きたのが、2017年の埼玉県大会2回戦、日高vs飯能。  部員不足の両校は3月まで合同チームを組んでいたチームメート同士だったが、抽選くじのいたずらか、くしくも初戦で敵味方に分かれて対戦することになった。どちらも1年生を加えた13人ずつで試合に臨んだ。  初回に日高が1点を先行すると、飯能も2回に追いつき、その後、1点ずつを取り合って2対2のまま延長戦へ。  12回、日高は1点を勝ち越し、なおも2死満塁のチャンスに4番・岡村勇飛主将が中越えに走者一掃の三塁打を放ち、6対2とリードを広げた。  これで勝負あったかと思われた直後、飯能側から「一塁ベースを踏んでいない」とアピールがあり、なんと三塁打と追加の3点は取り消し。一転スリーアウトチェンジとなった。  その裏、同点に追いつかれてなおも1死満塁のピンチにスクイズを決められ、3対4で無念の逆転サヨナラ負け……。正智深谷からの転校生で、2年生ながら最後の夏となった岡村は「あれで流れが変わった。主将として申し訳ない」と号泣したが、「(最後の相手が)飯能で良かったと思う」と元チームメートにエールを送った。 ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。
dot. 2018/07/22 16:00
試合開始35分で没収試合、ノーヒットに抑えたのに敗北…夏の甲子園、地方大会で起きた不運
久保田龍雄 久保田龍雄
試合開始35分で没収試合、ノーヒットに抑えたのに敗北…夏の甲子園、地方大会で起きた不運
悲運の没収試合から11年後、夏初勝利をサヨナラ勝ちで飾った蘇南ナイン (c)朝日新聞社  今年も各地で地方予選が行われ、夢の甲子園出場へ向け球児たちが熱い戦いを続けているが、懐かしい高校野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「思い出甲子園 真夏の高校野球B級ニュース事件簿」(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、夏の選手権大会の予選で起こった“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「ああ……不運編」だ。 *  *  *   試合開始から35分で没収試合という不運なアクシデントが起きたのが、1997年の長野県大会2回戦、飯田vs蘇南。  前年春に軟式から硬式に転向したばかりの蘇南は、2年目の同年は春の県大会の中信地区予選1回戦で松本第一に16対13で打ち勝ち、うれしい公式戦初勝利。2度目の出場となった夏の県大会も、3年生4人、2年生2人、1年生3人のギリギリの9人で出場し、勝利を目指した。  対戦相手の飯田は春の県大会で地区予選を勝ち抜いて南信地区の代表になった実力校。1回にいきなり4点を先行された。  アクシデントが起きたのは、その裏の攻撃中だった。蘇南は2死から3番・北原将が三ゴロで一塁にヘッドスライディングした際に左手薬指脱臼、第2関節じん帯断裂の重傷を負ってしまった。それでも「最後までやる」と出場を訴えたが、治療を受けている最中に貧血も起こしたため、救急車で病院に運ばれた。  この結果、8人になった蘇南は試合続行が不可能となり、試合開始から35分後に無念の没収試合(0対9)となった。  小池昌信監督は「人数の少なさに不安はあった。まさか試合でこうなるとは思わなかった」と沈痛な表情。試合後、球場の外で残った8人の部員に「どうすることもできないが、申し訳ない」と詫びた。最後の夏となった3年生も「一生懸命やった結果だから仕方ない」と納得した。  3年生が抜けた新チームは部員が5人となり、練習も満足にできない苦境に陥ったが、主将になった北原は「自分が中心になって借りを返そう」とチームをよくまとめ、翌年夏、1年生9人を加えた14人で県大会に出場。