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京アニ事件・青葉容疑者が裁判所に出廷「異例だらけの法廷」で語られた肉声
京アニ事件・青葉容疑者が裁判所に出廷「異例だらけの法廷」で語られた肉声
京都地裁を出る、青葉容疑者を乗せた救急車(撮影・今西憲之)  36人が犠牲になった昨年7月の京都アニメーション放火殺人事件で、殺人などの疑いで5月27日に逮捕された青葉真司容疑者(42)が、事件後初めて、公の場所に姿を現した。青葉容疑者は現在、大阪拘置所に勾留され、京都府警による取り調べを受けている。その勾留理由を開示する手続きが6月9日、京都地裁で始まったのだ。  午後4時すぎ、京都地裁の法廷についたてが置かれた。青葉容疑者はその中を、8人の刑務官と4人の裁判所職員に介助されながら入廷した。  ついたてが取り外されると、傍聴席からはストレッチャーに乗せられて横になったままの青葉容疑者の姿が見えた。頭を裁判官の方に向け、顔以外はシートのようなもので覆われていて、よく見えない。  犯行当時、自身も大やけどを負い、一時は生死の境をさまよった青葉容疑者。間近で見るその姿は、マスクをした顔の右側から首筋にかけて真っ赤なやけどの痕跡が残っていた。右耳はただれて形が崩れており、犯行時の壮絶な現場の様子がうかがえる。  裁判官が冒頭、青葉容疑者に名前をたずねると、 「青葉真司です」  と、ストレッチャーの上からハッキリ答えた。生年月日も、 「昭和53年5月16日」  と述べ、犯行直前まで住んでいた埼玉県の住所もよどみなく答えた。その様子から、意識は明瞭であるように思えた。  弁護側は青葉容疑者の勾留が不当だとして裁判所に理由の開示を求めていた。裁判所は今回、青葉容疑者の勾留を続けている理由について、「第三者を介して、逃亡や証拠隠滅の恐れがある。勾留を認められる証拠がある」と、述べた。  これに対して弁護側は、 「(青葉容疑者に)38度もの発熱があった」 「7回、接見に行ったが4回は体調が悪く会えなかった」 「接見時にしんどいと話していた」 「全身90%ものやけどをおい、生命の危険さえあった。手足も拘縮して、筆記用具すら持てない。電話もできない。証拠隠滅や逃亡をするなど、ありえない」 「通常の生活は、すべて他人の介助が必要」  などと、青葉容疑者の現状を訴え、勾留を続けないように主張した。こうした弁護士の訴えを聞きながら、青葉容疑者は時折、首を左右に動かす。だが、手足はまったく反応がなく、自由に動かせないように見えた。  結局、弁護側の訴えは認められず、公判を終えた青葉容疑者。大阪拘置所へと移動する車両は、なんと救急車。ストレッチャーでの出廷、救急車と、異例ずくめの法廷だった。 (本誌・今西憲之) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/06/09 19:48
甲子園中止で高校生の指名が減る? 秋開催「ドラフト」注目選手は?
秦正理 秦正理
甲子園中止で高校生の指名が減る? 秋開催「ドラフト」注目選手は?
甲子園球場 (c)朝日新聞社 花咲徳栄の長距離砲・井上朋也(左)と、明石商のエース・中森俊介。その雄姿を甲子園で見たかった (c)朝日新聞社  ウイルスの猛威は球児の夢舞台までものみ込んでしまった。全国4千校近い高校が目指した「夏の甲子園」が中止になり、球児や指導者からは悲痛な声が聞かれる。プロ入りを目指す高校生の進路を不安視する声もある。絶好のアピールの場を失ったまま、秋にはドラフト会議が待つ。 *  *  *  この夏、甲子園で球児が白球を追う姿は見られなくなってしまった。全国高校野球選手権大会を主催する朝日新聞社と日本高校野球連盟は5月20日、今夏の第102回全国選手権大会と、代表49校を決める地方大会の中止を発表した。  新型コロナウイルスの感染拡大は全国の感染者数を見れば終息に向かいつつあった。20日時点で39県の緊急事態宣言が解除されていたが、感染リスクを完全になくすことは難しく、休校措置や部活動の休止による練習不足などで、選手の健康や安全面のリスクも否定できないことから、苦渋の決断がなされた。  100年を超える歴史の中で、太平洋戦争による中断(1942~45年)を除き、大会の中止は3度目。18年の米騒動による中止、41年の戦局の深刻化による中止に次ぐ79年ぶりで、戦後初めての中止となる。地方大会すら開催されないのは史上初めてだ。今年は春の選抜高校野球大会も中止となっており、球児たちにとってつらく悲しいのはもちろん、高校野球ファンにとっても寂しい結果となった。  例年、この時期は甲子園で活躍する注目選手に想像を巡らせるファンも多いのではないか。もし開催されていれば、今年はどんな選手の活躍が期待されたのか。「投打ともに粒ぞろい」と指摘するのは、「流しのブルペンキャッチャー」として全国各地のアマチュア選手の取材を続けてきたスポーツライターの安倍昌彦氏。  投手では、昨秋の明治神宮大会を制した中京大中京(愛知)の高橋宏斗と、昨夏は2年生エースとして4強入りを支えた明石商(兵庫)の中森俊介を挙げる。 「ともに今年の高校野球を代表する右の本格派で、速球は150キロ前後。技術面の完成度も高く、甲子園で見たかったという人も多いのでは」  打者では花咲徳栄(埼玉)の長距離砲・井上朋也。昨夏も出場し、2年生ながら4番を務めた。 「打席に向かうまでの姿に、狂気とも表現できる凄みを感じる選手。集中力は並の高校生ではなく、将来的にプロでもクリーンアップを打てるとみています」  安倍氏自身は捕手出身とあって、捕手の注目株も挙げる。日大藤沢(神奈川)の牧原巧汰だ。 「長打力は超高校級で、広角に本塁打を打てる。守備でも送球スピードと精度はすでにプロ級。大阪桐蔭時代の森友哉(現・西武)を彷彿とさせますね」  いずれも出場すれば全国のファンを沸かせたはずの逸材たち。甲子園を経てプロへと羽ばたく球児も多いが、その舞台がなくなってしまった。果たして秋のドラフト会議はどうなるのか。巨人の元編成担当で長年、スカウトからの情報を集めてきた三井康浩氏は「例年より高校生の指名が大幅に減る可能性がある」と語る。 「スカウトは選手の実力の伸び率を重視します。特に3年生の春から夏にかけて目覚ましい成長を遂げる選手が多い。夏の大会を見て、選手の急激な成長に、ここが取りどころだと判断すればドラフトにかけますし、伸び率が足りなければ大学、社会人を見ようかとなる。今年はその時期に長期間チェックができないわけですから、選手の力を把握しようがない。それまでの評価だけでドラフトに向かうのはリスクが高く、指名を見送ることも考えられます」  図抜けた実力の持ち主であればドラフト指名に希望を持てるが、「プロに入れるか否かという選手にとってはピンチ」だという。また、体力面にも不安が残る。 「いざ年が明けてプロ入りして、体力的についてこられるかという心配があります。3年間みっちり鍛えていても、しんどいと感じるのがプロの世界。半年のブランクは大きく、どうしても指名に積極的にはなれないでしょう」(三井氏)  また、甲子園という大舞台を経験することによる精神面での成長も大きく、そうした機会が失われる影響も無視できないという。  もっとも、活躍の舞台がまったくなくなるわけではない。日本高野連は20日の会見で各都道府県による地方大会の代替大会について、「自主的な判断に任せる」とした。地方ごとの代替大会が開催されれば、「スカウトは必ず見に行きます」と三井氏は言う。ただ、開催の判断が地域によって異なれば、スカウトに見てもらえない都道府県が出て、不公平感が生じる懸念はある。 ■江本氏が明かす 舞台失った苦悩  プロ野球側はプロ志望届を提出した高校球児を対象に、トライアウトの開催を検討しているとの報道もある。野球評論家の江本孟紀氏は、「球児に希望を持たせるいい方法」と評価しつつ、自身の経験から「大会が中止されてもドラフトに大きな影響はない」とみる。 「スカウトは有望選手の情報をリトルリーグからチェックしてリストアップしていますから、トライアウトをしなくてもだいたい把握していますよ。私の場合、中学のときにスカウトが挨拶に来て、高校3年時に1年間プレーできなかったのに指名されましたからね」  江本氏自身、甲子園出場が「幻」に終わった苦い経験がある。高知商業時代、他の部員が起こした暴力事件により決まっていた選抜大会の出場をチームが辞退。1年間の対外試合禁止処分で、夏の高知大会も出場できなかったのだ。 「当時の私は優勝候補筆頭の高知商のエースで4番。絶頂期に地獄に突き落とされ、『人生終わった』と思いました。野球もやめてしまい、悶々としながら校舎でボーッとしていると、隣の学校の球音が響いてくる。学校行くのが嫌でしたね。そういうえげつない経験をして世の中を信用しなくなって、ちょっとひねくれた人間になりました(笑)」  江本氏はその後、新たな目標を見つけて立ち直る。西鉄からのドラフト4位指名を断って進学した法政大学、社会人野球を経てプロ入りした。 「『このままで引き下がらんぞ』と思って、長嶋茂雄が活躍していた憧れの東京六大学、神宮の杜で活躍するぞと目標を切り替えたんです。甲子園がすべてではない。プロ野球選手で甲子園に行っている人は半分もいませんし、甲子園で活躍したからといってプロでも活躍できる保証はどこにもないんですから」  江本氏は、プロ入りを目指すわけではない大多数の球児たちのケアこそが必要だと語る。 「体力を持て余している子は多いと思う。甲子園の道が断たれたとき、代わりに次の目標になることを大人たちが指し示してほしい」  前出の安倍氏は、多くの球児たちの声を聞いた経験から、こう話す。 「球児たちは今、『やりきった』という達成感がないまま、中ぶらりんの気持ちで過ごしている。球児にとって甲子園は特別で、何物にも代えがたいもの。ある高校の野球部員からは『軽々しく救済策などと言わないでほしい』という声を聞きました。そうした声もしっかりくみ、選手たちが納得のいく形を望みたいです」 (本誌・秦正理/桜井恒二) ※週刊朝日  2020年6月5日号
新型コロナウイルス
週刊朝日 2020/05/27 11:30
期待外れが多い? 「○○のイチロー」「○○のダル」と呼ばれた選手の行方
久保田龍雄 久保田龍雄
期待外れが多い? 「○○のイチロー」「○○のダル」と呼ばれた選手の行方
高校時代は“伊予のダルビッシュ”と呼ばれた楽天の安楽智大 (c)朝日新聞社  野球界には、かつて「王2世」「清原2世」「○○のゴジラ」と呼ばれた選手が少なからず存在した。近年では、「○○のイチロー」と「○○のダル」が双璧だが、どちらも、そう呼ばれた選手は「活躍しない」イメージが強い。これは本当なのだろうか?  まずはイチローから検証してみよう。最初に「○○のイチロー」と呼ばれたのは、韓国・ヘテの李鍾範だった。  プロ3年目のイチローが打率3割8分5厘で首位打者を獲得し、日本新のシーズン210安打を記録するなど、一躍ブレイクした94年、李も3割9分3厘で首位打者、84盗塁で盗塁王に輝き、“韓国のイチロー”として並び称された。  その後、計3度の盗塁王を獲得した李は98年、中日に入団し、リーグこそ違うが、“本家”イチローに挑戦状を叩きつける。だが、同年に2割8分3厘をマークしたのが最高で、在籍4年間、一度も3割を打つことなく、退団した。  韓国球界からは、首位打者2度、最多安打4度の実績を持ち、これまた“韓国のイチロー”の異名をとった李炳圭が07年に中日入りしているが、こちらも在籍3年間、一度も3割をマークできなかった。  また、97年には、“台湾のイチロー”と呼ばれたルイスが巨人に入団したが、結果を出せず、シーズン途中で解雇された。結局、彼らは、イチローと同列で比較されたことがマイナスに働く結果になった。  だが、走攻守三拍子そろった“安打製造機”タイプの選手を「○○のイチロー」とたとえれば、マスコミ的にアピールしやすいのも事実。90年代後半以降、お膝元の日本でも、アマ球界で「○○のイチロー」が次々に誕生した。 “福六のイチロー”柴原洋(九州共立大)、“薩摩のイチロー”川崎宗則(鹿児島工)、“北陸のイチロー”天谷宗一郎(福井商)、“九州のイチロー”土谷鉄平(津久見)、“東都のイチロー”亀井善行(中大)、“みちのくのイチロー”橋本到(仙台育英)、“上州のイチロー”後藤駿太(前橋商)etc。  メジャーリーガーになった川崎や楽天移籍後に首位打者を獲得した鉄平、“鷹の核弾頭”柴原ら、プロでも実績を残した者が多い。彼らに共通しているのは、かつて「○○のイチロー」と呼ばれた事実が見事にリセットされているという点だ。  プロ4年目のダイエー時代に盗塁王を獲得した川崎は、当時「高校時代は“薩摩のイチロー”と呼ばれたそうですが」と質問されると、「呼ばれていません」とキッパリ否定し、番記者の間ではNGワードになっていたという。川崎はイチロー本人から「イチローマニア」と評されるほど尊敬の念を抱いているが、亜流認定のような呼称は、イチローに対しても失礼と考えたのかもしれない。結果的にプロで一流になることで、過去のレッテルを封印した。  また、元巨人の橋本、現オリックスの駿太は、レギュラーとして活躍したシーズンもあるのに、今ひとつ印象が薄いのは、“世界のイチロー”の名を冠せられたことで、割りを食った感もある。  一方、「○○のダル」は、東北高時代にダルビッシュ有の控え投手だった真壁賢守が、メガネをかけていたことにちなんで“メガネッシュ”と呼ばれたのが走りである。  その後、日本ハム入りしたダルビッシュが1年目から活躍すると、全国の高校球児から「○○のダル」が続々と登場。190センチ前後の長身本格派右腕や外国人の父親を持つ投手は、一様にそう呼ばれた。  彼らは大別して、3つのグループに分けられる。  まず、プロ入りできなかった者も含めて、「○○のダル」のイメージのまま終わってしまった投手。“岡山のダル”ダース・ローマシュ匡(関西-日本ハム)、“下町のダル”吉本祥二(足立学園-ソフトバンク)、らが該当する。 “離島のダル”藤谷洸介(周防大島-パナソニック-阪神)は18年シーズン途中から野手に転向。“埼玉のダル”中村勝(春日部共栄-日本ハム)も14年に8勝を挙げたが、その後は活躍できないまま引退した。  次は現役世代の中で、まだ「○○のダル」に代わる異名が定着するほどの実績を残していない投手。“房総のダル”相内誠(千葉国際-西武)、“伊予のダル”安楽智大(済美-楽天)、“土佐のダル”田川賢吾(高知中央-ヤクルト)らが該当する。また、1軍で実績を挙げつつある“越後のダル”椎野新(村上桜ケ丘-国士大-ソフトバンク)、もう一人の“伊予のダル”アドゥワ誠(松山聖陵-広島)は、今季の成績しだいでは、“脱皮”できる可能性がある。  最後は、プロで華々しく活躍し、「○○のダル」のイメージをすっかり払拭した投手。  花巻東高時代に“みちのくのダル”と呼ばれた大谷翔平(現エンゼルス)が代表格で、大阪桐蔭高時代に“浪速のダル”の異名をとった藤浪晋太郎も、阪神入団後、3年連続二桁勝利を挙げて“卒業”。このほか、“九州のダル”武田翔太(宮崎日大-ソフトバンク)、“松戸のダル”上沢直之(専大松戸-日本ハム)、“前橋のダル”高橋光成(前橋育英-西武)ら“卒業組”がズラリと顔を並べる。  プロで一流になれば、「○○のイチロー」「○○のダル」の呼称は自然消滅するが、活躍できない選手は、いつまでもそのイメージを払拭できない。これが一部のファンの間で「活躍しない」のジンクスとして流布されているようだ。(文・久保田龍雄) ●プロフィール 久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」(野球文明叢書)。
dot. 2020/04/16 16:00
成田凌が“勇気の出ない男”に…30年にわたる恋愛映画で波瑠と共演
菊地武顕 菊地武顕
成田凌が“勇気の出ない男”に…30年にわたる恋愛映画で波瑠と共演
成田凌(左)と波瑠 [写真=植田真紗美、ヘアメイク、波瑠=岩根あやの、成田=宮本 愛、スタイリング、波瑠=入江未悠、成田=伊藤省吾(sitor)] 波瑠(はる・左)1991年、東京都生まれ。2015年度後期NHK朝ドラ「あさが来た」ヒロイン。主な出演映画に「がじまる食堂の恋」「コーヒーが冷めないうちに」「オズランド 笑顔の魔法おしえます。」など。5月放送予定の日台共同制作ドラマ「路~台湾エクスプレス~」出演。/成田凌(なりた・りょう)1993年、埼玉県生まれ。2019年、「スマホを落としただけなのに」「ビブリア古書堂の事件手帖」で日本アカデミー賞新人俳優賞、今年「カツベン!」で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。放送中のドラマ「アリバイ崩し承ります」出演中。 [写真=植田真紗美、ヘアメイク、波瑠=岩根あやの、成田=宮本 愛、スタイリング、波瑠=入江未悠、成田=伊藤省吾(sitor)]  高校の同級生を30年もの長きにわたって想い続ける──。映画「弥生、三月 ─君を愛した30年─」に出演した波瑠と成田凌が、究極の愛について語り合った。どうも男女の間には、微妙な差があるようで……。 ――「弥生、三月」は、高校の同級生2人の30年間にわたる歳月を、3月に起きたエピソードだけで綴る。「家政婦のミタ」などを手掛けた遊川和彦監督のもと、初共演の二人が10代から50代までを演じる。 波瑠:成田さんとの初顔合わせは、リハーサルだったと思います。まだまだ本読みの段階でしたが、遊川さんの演出で成田さんが役に入っていく様子を見たことは、いい経験でしたね。 成田:監督はリハーサル時間も贅沢に使っていました。 波瑠:私は走るシーンが多いんです。バスを追いかけるシーンでは、最初、東宝の敷地内で車を走らせて。舞台の仙台でも何回もリハーサルを繰り返しました。普段の撮影で走る比ではありません。一つのシーンでどのくらい走ったかなんて、覚えていないくらいです。 成田:僕はサッカー選手役で、サッカーの練習のために日帰りで仙台に行ったんです。仙台大学のサッカー部の選手と本番をやるので、一緒に練習をやらせたかったみたいです。 ――30年の間には東日本大震災も起きた。様々な経験を積んだ二人が紡ぐ物語は、究極のラブストーリーとも言える。 成田:なかなか一歩、勇気が出ないで踏みとどまってしまう男の役で、30年間、ずっとあなたのことが好きでした、と。でもそれは常にマックスの状態ではなく、他にいろんなやりたいこともあったりして……。男と女はタイミングなんでしょうね。(50代まで演じたが)出ている側の僕らでもわからない気持ちもあるのかなあ。これからわかっていくのかな、と。 波瑠:女性からすると、ここまでロマンチックでドラマチックだと、ちょっと恥ずかしい(笑)。まっすぐ観られない、みたいな気持ちになります。でも女性のほうが男性よりも時間の流れにシビアなので、30年とかやめてください(笑)。 成田:(笑) (構成/本誌・菊地武顕) ※週刊朝日  2020年3月27日号
週刊朝日 2020/03/24 11:30
元・米国外交官が語る日米安保「米国が日本の防衛をする、は誤解」
元・米国外交官が語る日米安保「米国が日本の防衛をする、は誤解」