1回戦の上伊那農戦は、7回コールドで敗れたものの、エース・4番として最後までグラウンドに立ちつづけた。 その後、蘇南は2008年に富士見を2対1で下し、悲願の夏初勝利を挙げている。  相手打線をノーヒットに抑えたにもかかわらず、試合に敗れるという不運に見舞われたのが、2006年の西武台。  埼玉県大会3回戦、栄北戦に先発した背番号10の2年生、青木太一は4四球を与えただけの被安打ゼロ、奪三振7奪三振で完投した。だが、結果的にこの四球が祟り、ノーヒットノーランを達成することはできなかった。  4回、四球の走者を送りバントとエラーで三塁に進めた後、1死一、三塁から二ゴロの併殺崩れの間に1点を失ってしまったのだ。  これに対し、西武台打線は3回を除いて毎回走者を出し、得点圏に走者を6度も進めながら、カーブ、スライダーを低めに集めた公式戦初先発の1年生右腕・大平陽康から決定打を奪えない。9回2死一、二塁のチャンスも代打が三振に倒れ、5安打完封負けを喫してしまった。  甲子園出場歴(1988年春)があり、2001年にも県大会8強入りした西武台に対し、創部6年目の栄北はこの大会の1回戦(福岡戦)で夏の初勝利を挙げたばかり。そして、通算3つ目の白星が予想もしなかった“ノーヒット勝ち”の珍事。  こういうことがあるから、トーナメントの1本勝負は奥が深い。  不運と言えば不運なのだが、その一方で「超ラッキー!」とも呼べるような悲喜こもごもの珍事が起きたのが、1995年の埼玉県大会4回戦、本庄東vs立教(現立教新座)。  立教の先発は、背番号8の2年生左腕・斎藤大。対戦相手の本庄東には練習試合で本塁打を打たれており、相性はあまり良いとは言えない。大野道夫監督も当初は「5回までの予定」と考えていた。  だが、この日の斎藤は絶好調。伸びのある直球と緩急をつけたカーブを巧みに織り交ぜ、本庄東打線から安打を1本も許さない。  これでは「打たれたらすぐ代えようと思っていた」大野監督も代えるに代えられず、様子を見ているうちに、とうとう8回までノーヒットノーランを継続。この時点で立教は4対0とリードしており、あとは9回の1イニングを残すだけとなった。  ところが、8回裏の自軍の攻撃中に思いもよらぬどんでん返しが待っていた。この回、1死満塁のチャンスで2番・斎藤に打順が回ってくると、2番手・高原欣宏の初球をなんと右越えに満塁ホームラン。これで8対0となったため、8回コールドのサヨナラゲームになってしまったのだ。当然、斎藤のノーヒットノーランも単なる参考記録となり、球史に残る快記録は、あと1イニング、打者3人で幻と消えた。  実は、記録のことを知っていたナインは「自分たちが打ったらコールドになるので、記録が消える。どうしよう」と思い悩んでいたという。そんな矢先に「満塁本塁打は打ったことも見たこともない」という斎藤が自らのバットでまさかのコールドゲームを決めてしまうのだから、野球は本当に何があるかわからない。  通常ノーヒットノーランは打者に安打を許してストップするものだが、投手の本人が満塁本塁打を打ったことによってストップするという珍事は、高校野球の地方予選ならではと言えるだろう。  試合後、「どうして打ったんだ?」とチームメートから冷やかされた投打のヒーローは「今にして思えば、ちょっと残念だけど、勝てたのはうれしい」とチームの勝利を喜んでいた。 ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。
dot. 2018/07/21 16:00
ハーフ生徒に「日本から出てけ」増えるSNSいじめ 専門家に対策を頼む学校が急増
福井しほ 福井しほ
ハーフ生徒に「日本から出てけ」増えるSNSいじめ 専門家に対策を頼む学校が急増