[左から]木村三浩 一水会代表 コーディネーター(きむら・みつひろ)民族派団体「一水会」代表。1956年、東京都生まれ。慶応義塾大学法学部卒。月刊「レコンキスタ」発行人。著書に『対米自立』など/ケビン・メア 元米国外交官 元アメリカ合衆国外交官。弁護士。1954年、サウスカロライナ州生まれ。駐日大使館政治軍事部部長、在沖縄総領事、国務省東アジア・太平洋局日本部部長などを歴任。著書に『決断できない日本』/山崎拓 元自民党幹事長(やまさき・たく)近未来政治研究会最高顧問。1936年、中国・大連市生まれ。小泉純一郎政権時に自民党幹事長、副総裁を務める。防衛庁長官、建設大臣、党国対委員長、党政調会長などを歴任。旭日大綬章受章 (撮影/写真部・小黒冴夏) 昨年6月に来日したトランプ大統領と、イバンカ大統領補佐官を挟んで握手する安倍総理 (c)朝日新聞社 埋め立てられる名護市辺野古の海域 (c)朝日新聞社  日米安保条約が改定されて、60年が経過した。「安保ただ乗り」論をぶつトランプ大統領に2021年度以降、現在の4倍以上の「思いやり予算」の支払いを迫られ、超高額兵器の押し売りも続く。辺野古移設問題、横田ラプコンなど日米の問題を、山崎拓元自民党幹事長、ケビン・メア元米国外交官、一水会代表・木村三浩氏が徹底討論した。 *  *  * 木村:今年、駐留米軍経費負担の交渉があります。トランプ大統領はかねて、日米安保条約は「不公平だ」と訴え、日本側の経費負担を現在の約4倍の約80億ドル(約8700億円)に増やすよう求めています。その「思いやり予算」は1978年度から2018年度までに累計で7兆2685億円に上る。基地従業員の給料や光熱費など本来、支払い義務のない負担です。 山崎:そのことに対する反発もあるのでしょう、国会議員の間で、しかも自民党の中から「安保条約見直し」という言葉が発せられるようになっています。91年に冷戦が終結し、現在は中国が経済的にも軍事的にも台頭しています。米中対立の時代とはいえ、かつての米ソ冷戦構造のような危機的状況にはない。その意味でも安保見直し論が出てくる余地はあると思います。 メア:日米安保体制は全く不公平とは思いません。日本には憲法9条があるため確かに非対称ですが、日米の役割と任務は第5条(米国の対日防衛義務)と第6条(米軍への基地提供義務)ではっきりしています。私はトランプ大統領の提案には同意しませんが、「思いやり予算」という言葉は不適切です。最初の特別協定を結んだ87年当時、私は駐日大使館の担当官でした。交渉では、米軍の駐留経費を日本がいくら払うという話はありませんでした。冷戦構造の中で日米がいかに責任分担できるかという概念で協議しました。まだ集団的自衛権が行使できない時でしたから、日本側はどういう貢献ができるかを考えて、駐留経費を背負うことになったのです。次回の駐留経費の交渉では、いきなりお金の話をするべきではない。集団的自衛権が行使できるようになるなど、日本の役割が向上していることを説明するべきです。 木村:山崎先生は見直し論を指摘されましたが、私は日米安保条約を破棄して独立国の国防軍を保持する。そして、日米友好条約を結ぶべきだという立場です。そもそも安保条約の条文には、在日米軍基地は「極東における平和と安全」のために使用できると書かれています。しかし、米国から軍事的協力体制の強化が要請され、自衛隊の海外派遣が繰り返されている。日米安保は本来のあり方から変質しています。 山崎:極東の範囲をずいぶん議論したものです。96年の橋本政権の時に、冷戦後の安保体制の役割を再確認するための日米安保共同宣言を出しました。宣言の中で「アジア太平洋地域」という表現をしています。極東はフィリピン以北と解釈されていましたから、広げたわけです。安倍(晋三)総理になってから、さらに「インド太平洋構想」にまで広がりました。  15年の日米防衛協力のためのガイドラインの改定では、米軍への後方支援を大幅に拡大し、米軍への弾薬提供や、離陸直前の戦闘機に給油ができるようになった。憲法が禁じているはずの自衛隊の海外派兵に道を開いてしまったのです。朝鮮半島危機など周辺事態を想定した97年のガイドライン改定に私は関与しましたが、当時は後方支援でなく、「後方地域支援」という言葉が発明された(笑)。日本周辺で戦場から遠く離れた地域に限定し、武器、弾薬は輸送しない。その制約が取り払われたのです。 メア:私は、日米安保体制はすごく進化したと思っています。特に、集団的自衛権が行使できるようになったことで、日米のネットワークの統合が可能になりました。日本が自国の防衛能力を向上させることは、日米同盟にとってもいいことです。陸上イージスを導入して、ミサイル防衛能力も整備した。F-35戦闘機も計147機調達します。北朝鮮のミサイルと核開発と、中国の海洋覇権という日米共通の脅威に対して、チームディフェンスができるようになりました。 山崎:中国は建国100周年の2049年までに、米国の軍事力に追いつき追い越せとの目標を掲げています。その意味では確かに「潜在的脅威」です。新型コロナウイルスの影響で、中国の習近平国家主席の来日が延期されましたが、やはり08年の日中共同声明に続く「第5の政治文書」に何が書かれるかが焦点です。これまで主権の尊重や領土相互不可侵などが盛り込まれました。ここは米国も入れて、日米中戦わずという明確なメッセージの入った政治文書にしなければならないと思っています。 木村:重要なご指摘です。メアさんのお話にありましたが、私は安倍政権が米国からFMS(対外有償軍事援助)でF-35戦闘機やオスプレイなど高額兵器を大量購入していることに疑問を感じます。整備のためのパーツを米国に注文しても送ってこないから稼働できないといいます。陸上イージスについても全く試験もせずに導入した。必要な装備品があるのに、何で政治が勝手に決めてしまうのか。現場の自衛官からは不満の声が上がっています。 メア:ミサイル防衛は不可欠でしょう? 陸上イージスは最新鋭のレーダーですから、優れた機能を持っています。具体的な脅威に対処するには何の能力と技術が必要であるか考えるべきです。よくFMSが多すぎるとの反発がありますが、F-35のようなステルス性を持つ第5世代戦闘機は日本では製造されていません。技術の問題だけではなく、予算も足りない。中国は10年後には少なくとも350機のステルス機を配備するから、日米で一緒に対処するしかない。 木村:防衛装備の国産化を阻んでいるのは米国です。しかも、日本はあまりにも無批判に米国に追従しています。例えば、03年のイラク戦争では日本が最も早く米国を支持しています。攻撃の口実だった大量破壊兵器は結局、見つからなかったが、日本は何の検証もしていません。自民党の人たちは米国に従うのが国益だと判断しているのでしょうが、あまりにも情けない。 ■横田ラプコンで羽田が発展せず 山崎:当時、小泉総理から「安保に関してはわからない。拓さんに任せる」と言われて(笑)、進言した立場ですから、木村さんのお咎めは私が負わなければなりません。事実関係を言いますと、パウエル国務長官とアーミテージ副長官が来日された時、私は幹事長をしており、公明党の冬柴(鉄三)幹事長と保守新党の二階(俊博)幹事長(現・自民党幹事長)の3人でお会いしたのです。イラクに軍事介入するので賛成してほしいとお話があった。本当に大量破壊兵器を保有しているのか、何度も確認しましたが、まちがいないという。私たちは日米同盟堅持の立場から、小泉総理に賛成するよう進言しました。 木村:後にパウエルさんは判断を誤ったと語りました。 山崎:そう。その後、アーミテージさんから「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と言われ、地上部隊を派遣することを求められました。日本は基本的に国連中心主義、自由主義諸国との協調、アジアの一員が外交3原則ですから、国連決議を取るように求めた。ずいぶん努力されたようですが、結局、決議は取れなかった。それで湾岸戦争の時の決議を援用するということで、やむなくイラク特措法をつくった。一応、戦争が終息した後に、人道支援と称して派遣したというのが経緯です。 メア:日本政府は、ただ米国の言いなりになっているわけではない。本当にそうだとしたら、私は外交官時に仕事で苦労せずに済みました。日本と米国の国益はほとんど一致していますが、一致していない場合はハッキリと言いますよ。 木村:日米地位協定については、与野党を問わずに改定を求める声が聞かれます。私は日米地位協定の見直しは即座に着手しなければならないと思っています。 山崎:地位協定について言えば、特に沖縄で米軍人・軍属による事件、事故が繰り返されています。しかし治外法権的に、刑事責任を問う体制が非常に限定されています。 木村:公務中の米兵の事件は、米国側が第1次裁判権を持つ問題ですね。 メア:日本側に裁判権がないという声がすごく多いのですが、当然のことながら第1次裁判権は日本側にあります。例外は二つだけ。日本人が関わらない基地内の犯罪と、もう一つは公務中の犯罪です。ほとんどの人は、地位協定があるから米兵が犯罪を起こしても基地の中に逃げたら、日本は何もできないと思っている。 木村:95年の沖縄の少女暴行事件では、米兵3人を日本の検察が起訴するまで引き渡さなかった。 メア:それは日米合同委員会で見直しています。現在は凶悪事件(殺人、強制性交など)では、起訴前に日本側に引き渡すように運用が改善されています。 木村:それはあくまで米国側が好意的考慮を払った場合で、被疑者の身柄が引き渡されたことは数えるほどしかありません。 メア:あります。06年の横須賀の殺人事件では、日本側の求めに応じて速やかに引き渡しています。 山崎:地位協定でなかなか国内法が及ばないところがあります。横田ラプコン(※)の管制問題では、東京五輪の開催期間中に限って緩和してはどうかという議論もありますが、羽田空港が発展できないのはこの空域があるからです。私が官邸にいた時に、東京都知事だった石原慎太郎さんが横田空域の問題で、小泉総理と交渉させてくれと何度も来られました。中曽根康弘さんも防衛庁長官の時に「日本の首都の空を米国に守らせていることは断じて許せない」と横田基地返還論を主張されていました。 ※横田ラプコン 米空軍横田基地が航空管制する空域。1都9県(東京、埼玉、群馬、栃木、神奈川、福島、新潟、長野、山梨、静岡)にまたがる。高さは最高7000メートル、最も低いところでも2450メートルある。 メア:石原知事の時に、私は駐日大使館の安保部長として関わっていました。日本の国民が疑問に感じることは理解できます。なぜ、米国が管制権を持っているかというと、米空軍の戦闘機をコントロールするためです。それができなくなれば、防衛能力は大きく低下します。石原知事は軍民共用化をやろうとした。しかし、有事になると横田基地は過密化しますから現実的ではありません。基地周辺の住民も騒音がさらにひどくなるので、横田の民間機利用に反対していました。 山崎:地位協定の見直しについては米国側の譲歩を得たい。やはり、沖縄県民の過重な基地負担を軽減するべきです。現政権は普天間飛行場返還に伴う辺野古移設を推進しています。軟弱地盤の問題が指摘されていますが、何年かかろうとも必ずやるという方針です。辺野古埋め立て問題に対して、県民投票で示されたように反対論が根強い。それが自民党政権にとっても不安定要因になってきました。 メア:強調しておきたいのは、普天間移設計画は日本政府の提案だということです。05年に日米両政府が合意した在日米軍再編計画は負担軽減です。現在、沖縄本島の15%が米軍施設ですが、再編計画を実行すれば11%に減る。辺野古は一部埋め立てる必要がありますが、海兵隊の既存基地のキャンプ・シュワブに移るだけです。負担軽減になるのに、地元の知事が反対するのはおかしいし、県民に対しても無責任です。 木村:知事が反対していて、地元住民が県民投票までやって、反対の意思表示をしています。これが米国内であれば、基地建設はできないのではないですか。 ■辺野古埋め立て反対した小泉氏 メア:米国も安全保障政策は国の専権事項であって、地元が決められるものではありません。もちろん、地元に十分配慮する必要があります。米軍再編計画は負担軽減ですが、同時に抑止力も維持しなければなりません。だから難しい。 山崎:私は辺野古移設に賛成する立場で沖縄に長く滞在したことがあります。辺野古地区を戸別訪問して、住民と泡盛を酌み交わしながら説得しました。その場に小泉総理にも電話してもらって、名護市長だった島袋吉和さんは賛成に回りました。だけど小泉さんは埋め立てには反対でした。キャンプ・シュワブに丸ごと移せと言っていました。額賀(福志郎)防衛庁長官がV字形の滑走路を建設する案を出したのだけれど、それも絶対ダメだと言った。けれども、私たちがだんだんと埋め立てを推進していったのです。沖縄が地上戦を体験し、米軍統治下に置かれた歴史を踏まえれば忸怩(じくじ)たる思いもあります。 木村:やはり、米国一辺倒ではなく、もう少し多角的な視点が必要です。 山崎:国連中心主義と自由主義諸国との協調、アジアの一員がわが国の外交3原則です。この基本方針を決めたのは1957年で、安保条約の締結より前のことなのです。この3原則をもう一度議論したほうがいいと思います。アジアの一員を掲げているのだから、中国との関係についても話し合うべきだ。ですから、中国の脅威を説くだけではダメです。現在は日米同盟の堅持と中国との協商の推進ですが、この具体的な中身をどうするのかということです。だけど、いまは国会議員のレベルが落ちているからね(笑)。なかなか議論できる人はいないけど、やっぱりやる必要がある。 メア:私が講演でよく申し上げることは、日本の多くの国民は米国が日本の防衛をすると思っている。それは誤解です。安保体制の正確な意味は、自衛隊に協力して日本防衛に寄与することです。現在、日米は対等な同盟になっています。昨年5月、トランプ大統領が来日した時に、安倍総理と海上自衛隊横須賀基地を訪れました。護衛艦「かが」と強襲揚陸艦「ワスプ」に乗艦し、中国に対する強いメッセージになりました。さらに日米同盟を強化し、現実的な対応ができるようにしなければなりません。 木村:メアさんの抑止力を高めるというお話は説得力がありますが、いまは外交努力によって各国と融和していくことが大切だと思います。日米関係だけではなく、中国や北朝鮮とも冷静な対話の場が必要です。 (構成/本誌・亀井洋志) ※週刊朝日  2020年3月27日号
週刊朝日 2020/03/23 08:00
「#トイトレ」投稿が子どもを危険にさらす? 罪悪感にさいなまれる母親も
福井しほ 福井しほ
「#トイトレ」投稿が子どもを危険にさらす? 罪悪感にさいなまれる母親も
イラスト:石山好宏 AERA 2020年3月2日号より  子どもの写真は、SNSでも人気の高いコンテンツだ。悩みや喜びを共有することは、育児中の親にとって大きな励みになる。だが何げなく投稿した写真が、子どもを危険に陥れることも知っておくべきだ。AERA 2020年3月2日号では、SNSに子どもの写真を投稿することのリスクを取り上げた。 *  *  *  ごはんを食べながら寝落ちしている姿、新しい服を着てご機嫌な様子、節分や入園式などのイベント。関東に住む20代の女性は、子どもの写真をツイッターに投稿していた。  タイムラインには同じく子育て中の友人の投稿が並び、「いいね」をつけあうのが楽しかった。だがあるとき、見知らぬアカウントにフォローされていることに気が付いた。  相手のツイート数はゼロ。育児アカウントでもなさそうだ。なのに「お気に入り」欄に表示されたのは子どもの写真ばかり。おむつ姿のものも多い。「性的な目的で眺めているのかもしれない」。気味が悪くなりアカウントを削除した。女性は言う。 「娘の顔がわかる写真も掲載していた。娘に申し訳ないという罪悪感が残っています」  セキュリティーソフトウェア開発会社のアバストが2019年に公表したデジタルリテラシー調査によると、20代女性の8割がモザイクなしでSNSに子どもの写真を投稿したことがあるという。  何げない子どもの写真も、不特定多数の人が閲覧できるSNS上では、さまざまな目的で消費され、悪用される危険がある。ITジャーナリストの高橋暁子さんはこう指摘する。 「普通の人にとってはかわいい子どもの写真でも、小児性愛者には性的なコンテンツとして捉えられることもあります」  ハッシュタグにも注意が必要だ。たとえば「#トイレトレーニング」。検索すれば、おまるにまたがった子どもの写真がずらりと並ぶ。“トイトレ”に奮闘する親同士がつながって、我が子の成長を分かち合う。だが、それを性的な目線で眺める人もいる。  スタンプなどで子どもの顔を隠している投稿もあるが、子どもの顔がわかるものも少なくない。顔立ちがはっきりする前とはいえ、個人が特定されるリスクはある。「#パパとお風呂」などのハッシュタグにも、同様の危険があるという。  児童ポルノサイトの閲覧をブロッキングするためのリストを管理する「インターネットコンテンツセーフティ協会」の桃澤隼人さんによると、過去には幼稚園のホームページに保護者用に公開されていた園児のお風呂写真が、ポルノサイトに転載されていたこともあるという。 「削除要請をしても、また別の場所にアップされる。海外サーバーの場合は要請を無視されることもあります。一度公開され、ネット上に広まってしまった写真を消し去ることは難しいのが現状です」  親が子どもの写真をインターネットに載せるのは、今に始まったことではない。  ブログやコミュニティーサイトにも、“育児ネタ”を写真つきでアップする人は存在した。だが、ブログがテキスト文化に重きを置くのに対し、ツイッターやフェイスブックをはじめとするSNSでは画像や動画が注目されやすい。前出の高橋さんは言う。 「なかでも画像がメインのインスタグラムは共通の趣味や目的がある人とつながりやすいため、無防備になりやすい。結果、幼稚園や場所が特定できる写真を載せる保護者も多いのです」  埼玉県警捜査一課デジタル捜査班の元班長で、『あなたのスマホがとにかく危ない』の著書もある佐々木成三さんは、実際に遭遇したいくつかの事例から、想定される事件を説明してくれた。 「たとえば、娘の高校合格に喜んだ父親が、入学式の日に娘の写真をフェイスブックに投稿するだけでも、事件に発展する可能性はあります」  制服姿を見れば、学校が特定できる。父親のフェイスブックにはそれ以上の情報がなかったとしても、娘もSNSを使用していれば、そこからさらに情報を得ることができる。写真にテニスラケットが写っていれば部活がわかり、電車の遅延情報の投稿から、沿線を特定することもできる。  写真一枚に写り込んだ要素から、個人情報を割り出していくことは可能だ。SNSの公開範囲を「友達」に設定していても、なかにはよく知らない人もいる。 「悪意のある誰かがインターネットの掲示板などに写真を拡散し、ストーカー事件に発展する可能性もあります。似たような事例は、すでに起きています」(佐々木さん)  ごく普通の制服姿の写真さえも、事件を引き起こす可能性がある。安全だけを考えるなら、子どもの顔写真はもちろん、近況なども一切SNSに載せるべきではないということになる。だが、こうした投稿を全否定することもできない。  「SNSでしか他の親とつながることができない保護者もいるのが現実です。写真を載せることでコミュニケーションをとり、親の精神的な不安がなくなって前向きに育児ができるのは良さでもあります」(高橋さん)  親のSNSへの投稿が、子どもにとってアドバンテージになるという声もある。  デザイナーのヤマシタマサトシさん(36)は、ツイッターやnoteなどの投稿サイトに、「顔出し」して意見を投稿している。それが仕事につながったこともあり、フリーランスとして働くなかで、顔出しのメリットを感じている。  6歳と3歳の娘の写真も、SNS上にアップしてきた。家族写真、休日のお出かけ。娘の顔を隠すことはしていない。娘の成長を多くの人と分かち合い、インターネットを通じて支え合っているという感覚がある。 「万が一自分の身に何か起きたとき、子どものことを知ってくれている人がいるという安心感がある。それに将来、娘がSNSを始めることになったとき、イチから始めるのとインフルエンサーの子どもとして始めるのでは、注目のされ方にも雲泥の差があると思うのです。いずれ親のフォロワー数が資産として子どもに引き継がれる時代がくるかもしれない」  もちろん、リスクも意識している。  ある日、アダルト色の強いアカウントにフォローされていることに気が付いた。娘が性的な目で見られるかもしれない。そんな不安がよぎり、SNSに掲載する写真をさらに慎重に選ぶようになった。 「将来成長した娘も含めて誰に見られても問題ない写真を掲載するのはもちろん、投稿を見た人が、どう思うのかも考えなければいけません。娘が10歳くらいになったら、これからどうSNSを使っていきたいか相談するつもりです」  他人の顔写真を勝手にSNSに上げるのはよくない、と認識している人は多いだろう。だが、我が子の写真には気が回らない人もいる。SNSに投稿する以上、リスクと無縁でいることはできないが、少なくとも注意点をきちんと知っておく必要はある。何げなく投稿した写真が、子どもを危険にさらす可能性があることを忘れてはいけない。(編集部・福井しほ) ※AERA 2020年3月2日号