いじめは水面下に潜み、見えづらくなっている(※イメージ写真) LINEの「ステータスメッセージ」イメージ(編集部作成)  5月、熊本の県立高校に通う女子生徒(17)が自らの命を絶った。女子生徒の遺書にはいじめをうかがわせる内容があり、写真共有アプリ「インスタグラム」が原因との声もある。また、同月には埼玉県の高校2年生の女子生徒が昨年4月に自殺した事件がツイッターでのいじめがきっかけだと県教委の第三者審議会に認定された。SNSトラブルが増える中、対策を専門家に依頼する学校が増えているという。  インターネット事業を展開する「アディッシュ」(本社・東京)は2007年、業界で初めてのネットパトロール「スクールガーディアン」を開始。当初は学校裏サイトの対策事業としてスタートした。依頼を受けた学校に通う生徒のSNS等をチェックし、投稿内容を報告する。担当者はこういう。 「契約時に学校と定めたキーワードなどで検索して、生徒たちの投稿を見守っています。基本的には月に1度の報告ですが、『いじめ』『自殺』など深刻だと判断した場合はすぐに報告しています」  2011年頃から契約校が増え始め、いじめ防止対策推進法が施行された2013年からまた増加。今では私学約240校が利用しているという。  実際にサービスを導入している私立高校の教員は手応えをこう話す。 「うちの生徒が制服で写っている写真をSNSに投稿すると、良い投稿も悪い投稿も全部報告があがります。私服の場合でもうちの生徒だと分かれば、情報が入ります。撮影時間やアップした時間も分かるので、生徒が授業中に禁止されているスマホを使っていれば、証拠になるので指導にも使える」 ■「日本から出ていけ」投稿 疑心暗鬼になる生徒も  ある公立高校の教員は生徒間のSNSトラブルが絶えないと頭を抱える。 「SNSに関する指導が増えていて、暴言を吐かれたり悪口を晒されたりといったトラブルはしょっちゅうです」  先日もアプリ「質問箱『Peing』」で問題が起きたばかりだという。質問箱は匿名でメッセージを送れるサービスで、主にツイッターに連携してコミュニケーションをとるアプリだ。 「あるハーフの生徒の質問箱に『日本から出ていけ』と書き込まれる事案があった。高校生の吐く暴言ってけっこう容赦がなく、今回のケースは人権問題にもつながるし、学校もかなり慎重に対応しています。本人がたまたま悩みをこぼしたから判明しましたが、SNSトラブルは誰が投稿したのか証拠をつかむにも時間がかかるし、解決のハードルが高い」(公立高校教員)  匿名制ではあるが、中傷内容から「実はあの子が投稿したのでは」と疑心暗鬼に陥ることもある。  一方、投稿者がわかる場合でも、誰に宛てたメッセージなのかわからずトラブルになる事例も。  ある私立高校ではLINEの「ステータスメッセージ」欄に一喜一憂する生徒が増えているという。 「揉め事が起きたとき、生徒の一人がLINEのステータスメッセージ欄に『むかつく』といった漠然としたコメントを書いたことがあった。それを見た喧嘩相手の生徒が『自分のことだ』と思い込み、別のグループに『感じ悪い』と共有し、余計に揉め事がヒートアップしたこともありましたケースもあります」(私立高校教員)  どちらの事例も投稿者や対象が分かりづらく、従来の暴力や集団無視などの見えやすいいじめとは異なるのが特徴だ。不登校新聞の編集長、石井志昂さんは「いじめの場所は教室からスマートフォンやアプリの中など、大人からはより見えにくいところに移っている」と指摘する。  SNSによって変わりゆく子どものいじめ問題。取り巻く大人たちの対応も、変化が求められている。(AERAdot.編集部 福井しほ)
dot. 2018/06/07 11:30
熊本・女子高生“インスタ”自殺でわかったSNSに潜む罠 自衛の言い訳ハッシュタグとは?
福井しほ 福井しほ
熊本・女子高生“インスタ”自殺でわかったSNSに潜む罠 自衛の言い訳ハッシュタグとは?