AERA 2020/02/29 08:00
「若者の荒廃」に危機感…社会が抱える問題とは? 桐野夏生×前川喜平
「若者の荒廃」に危機感…社会が抱える問題とは? 桐野夏生×前川喜平
前川喜平(まえかわ・きへい 左)1955年、奈良県生まれ。79年、文部省(現・文部科学省)入省。文部大臣秘書官、官房長、初等中等教育局長、文部科学審議官などを経て2016年、文部科学事務次官。現在は、自主夜間中学のスタッフとして活動する傍ら、執筆などを行う。/桐野夏生(きりの・なつお)1951年、石川県生まれ。『顔に降りかかる雨』(江戸川乱歩賞)、『OUT』(日本推理作家協会賞)、『柔らかな頬』(直木賞)、『グロテスク』(泉鏡花文学賞)、『残虐記』(柴田錬三郎賞)など著書、受賞歴多数。2015年、紫綬褒章を受章。 (撮影/写真部・加藤夏子) 前川喜平さん(左)と桐野夏生さん (撮影/写真部・加藤夏子)  社会の歪みを鋭く切り取った小説を書いてきた作家の桐野夏生さん。長年、教育の中枢に携わってきた前川喜平さん(元文部科学事務次官)。ふたりとも昨今の事件に表れる若者の荒廃に、危機感を抱いているという。現代の深層にどんな問題が横たわっているのか。 桐野:2年前、『路上のX』(朝日新聞出版)という本で、親に棄(す)てられて居場所のない女子高生が街をさまよう状況を書きました。若い女性の貧困が問題視されて久しく、私自身もそれをテーマに作品を書いてきました。  最近気になるのが、若い男性の荒廃です。三鷹ストーカー殺人事件(2013年、トラック運転手の男性が元交際相手の女子高生にストーカー行為を繰り返した後に刺殺。この事件が誘引ともなり、リベンジポルノの関連法が成立)や、川崎市中1男子生徒殺害事件(15年、川崎市の多摩川河川敷で13歳の中学1年生の少年が殺害された上に死体を遺棄され、殺人の疑いで少年3人が逮捕)、東松山都幾川河川敷少年殺害事件(16年、埼玉県東松山市の都幾川河川敷で、16歳の少年が14~17歳の5人に殺害された後、死体を遺棄され、この5人が殺人の疑いで逮捕)。そうした少年の犯罪が後を絶ちません。  事件を起こした少年たちの背景を見ると、ほとんど学校に行っていなくて、ゲームとアニメ漬けだったりする。要するに本当のワルにもなれないというか、学校で落ちこぼれ、ワルの仲間でも落ちこぼれている。  一つの大きなほころびの中で、若い女性も男性もあがいているような感じがするんですよ。それは今、日本が世も末みたいな状況になっていることの表れなのではないか、と書くテーマを考えながら、いつも思うんです。  前川さんは、官僚の立場から教育の中枢である文科省におられた。こうした若者について、どんなふうに見ていますか。 前川:若者の荒廃を私も感じています。その根っこにあるのは、自分を信頼していないことだと思う。自分を信頼することを「自己肯定感」と言ったりしますけど、若者が荒廃するに至るには、子ども時代に問題があるんだろう、と思います。大切なのは、自分を認めてくれる人が、どれだけ子ども時代に周りにいるか。裕福な家に育ったとしても自己肯定感をなくしてしまう、ということもありますから。経済的なことだけじゃなくて、自分をきちんと認めてくれる人がいるのかどうか。  一方で、私が非常に危機感を抱いているのが、国全体として人を大切にしない政治がずっと続いていることです。それが若者の荒廃につながっている部分があると思います。 桐野:自己肯定感が子ども時代に確立できないということが政治の問題でもある、ということですね。 前川:今の政治は全体として人を大切にしていない。文部科学行政に長年携わってきましたが、人に関わる役所っていうと文部科学省か厚生労働省の二つなんです。だけど、この二つの行政は予算がずっと抑えられている。  文科省の管轄で言えば、学校はブラック職場と言われる状態ですし、児童相談所も質量ともに不十分。全体的に教育や児童福祉の世界で、国がかけるお金が少ない。今、保育士の処遇の低さがずいぶん問題にされていますけど、一向に改善されないですよね。保育士に限ったことではない、介護に携わる人もそうですし、人を大切にするために、人に接する仕事をしている人がもっと大切にされなきゃいけない。  それなのに、行政改革は人件費を削ることだ、というような考え方が一般的にさえなり、人はないがしろにされている。そういう政治が、もう30年ぐらい続いてきているんです。 桐野:保育や介護の人件費はずっと抑えられています。政府の発想の中にはどこか性差別的な意識が根底にあるのではないか、と思うんです。今や両親ともに共働きが普通で、昔ながらの性別で役割を分担する家庭が崩壊しているのに、政策は現状に全く追いついていない。なのに昔ながらの家族像が美しい、みたいなことが言われてますから、乖離(かいり)しすぎています。 前川:そのとおりなんです。厳しいお父さんと優しいお母さんがいて、お父さんが経済的な柱になっていて、お母さんは家の中のことをするのが仕事、という厳父慈母なんて言葉がありました。  今も標準家庭って言葉があるけど、政府が言っている標準家庭って全く標準じゃない。女性が働くのが当然だし、税制にしても家族制度にしても、様々な制度が古いモデルのまま。扶養控除を見直すべきだ、とずいぶん言われていますけど、それも見直されていない。  政治が時代に追いついていないんです。女性が従属的立場に置かれている、それが当たり前なんだ、という観念がずっと続いているんですね。 桐野:1997年に『OUT』という本で、弁当工場で働くパート主婦の話を書いたんですが、外国のメディアの人が取材に来ると、一番聞かれるのは「どうして夫はホワイトカラーなのに奥さんはブルーカラーなんだ」ということでした。夫婦が家の中で階層的に分断されている。そういう状況がなかなか欧米のメディアにはわからなかったみたいです。日本では家計補助的なパートタイマーをやる主婦が多い、と言うと、すごく驚かれたものです。  この20年で状況はもっと悪くなって、男性の非正規労働者もすごく増えたし、単身者が多くなって、非婚化が進んでいます。 前川:2015年に、安倍首相はアベノミクスの「新3本の矢」という公約をしました。そのうちの一つが少子化対策で「希望出生率1.8を実現します」というものです。なのにそれから出生率は下がり続けています。本当に子どもを産み育てやすい条件を作ったか、というと作っていない。 桐野:全くできてないですよね。今、少子化どころか無子化とも言われてますから。30代の若い女性に話を聞くと、苦労することがわかってるから「子どもは産まない」という人が多い。 前川:だとすると、生まれてくる子どもも望まれない形で生まれてくることが多くなるんじゃないか、と思う。それは子どもにとっても不幸なことですよ。 桐野:虐待も本当に多いですよね。最近やたらと目につく、男親の虐待は、なんで起こるとお考えですか。  前川:私もその心理は推し量りがたいところがありますけど、虐待する親は多かれ少なかれ、自分が虐待されてきた過去があると思う。自分を愛さない人は人も愛せないですから、自分を愛さない人が子どもも愛せなくなってしまうのでは。愛情深く育てられていれば、虐待なんて起こらないと思いますよ。  桐野:それはあるでしょうね。男親が虐待するのは自己承認欲求じゃないか、という声もあります。会社をはじめ、どこにも認められる場所がなくて、家庭の中で自分が暴力でもって支配するという構図で、自分の承認欲求を満たしていくんじゃないかという。 前川:確かにDVなんかの事件でよく聞かれるのは、家庭の外ではものすごく真面目で穏やかという評価なのに、家庭の中では豹変していたというケースですね。DVや虐待をする人は、自己承認欲求が外で満たされていない、ということじゃないでしょうか。 桐野:社会全体として、承認欲求が満たされる場というのがなくなっているんでしょうね。ネット社会で個人レベルの結びつきもなくなってきているし、そもそも共同体がなくなってきている、ということもあります。 前川:今、国会で答弁している役人を見ていると可哀想になってきます。あからさまなウソをつき続けなければならない状態に置かれていて、痛めつけられた反動で、家の中で威張りたくなって、事件を起こさないといいなと思いますよ。今の官僚は、自己承認欲求という意味では、全く承認されていない。強い権力のもとで、愚かなことだとわかっているのに、明らかなウソを言わされる。こういう構図は、政府だけでなくて、いろんな会社で生じていますよね。 桐野:これだけ政府に対して不信感がある状況ってすごい事態だと思います。役人時代の前川さんの座右の銘は、「面従腹背」だったそうですね。官僚のお仕事はお忙しいと聞いています。 前川:今、国会でウソをつかされている役人のように、馬鹿げたことで忙しいこともあるんですよ。一度ウソをつくと、それをウソで固めるという膨大な作業があります。国会中なんて、ずっとその作業をしていますよ。だから今、官僚を辞める人も増えています。中央省庁にキャリアで入っても、こんなところに長くいたくない、と。 桐野:政治や中央省庁がそんな状況なんですから、日本が悪い方向に向かうのも当然という気がします。 前川:だけど実は、こういう事態は日本だけじゃなくて、世界中で起こっているんじゃないかと思うんです。