いじめは水面下に潜み、見えづらくなっている(※イメージ写真) 最後のハッシュタグ「#でもお腹壊した」でキラキラとのバランスを取る(※編集部作成)  また痛ましい事件が起きてしまった。熊本の県立高校に通う女子生徒(17)が5月、自らの命を絶った。いじめをうかがわせる遺書があり、写真共有アプリ「インスタグラム」がきっかけだったという声もある。また、埼玉県の高校2年生の女子生徒が昨年4月に自殺した事件はツイッターでのいじめがきっかけだと県教委の第三者審議会が認定した。いつでも、どこでも、誰とでもつながれる。便利で手軽なSNSの裏側で、高校生に何が起きているのか。 ■“言い訳ハッシュタグ”駆使して キラキラ抑制も  今回の事件では、自殺した女子高生はインスタグラムのフォロワーや男友達が多いことをねたまれていると家族にこぼしていたと報道されている。ITジャーナリストで10代のSNS事情に詳しい高橋暁子さんは高校生のインスタ事情について、気を使う動きが出ていると指摘する。  「インスタはルックスが優れていたり、オシャレだったりすると『いいね』やフォロワーが増える傾向にあるが、それを見て劣等感を抱く人も出てくる。マイナスの感情を刺激しないために、一時期『言い訳ハッシュタグ』というものが流行りました」  言い訳ハッシュタグにはいわゆる“オチ”のような役割があるという。「豪華な食事やブランド物といった写真に『#でも金欠』といった庶民っぽさを付け足すことで、キラキラとのバランスを取る効果がある」(高橋さん)  また、10代の若者たちは評価社会で生きていると高橋さんは見ている。「2011年のツイッターの流行からフェイスブック、インスタでは『いいね』の数やリツイート、フォロワー数が評価の一つになっている」と分析する。  インターネットの質問投稿サイトにはインスタに関する悩みが日々書き込まれている。「私の投稿にだけリアクションしない」、「リア充アピールがうざい」、「友達よりいいねが多いか気になる」といった内容が目立つが、どれも直接中傷するわけではないのが特徴的だった。 ■いじめ問題「本質は変わらないが、SNSで暴走も」 「インスタグラムなどのSNSがいじめを作っているわけではない」と指摘するのは不登校新聞の編集長、石井志昂さんだ。「いじめは関係性の中で起きる暴力であり、本質はチェーンメールいじめのときから変わらない」という。  10年ほど前、「このメールを○人に送らないといじめの対象になる」などと転送を求め、特定の子への誹謗中傷やデマの情報が書かれたメールを友達同士で拡散させていくといういじめが流行した。「スクールカースト(教室内の階層)などいじめが起きやすい条件の上にSNSなどの新しいツールがあることで、暴走しやすくなっているということだと思います」(石井さん)  熊本県では4月からSNSによるいじめ通報サービスの導入を始めるなど、いじめ問題に取り組んでいる矢先だった。県教委は今回の事件について、今後は第三者委員会を設置し、いじめの可能性を含めて調査を進めるとしている。  2017年度の自殺者数は2万1321人で、8年連続減少している。しかし、未成年者の自殺は前年比9%増の567人。全年齢で唯一の増加だった。(警察庁「自殺白書」より)  子どもの本質は変わらない。しかし、子どもを取り巻く環境は日々変化する。SNSで水面下に潜むいじめ問題について、対応が求められている。(AERAdot.編集部 金城珠代・福井しほ)
dot. 2018/06/07 11:30
殺人1位、すり2位…全国ワーストは大阪 「犯罪の県民性」
殺人1位、すり2位…全国ワーストは大阪 「犯罪の県民性」