アメリカなど世界を見渡してみれば、強い力で抑えつけられている人がたくさんいますから。 桐野:最近の造語で、「不本意な禁欲主義者」を指す「インセル」という言葉があります。女性から蔑視されているせいで恋人ができない、と信じている男性を指す言葉で、その人たちがいろんな犯罪を犯しているという話があります。自分が禁欲しているわけじゃなくて、させられている。だからリア充の男女にものすごく嫉妬して、テロに近い犯罪を犯す。  恋愛によってパートナーを得て、パートナーによって自己承認欲求を満たすような恋愛像が崩れてきていて、恋愛できない若者が増えている。どこにも自分の自己承認欲求を満たすものがない。だから居場所がなくなる。それって結構リアルな実態なんじゃないかと思うのです。関係性から生じる怨恨ではなく、不特定多数への憎悪が犯罪につながっているんじゃないかと、嫌な予感がしています。 前川:子どもたちの実体験が少なくなっている、ということも、30年ぐらい前から指摘されています。ゲームとか今ではスマホの世界に入り込み、子どもたちが人と交流したり自然を体験したりと、かつてふんだんにあったはずの機会を、意図的に作らなければならなくなっています。ネット社会がどんどん進んで、ひきこもりも増えています。 >>【後編/「不登校は学校に責任がある」前川喜平が桐野夏生と考える教育問題】へ続く (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2020年1月17日号より抜粋
週刊朝日 2020/01/11 08:00
【現代の肖像】「不登校新聞」編集長・石井志昂 学校に行かなくたって一人じゃない
【現代の肖像】「不登校新聞」編集長・石井志昂 学校に行かなくたって一人じゃない
不登校になったって、生きる道はいろいろあるよ、ということを伝えていきたい ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  夏休みが終わる9月1日前後に、18歳以下の子どもの自殺が増える。新学期を前に、追いつめられた子どもが命を絶ってしまうのだ。でも、石井志昂はこう言う。「学校だけが生きる道じゃない」。それは中学から不登校となった石井の経験から来る言葉だ。「不登校新聞」の編集長となった今、当事者の立場に立ち、声を届ける。もう誰も命を落としてほしくない一心で。 「不登校は何歳ぐらいからですか?」  そう質問の口火を切ったのは「不登校新聞」編集長・石井志昂(いしい・しこう)(37)である。取材相手は不登校経験のある30代の男性だ。  「不登校新聞」とは、不登校の当事者や親などを対象にした専門紙である。創刊は1998年。同紙を一躍有名にした出来事がある。2015年、過去42年間の累計日別自殺者数を内閣府が分析し、18歳以下の子どもの自殺が多いのは9月1日前後であることを発表した際、不登校新聞が各メディアに先駆けて報じたのだ。    さらに一般メディアの反応がないとみるや、文部科学省で記者会見を開き、新聞社やテレビ局にこのデータの重要性を訴え、ようやく取り上げられることになった。それが、「学校に行きたくなければ無理に行かなくてもよい」という社会認識を広げる一つのきっかけとなった。    冒頭の男性も中学1年の夏休み明けに学校に行けなくなった。いじめが原因の場合も多いが、彼は、宿題が手つかずで、叱られたくないという理由からだった。これも典型的な原因だと石井は言う。    学校を長く休むようになると、死にたい気持ちを抱く場合が少なくない。だから不登校について語るとき、石井は真剣かつ慎重になる。ただ深刻ではなく、ときに明るく語る。なぜなら、不登校経験者やその親などを約400人取材してわかったことがあるからだ。それは学校に行けなくなっても人生が終わるわけじゃないということだ。    前出の男性もフリースクールを経て、高等学校卒業程度認定試験(高認)を受け、25歳で大学入学、いまは福祉の仕事をしている。石井は言う。 「生きてさえいれば、生きる道はたくさんあるんだよってことを、当事者や経験者のナマの声によって伝えていくのが私の仕事だと考えています」 6月9日、名古屋市で開かれたシンポジウムに出席。基本的に明るく話すので、不登校の子どもがいる親たちの表情もやわらぐ。終了後、石井に個人的に相談を持ちかける人も。椙山女学園大学で ■偏差値50未満に人生ない ストレスから万引きを  文科省は年間30日以上欠席した場合を不登校と定めているが、同省の調査では、不登校の小中学生は約14万4千人(17年度)で、20年間で1・5倍増加。日本財団の調査(18年)によると、中学生の1割は不登校傾向があるという。石井もかつて不登校の当事者だった――。    石井は82年、東京都町田市で生まれた。神戸連続児童殺傷事件の“酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)”、西鉄バスジャック事件や秋葉原通り魔事件の加害者は同い年。 「事件が起きるたび“心の闇”と騒がれましたね。しかもロスジェネ世代。雇用も含めて将来が保証されないことが前提になった世代です」  そんな石井の前に「東京大学への道」が一瞬見えたときがあった。小学5年のことだ。前年の夏休みに勉強しない息子を心配した母親が学習塾に通わせたのだ。中学受験はあまり頭になかったが、数カ月で思いのほか成績が伸びた。塾には東大入学者もいて、未来の自分がその中にいるかもしれないと思えた。だが偏差値50から伸び悩む。当時、塾のベテラン講師が、成績順に並べられた席順の偏差値50ラインに手を広げて、こう言った。 「偏差値50未満の人たちに人生はないんだ」  石井の心に不安と言いしれぬ恐怖が植え付けられた。ストレスから万引きが始まる。小・中学校時代の友人・西村博行によれば、「学校ではひょうきんで楽しい雰囲気だった」。しかし受験日が近づいているのに偏差値が徐々に後退し始めると、踏切で線路に吸い寄せられそうになった。  6校を受験。すべて落ちた。  「人生が終わった」と思った。母親は叱りはしなかったが、一言「私立に行った子を見返すつもりで頑張れば大丈夫」。プレッシャーだった。    地元の公立中学校に入学。目に入ってきたのが校則だった。制服の着方、靴下だけでなく下着まで白と強制する校則はおかしいと思い、生徒会に入り、校則を変える活動に加わる。教室でも校則について不満を口にしては教師に怒鳴られた。 「あれだけ校則に執着したのは、いま思うとそうし続けなければ受験に失敗した自分を思い出して、つらくなるからだったような気がします」  生徒は荒れていた。スクールカースト(教室内序列)やいじめはもちろん、障害を持つ生徒を階段から蹴り飛ばす暴力も目にした。許せなかったのは、そうした生徒の混乱や命に関わる暴力を指導しないで、細かな校則にはこだわる教師の姿だった。それでも学校には休まず行っていた。大好きな桑田佳祐の曲を目覚まし代わりにかけながら。 <暗い教室の隅で彼は泣いてる 重い十字架を生きるために抱いてる あらぬ良識で大人達は逃げてる>(「飛べないモスキート」)  決定的だったのは中学2年のときに起きた万引き問題の取り調べ。万引きが同級生のいくつかのグループで流行し、石井も受験後おさまっていたが、ストレスで再燃していたのだ。疑いのある十数人が1人ずつ部屋に呼ばれて万引きした生徒の名前を教師に言わされた。万引きは反省すべき行為だが、“裏切り”を強要され傷ついた生徒の心は一層すさんでいった。その雰囲気に耐えられず、石井は授業を友人とサボり逃亡。ほどなく見つかり校長室で説教をくらう。帰宅後もかつてないほど泣く息子に母親は聞いた。「大丈夫? 明日どうする?」と。答えは「(学校に)行けない」。 「そう言った瞬間、感情が堰を切ったように溢れだして号泣しました。それまでは学校へ行くのは絶対と思っていたので我慢していました。でも苦しかったんですね。自分でも気付かなかったです」  12月半ば以降、石井が登校することはなかった。母親も石井本人も、学校のレールから外れたことが不安だったのだろう。たまたま来た訪問販売員が勧める20万円もする学習教材を買っている。  だが石井は、ここしかないという学校を決めていた。フリースクールだ。中学2年の1学期、偶然書店で見つけて読んだ『学校は必要か』の著者、奥地圭子(78)が設立した東京シューレである。 不登校経験者の取材現場。前半は石井が相手を和ませながらリラックスさせ、なおかつさまざまな方向から質問しポイントを探る。後半はそれに沿って、撮影している新人記者が掘り下げる ■吉本隆明をよく知らず、4時間半家で話し込む  保護者対象のスクール見学会に母親が出かけた。だが家に帰るなりバッグを部屋に投げつけていた。一般の学校のような勉強はしないという理解を超えた環境、東大への道が見えて以降の劇的な変化に耐えられなかったのだろうと石井は思った。  一方の石井は不安もあったが、翌年2月に東京シューレに入会し、体の中に希望が甦ってきた。スタッフに靴下や下着が白の校則のことを話すと、「おかしいよね」と即座に同意してくれ、「金髪だっていい」とも言う。石井は嬉しかった。 「やっと、まともな人間に会えた」  東京シューレで面白かったのは、子どもが勉強したいことを企画し、プレゼンし、議論して決めていくスタイルだった。石井はその過程が好きで、「交差点で棒を倒し転がった方向に行ったらどこに行くか」などの企画を出しては楽しんだ。  奥地によれば、石井が著しい成長を見せたのは00年、フリースクールの国際会議IDECを東京で開催したときだという。約30カ国の関係者が来日した3千人規模の会議を、大人スタッフとともに仕切る子ども実行委員の一人として石井は頭角を現していた。18歳のときだ。奥地は言う。 「企画力もあるし対外的な折衝力もある。それに話もうまいので、通訳の力を借りて会議をスムーズに運営してくれた。石井君はシューレに来て、自分の力を発揮して豊かな経験をしたと思います」  石井は、中学2年以降、いわゆる学校には一切行っていないが、学びの場としてあげるのは、一つは東京シューレ、もう一つはシューレの建物の中に編集部があった不登校新聞だ。なかでも「子ども若者編集部」は、不登校やひきこもりの当事者、体験者で構成される独自の編集部隊。大人の編集部員も手伝うが、企画は当事者たちが考えて取材にも行く。石井が刺激を受けたのは、会いたい人に連絡を取り、取材するページだった。  「ひきこもれ」という内容の論考を書いた故・吉本隆明が著名な思想家であることを知らずに、4時間半も家に上がり込んで話を聞き、糸井重里への取材では、帰り際「きょうは面白かった」と声をかけられた。自分と話して、糸井がそう思ってくれたことに「生きててよかった」と感激した。 「自分のアイデンティティーは不登校を経験したこと。不登校新聞はそれを生かして取材できる数少ない媒体です。これを仕事にしていきたかった」  翌01年、石井は19歳のとき、不登校新聞の正社員記者になる。子ども若者編集部で多くを学んだ石井は、後輩の面倒見もよかった。  たとえば中学2年以降10年もひきこもっていた名古屋市在住の鬼頭信(しん)(31)。原因はいじめで、「他人が怖い」と思うようになった。映画監督の押井守と話したい一心で取材に参加したのだが、なにしろ両親と祖母以外と話すのは1年ぶりだった。  新聞の校正作業。確認作業をしたり、タイトルやレイアウトを変えたりすることもある。みな集中しているので編集室は静か。編集部員は8人 ■不登校の不安や焦り、やり過ごすのがゲーム  押井に会い、「俺もひきこもっていたけど世の中面白くなって外に出た」という話を聞いたあとの飲み会で、ひきこもりから脱出するきっかけをつかめた。石井が場を和ませてくれたので、鬼頭はいろいろな人と話すことができた。働いていない人もたくさんいて、自分もここにいていいんだと、肯定された気持ちになれたのだ。鬼頭は今、不登校新聞のWEBマガジンスタッフを務める傍ら、バーを営む。石井は言う。 「一人じゃないっていう感覚は大切だと思います。私もフリースクールに行ったとき、こんなに不登校の人がいるのだという発見と同時に、いろんなロールモデルがいて、生きていくエネルギーが湧いてきて、活路が広がる感じがしましたから」  06年、編集長に就任。いまはメディア対応や講演なども業務に加わる。6月9日、名古屋市内で行われたシンポジウムに出席する石井に同行した。  テーマは「子どもが不登校になったとき」。一通りの発言が終わり、会場からの質問タイムに。不登校後の進路について、石井は「さまざまな選択肢がある」と話した。最近は不登校対応の通信制高校に進む人が多く、不登校者の高校進学率は85%。それ以外では高認を受けるパターン。いずれも大学や専門学校に進んだり、就職したりする。学校に進まないケースはかなり少ないという。  会場が沸いたのは、「子どものゲームにどう対応すればよいのか」と質問されたとき。無類のゲーム好きである石井は「これを話すために名古屋に来ました!」と笑いをとりながらこう訴えた。 「ゲームは“命の浮輪”。取り上げないで」  理由はこうだ。学校に行かずにいると、不安や焦りが押し寄せてくる。石井は学校に行かなくなって間もない頃、部屋から時計を処分したという。友だちがいまどんな授業を受けているかを気にしないためだった。一日中悩んでいたら、壊れてしまうから、やり過ごすために使うのがゲームだという。雑念を排除した上で、自分は何に対して不安を抱いているのかといった問題と向き合い、気持ちを整理する。傍からみると時間が止まっているように見えるが、実は成長している……。 取材をするときもされるときも、少々暑くてもユニホームのように、GUで買ったというジャケットを着る ■当事者との共感を大事に 不登校新聞の紙面刷新  説明を聞いていると不登校当事者の心の内がよくわかる。「当事者の通訳のようだ」と言うと、 「まさにそうです。当事者の気持ちを親などにわかりやすく伝えるのが私たちの役目です」  そんな重要な役割をもつ不登校新聞が、休刊危機に直面したことがある。12年である。  創刊間もない頃は6千部あった発行部数は景気後退とともに減少、12年に820部まで落ち込む。採算ラインの1100部を09年から4年連続で下回っていたのだ。理事会では半年以内に部数が採算ラインに戻らなければ休刊と決まった。 「余命半年かと。過去10年増えたことがなかったので、十中八九休刊だと思いました」  しかし当時同居中で、翌年結婚する三喜子(34)は、「この新聞には意味があるはず。あなたがやっていることに意味がないなんて私は思わない」と言った。その言葉に石井は救われた。“やれることはやろう”と決心する。  パナソニックから活動助成金をもらっていたので相談に行くと、NPO法人を支援するマーケティング研修会に参加するように勧められた。石井は内心「記事は魂で書くもの。マーケティングで書けるのか」と最初は懐疑的だった。だが主要スタッフ2人と出席し、講師の松本祐一(多摩大学教授)から根本的な質問をされ撃沈した。 「不登校新聞とは何ですか?」  答えられなかった。日常業務に流され見失っていたのだ。さらに気付かされたことは専門紙としての役割だ。不登校やいじめなどの問題に詳しい新聞社なのだから、情報を限られた部数の新聞だけに留めるのではなく、全国紙やテレビに知らせ、より広く報じてもらう。不登校の現状や当事者たちの心の内を知らせるのが役割の一つだからだ。  12年夏に大きな問題になった滋賀県大津市の中2男子自殺事件は、その役割を実感する契機になった。この事件の原因がいじめであったことから、石井たちは、持っている情報を多くのメディアに伝えていった。結果、不登校新聞の存在が知られるようになり、不登校やいじめの問題に直面する人に読んでもらえるきっかけとなったのだ。  地道な作業も展開した。ほとんど手つかずだった元購読者へのアプローチである。連絡がつく元購読者に購読再開の勧誘メールや休刊危機を知らせる号外を送るなどした。  その結果、研修スタートから5カ月後の9月には採算ラインを突破、休刊危機を見事脱した。  研修最後の報告会で、石井たちはこれまでの活動を振りかえり、あらためて原点に立ち返ってみえてきたミッションを発表した。 <不登校・ひきこもりの全面肯定を目指す> 「マーケティングという横文字に抵抗を示していましたが、やってみれば、新聞の存在意義や不登校の当事者のナマの声や事例の大切さ、ニュースも大切だけど『あ、この人も私と同じなんだ』という“共感”が大事であることなど、多くのことを考えさせてくれた道具であったと思いました」  それ以降、WEBマガジンを創刊、それによって読者の関心が、当事者の声であることがわかり、紙面の変更を試みた。そうした変革の結果、現在3500部を誇る。松本が振り返る。 「石井さんは崖っぷちにいるのに、明るかったのが印象的でした。研修が始まった頃は、あいた時間があると3人でゲームをするなど、学生サークル的な雰囲気でしたが、新聞が切羽詰まった状況で危機感が高まり、ここ一番で集中力を発揮してくれた。ゼミ生ならば“A”をあげたいです」  夏のある休日、石井が住む埼玉県の団地を訪ねた。1LDKの部屋。ベッドサイドにゲーム用のモニターがあり、家にいる時間のほとんどをそこで過ごすという。料理上手な石井がランチを手際よく妻のためにつくっている。その日はカルボナーラ。できあいのソースではなくシメジやセロリでつくる。豊かな日常がそこにはあった。  給料は安く、車もなく、子どももいないけれど、引け目はないという。人と比較しない生き方は不登校時代に自分と向き合って身に付けたからだ。  石井が不登校になった頃、二十数年後にこんな穏やかな日常があるとは思えなかっただろう。 「学校だけが生きる道じゃないし、不登校になったからって人生が終わるわけではない。だからどうか生きてほしい」  (文中敬称略) ■いしい・しこう 1982年 東京都町田市に長男として生まれる。妹が1人。父親は設計士。   91年 小学校4年の頃は、地元の野球チームに所属。夏休みにあまり勉強しないので、塾で勉強するようになる。   92年 小学5年から学習塾に本格的に通い始めるが偏差値50から伸び悩む。「偏差値50未満の人たちには人生はない」と塾で言われる。   93年 ストレスから万引きをするようになり、家に帰らず街をうろつく行動も目立ち始める。   94年 私立中学を6校受験。すべてに不合格。公立中学に入学。生徒会活動を始める。   95年 中学2年になり成績が下がり、再び塾通い開始。12月、不登校になる。   96年 2月、東京シューレに入会。   98年 不登校新聞が創刊し、東京シューレの中に編集部が設置される。   99年 不登校新聞ボランティア記者になる。「子ども若者編集部」に参加。 2000年 フリースクールの国際会議IDECが東京で開催された時、子ども実行委員として関わる。その手際よい働きぶりを見た母親が喜ぶ。   01年 全国不登校新聞社に正社員として就職。   06年 不登校新聞編集長に就任。   10年 千葉ロッテマリーンズが日本一に。家で1人ビールかけ。   12年 休刊危機を迎える。休刊危機を訴える号外を出す。助成金を受けていたパナソニックからNPO法人を支援するマーケティングプログラムに参加することを提案される。9月、採算ライン突破。休刊回避。   13年 東京シューレで教員をしていた三喜子と結婚。   15年 9月1日前後に、18歳以下の子どもの自殺者が多いことを記事にする。一般メディアにも報道してもらうため、文部科学省で記者会見を開く。   18年 全国不登校新聞社編集の『学校に行きたくない君へ』発行。   19年 編集部を東京シューレ内から独立して移転。不登校新聞にも登場した故・樹木希林の長女、内田也哉子が『9月1日 母からのバトン』を樹木との共著という形で出版。石井も対談相手として登場する。  ※「不登校新聞」は一時期「Fonte」と紙名変更したが本欄では「不登校新聞」に統一 ■西所正道  1961年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』ほか。本欄では「分子生物学者・福岡伸一」「ロボットコミュニケーター・吉藤健太朗」などを執筆。 ※AERA 2019年9月2日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/12/29 14:30