ひったくりが多発する大阪で自転車用の防犯カバー装着を呼びかけるくまモン(c)朝日新聞社 都道府県別にみた主な犯罪の認知件数(2017年)(週刊朝日 2018年6月1日号より) 知能犯と粗暴犯の認知件数(人口10万人あたり)(週刊朝日 2018年6月1日号より) 主な犯罪の人口10万人あたり認知件数(2013〜17年の5年間平均)(週刊朝日 2018年6月1日号より) 被害件数と検挙人員に占める高齢者の比率(週刊朝日 2018年6月1日号より) 京都府警が運用する予測システムのイメージ(地図はダミーのデータ)(週刊朝日 2018年6月1日号より)  新潟や千葉で女児が被害に遭う痛ましい事件が起きた。殺人、強盗、詐欺、すり、ひったくりなど様々な事件が連日起きているが、報道されるのは一部。事件全体の件数を都道府県別にみると、地域差が大きいとわかる。各地の犯罪事情や安心して暮らせる地域はどこかを探った。  まずは昨年1年間の犯罪の発生状況を振り返りたい。  警察庁「犯罪統計」によると、通報や被害届で全国の警察が認知した刑法犯は、約91万5千件。認知件数は2002年の約285万4千件をピークに減る傾向で、16年には戦後初めて100万件を下回った。17年も前年比約8%減ったが、それでも1分間に約1.7件起きた計算になる。  都道府県別にみると、東京が約12万5千件と最も多く、全国の約14%を占める。2番目は大阪で約10万7千件。ただ、人口10万人あたりに換算すると、大阪1208件、東京926件と順位が逆転する。犯罪が多発する大阪は、認知件数に占める検挙件数(検挙率)も21.8%と全国ワーストだった。  認知件数が最も少ないのは、実数でも人口比でも秋田。人口比でみると、最多の大阪と最少の秋田は、実に5倍超もの開きがある。  地域によって犯罪の傾向はどう違うのか。暴行・傷害・脅迫などの粗暴犯と、詐欺・横領・偽造などの知能犯を、人口10万人あたりの認知件数で比べた。東京・大阪は、粗暴犯と知能犯いずれも、全国平均より大幅に多い。島根・鳥取・岩手・秋田・大分・鹿児島などは、どちらも全国平均より少ない。  東京・大阪の大都市以外でも、滋賀・栃木・香川などは知能犯が平均より多く、群馬・兵庫・沖縄などは粗暴犯が多い傾向。首都圏の千葉・茨城・神奈川・埼玉は、犯罪の傾向が比較的似ている。一方で、関西圏をみると、滋賀と奈良は知能犯の多い傾向、兵庫・和歌山は粗暴犯の多い傾向があり、同じ関西でも対照的だ。  さらに詳しくみるため、13~17年の5年間の犯罪別平均件数を計算し、人口10万人比の都道府県別ランキングを作成した。その結果、多くの犯罪で大阪が全国ワーストだった。  大阪の犯罪の多さを象徴してきたのがひったくり。ピークの00年には、1日平均約30件発生。大阪府警は自転車かご用のひったくり防止カバーを府民に無料で配ったり、防犯カメラ設置を自治体に促したりするなど対策を強化。未成年の犯行も多いため、補導や支援に力を入れてきた。  その結果、17年の件数は集計方式が同じ1989年以降で最少となった。路上強盗や車上ねらいなども大きく減少。ただ、認知件数の全国ワーストを返上するまでには至っていない。  府警犯罪抑止戦略本部の阿田光幸副本部長は「数字は改善しても、体感治安は良くなっていない。府民の安心感を高めるため、検挙と防犯対策に一層力を入れたい」と話す。体感治安とは、人々が日常生活で実感する治安状況のことだ。  全国の認知件数のうち、7割の約65万5千件が窃盗。さらに細かく分類すると、愛車を持ち去る自動車盗、住宅などに忍び入る侵入盗などがあり、身近で被害に遭いやすい犯罪といえる。そのいずれも、茨城が人口比で全国最多だ。  この実態を茨城県警はどうみているのだろうか。  自動車盗は、盗難車を解体施設(ヤード)へと運び、解体後に部品を海外へ売りさばくケースが多いとみられる。ヤードが立地しやすい条件が県内にそろっているのでは、と茨城県警はみる。東京など都市部と比べ、地価が安く整地された土地も多い。隣接する千葉や栃木には大規模な中古車オークション会場があり、周辺に自動車関連業者が集中。車や部品を運びやすい高速道や港湾施設も整っている。「ヤードが多いため、盗難車を扱う不正施設が目立ちにくい」(県警生活安全総務課)という。  千葉や愛知も自動車盗が多く、かつては全国ワーストの年があった。しかし、取り締まりを強化するなどして件数が減ったため、16年以降は茨城が認知件数の全国ワーストに。茨城県は17年4月、ヤードの経営者の届け出義務化や警察官の立ち入り権限を強化した条例を施行した。県警も不正ヤードや自動車窃盗犯の動向に目を光らせている。  茨城の17年の侵入盗約4千件のうち、半数超が住宅を対象にした犯行。空き巣や就寝時に侵入する忍び込みなどの手口だった。県警は「茨城は農業県で、住宅が点在する地域も多い。1戸あたりの敷地面積も広い」とみる。  確かに、敷地面積は平均425平方メートルと全国1位(総務省「統計でみる都道府県のすがた2018」)で、総農家数は約8万8千戸と全国2位(農林水産省「2015年農林業センサス」)。住宅が大きく、密集していない環境が侵入盗を誘発するのだろうか。  茨城以外の侵入盗が多い県も、農業が盛んな地が比較的目立つ。人口あたりの侵入盗件数2位の愛知は、総農家数全国6位。福岡は同17位、千葉は同10位、岐阜は同13位だ。  次に、殺人や強盗などの凶悪犯、強制わいせつなどの性犯罪の傾向をみよう。  強盗の人口10万人比の認知件数をみると、大阪・東京・埼玉など上位10都府県はいずれも人口250万人以上。一方で、殺人をみると、沖縄・和歌山・高知・香川・愛媛と、人口150万人以下の県もワースト10に入る。  犯罪件数は全国的に減る一方で、強制性交などの性犯罪は増える地域もある。強制わいせつの17年の認知件数は、全国で前年比6%減の約5800件。ただ、京都・兵庫・埼玉・宮城など23府県は前年より多い。  京都府警は、窃盗や性犯罪の発生時間帯や場所をコンピューターで予測する全国初のシステムを、16年10月から運用し始めた。過去の捜査情報や統計データと犯罪理論を組み合わせて分析し、最適な街頭パトロールの経路をパソコンの地図上に示す。  こんな実績もある。ある川沿いで性犯罪発生の可能性が高いとのデータが示され、警察官が付近を巡回。女性を対岸から盗撮する男を見つけ、検挙にこぎつけたという。府警刑事企画課は「警察官の現場経験も融合し、システムの精度を高めたい」としている。  社会の高齢化に伴い、65歳以上の人が被害に遭ったり、容疑者として検挙されたりするケースも増えた。  直近10年でみると、詐欺の被害に遭う人と窃盗の罪を犯す高齢者が特に増えた。16年に万引きで検挙された全国約7万人のうち、38.5%の約2万7千人が65歳以上。16年の国内人口の高齢化率27.3%に比べ、大幅に高い。  振り込め詐欺などの特殊詐欺は、65歳以上の被害が全認知件数の7割超にのぼる。17年には全国で約1万8千件発生。青森・山梨・愛知・香川・宮崎の5県で被害額が5割以上減った一方で、東京・埼玉・千葉・神奈川など大都市圏を中心に16都道府県は認知件数と被害額がいずれも前年より増えた。  和歌山県は人口の3割超が65歳以上で、全国で7番目に高齢者比率が高い。県警によると、17年に刑法犯で検挙された1937人のうち約26%の503人が65歳以上。13年は約21%だったため、約5ポイント上昇している。  503人のうち、285人が万引きでの検挙。容疑者の取り調べや他県の調査データなどから、一人暮らしの孤独感や経済的困窮が背景にあると、県警はみている。このため、今春から県や市町村と協力し、万引きで検挙された高齢者に対し、生活支援の窓口紹介や警察官による自宅訪問などのきめ細かな対策に乗り出した。崎口忠・犯罪抑止総合対策室長は「一歩踏み込んで高齢者に寄り添うことで、安心して暮らせる地域づくりにつながる」と話す。  犯罪の抑止には、経済的な安定や地域のつながりなど様々な要因が結びつく。関係者が力を合わせ、地域の「犯罪格差」が縮小することを願いたい。(藤嶋亨) ※週刊朝日 2018年6月1日号
週刊朝日 2018/05/25 07:00
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