埼玉愛犬家連続殺人事件から25年 冤罪を訴える風間博子死刑囚からの手紙
埼玉愛犬家連続殺人事件から25年 冤罪を訴える風間博子死刑囚からの手紙
風間博子死刑囚から送られてきた手紙 埼玉愛犬家連続殺人事件の相関図(編集部作成) 埼玉愛犬家連続殺害事件で捜索する捜査員たち=1995年1月6日(c)朝日新聞社  愛犬家ら4人が殺害された「埼玉愛犬家連続殺人事件」で、犬や猫の繁殖業をしていた関根元と風間博子が1995年1月に逮捕されてから、まもなく25年。証拠隠滅のために、遺体を細かく切り刻み遺棄した異常な手法は「遺体なき殺人」とも呼ばれた。  2人は死刑判決を受けたが、関根は2017年3月に東京拘置所内で死去。死刑は執行されなかった。裁判で、殺害された4人うち3人で関与が認定された風間は、死体損壊・遺棄は認めたものの殺人罪については冤罪を主張し、再審を求めている。  ノンフィクションライターの深笛義也は事件を調査し、17年に『罠 埼玉愛犬家殺人事件は日本犯罪史上最大級の大量殺人だった!』(サイゾー)を発表。その後、深笛のもとに風間から手紙が届いた。事件から四半世紀を経ても、いまだ明らかになっていない“事実”とは何か。真相に迫る。 * * *  死刑囚・風間博子からの手紙が私の自宅ポストに入っていたのは、2019年6月11日だった。風間は2009年に最高裁で死刑が確定している。確定死刑囚は文通や面会などの外部交通権が制限され、親族、弁護士のほか、拘置所が認めた友人に限られている。それは確定前から交流していた者たちで、私はそこには入っていない。驚きながら、手紙を読んでみると、私に対して外部交通権が認められたと書いてあった。  風間は、小菅にある東京拘置所に収容されている。だが大腸がんにかかっていることが分かり、手術を受けるために5月20日、昭島市にある東日本成人矯正医療センターに移送された。外部交通権などの判断は各施設の施設長に委ねられている。それにしても、私にそれが認められたのは意外だった。センター長がいい人なのかもしれない。  面会もできるかもしれないと6月17日、東日本成人矯正医療センターに赴いた。2018年に開設されたばかりの真新しい建物。正門は閉ざされ、警備員が立っている。横にある受付に、風間に会いに来たと告げると、運転免許証を確認されて通用扉から中に通された。  待合室で待つこと、1時間。刑務官が声をかけてきたので「いよいよ、面会できるか」と胸が躍ったが、「こちらへどうぞ」と通されたのは、簡素な応接室だった。 「上司とも話し合ったのですが、大変申し訳ないのですが、本日は面会いただくことはできません。手紙よりも面会のほうがハードルが高くなります。まずは手紙で実績を積んでいただけますでしょうか」  こちらが恐縮するほどの、丁重な口調であった。いわばダメ元で足を運んだので、時間をかけて検討してくれたことに感謝の念さえ湧いた。それを伝え、その場を辞した。  手術は6月24日に行われ、多少のアレルギー反応はあったものの回復は順調と聞く。  担当した医師は、死刑囚を治療することは初めてで戸惑っていた、と風間の手紙にあった。しだいに理解してくれたとのことだが、自分は再審請求をしているのであり、死を待っている身ではない、と風間は説いたのだろう。だが死刑囚を治療するのは、健康でなければ死刑が執行できないという原則に基づいてのことという側面もある。  手紙のやり取りを5往復した。面会のハードルを越えられるのではないかと、8月9日、再び東日本成人矯正医療センターに向かった。建物の中に通されると、刑務官は言った。 「本人はここにはいません。どこにいるかも教えられません。申し訳ありません」  その日のうちに親族から、風間が東京拘置所に戻されたことが知らされた。後日手紙を書いたが、風間には届かなかったようだ。手紙は戻ってもこなかった。没収されたのだ。 ■遺体を“消す” シリアルキラーによる連続殺人  1993年、熊谷で起きた埼玉愛犬家連続殺人事件では4人の犠牲者が出た。そのうちの3人に関して、風間は殺人と死体損壊・遺棄で死刑の判決を言い渡された。同じ法廷で死刑の宣告をされたのは、風間の元夫の関根元である。 「ボディーを透明にする」  それが関根元が語った犯行様態だ。殺人を行うと、遺体の肉はサイコロステーキほどに細かく解体して川に流す。骨は粉になるまで、廃油を注いだドラム缶で焼く。殺人において最も雄弁な証拠である死体を消滅させてしまうのだ。  関根と風間が共同経営していたのが、犬の繁殖・販売を行うアフリカケンネルであった。日本でアラスカン・マラミュートを広めた男として、関根は実力者と認められていた。ペットの専門誌にインタビューが載ったり、テレビで作家の猪瀬直樹と対談したりしていた。  事件の犠牲者たちは、いずれも関根と関わりがあった。埼玉県警は当初から彼を疑っていたが、物証が見つからず翌年になっても捜査は進展しなかった。  アフリカケンネルの名目上の役員であったのが、中岡(仮名)である。結婚したばかりの妻が詐欺事件で逮捕されたことで、1994年11月、中岡は自ら埼玉県警に連絡し、任意の事情聴取に応じた。殺人を犯したのは関根と風間であること、群馬県片品村にある中岡の自宅で死体の処理が行われた、と自分も犯行の一部に関わったことを供述した。彼の案内で片品村の山林から、多数の骨粉や犠牲者のものであったロレックスなどが見つかった。  関根と風間は、年の明けた1995年1月5日に逮捕された。同じ日、中岡の妻は釈放された。  1月8日に逮捕された中岡は、2人とは別に裁判を受け、死体損壊・遺棄罪で3年の懲役に服した。  関根と風間は同じ法廷で裁かれた。そこに証人として招かれた中岡は、「博子さんは無実だと思います」「人も殺してないのに、何で死刑判決出んの?」「絶対、博子は殺してない。殺人に関しては100パーセント無罪ですよ。ただ、死体遺棄はやっているけど……。そういう人を、死刑にしてもいいもんですか」などと浦和地裁(現さいたま地裁)と東京高裁で述べ、殺人に関しては風間は無実だという主張をくり返した。  中岡の供述を元に2人は起訴されたのだが、それが覆されたのだ。それでも裁判所は、取り調べ時の中岡の供述が信用できるとして、風間に死刑の判決を下した。  風間は逮捕されて以来、一貫して殺人に関して否認している。ただし事件に関わってしまったことは認めている。  犬の売買でのトラブルを抱えていた山上(仮名)は、4月20日に殺害された。山上の乗ってきたアウディは、証拠隠滅のために、熊谷から車で1時間半ほどもかかる東京駅の八重洲地下駐車場に移動された。その際、風間は自分のクレフで中岡の運転するアウディについていき、帰りに中岡を乗せてきている。  車の貸し借りのための移動だと思っていたというのが、風間の主張だ。別れても交際のあった東京に住む元妻と中岡は車のキーを共有していて、会わずに車の受け渡しができることを風間は知っていた。  山上殺害を知って関根をゆすった、暴力団の高田組組長代行の高城(仮名)と、その付き人の小宮山(仮名)が殺害されたのは、7月21日。風間はこの日、関根から「高城んちに行ってるから、10時ごろ迎えに来てくれ」と言われ、クレフを運転して行った。そして、その後に起きた殺人に居合わせてしまう。その後、片品村まで行き遺体解体の場にもいた。  殺人を行おうとする者が、共謀していない者を現場に呼ぶだろうか、という疑問が湧く。出所後に中岡が出した手記には、演歌を口ずさみながら風間が、遺体を牛刀で切り刻む様子が描かれている。その歌は手記では「河内おとこ節」。だが中岡の供述調書では、「大阪情話」だ。歌手はどちらも中村美律子だが、曲調はまるで違う。  電話で話す機会が訪れ、その疑問をぶつけると、中岡は答えた。 「博子が演歌を歌ってたなんて、ありゃあ嘘だからね。そういうふうに書かなきゃ、おもしろくないでしょ。ノンフィクションみたいにはなってるけど、あれは小説だから」 ■風間博子はなぜ、死体損壊・遺棄を手伝ったのか  風間が遺体を切り刻んでいたというのも、事実ではないという。  中岡の家の風呂場で遺体の解体は行われた。関根に呼びつけられ「体をずらすから足を持て」などと命じられ、遺体に手を添えてしまったことを風間は認めている。遺体の積まれた車を運転したことも含めて、死体遺棄損壊・遺棄罪は犯したことになるが、共謀はしておらず殺人は犯していないというのだ。  この事件の9年前の1984年にも、関根の周囲に3人の行方不明者がいた。この時にすでに「ボディーを透明にする」手法が確立されていたことを、共犯者が詳細に供述している。埼玉県警は大がかりな捜査を行ったが、物証は見つからず立件には至らなかった。関根は、我々が日頃報道で目にするようなありきたりの殺人者とは異なる、犯行を完全にコントロールできるシリアルキラー(連続殺人者)なのだと思わせる。  関根と風間が戸籍上、夫婦でなくなったのは事件の起こった年の1月だ。前年の暮れにアフリカケンネルに税務調査が入り、離婚して不動産名義を風間に移したほうがいい、というアドバイスを弁護士から受けてのことだった。  この時代、ドメスティック・バイオレンスという言葉は、日本では知られていなかった。結婚以来、風間自身も連れ子である長男も、関根の暴力にさらされ続けてきた。関根には税金対策の偽装離婚と思わせて、風間は実際の離婚に向けて踏み出したといえる。  アフリカケンネルの共同経営者という立場はそのままに、2人は別居した。関根はこの時期、友人であった高城に「離婚してこのままだと、自分の手元には残るものがない」と漏らすなど、風間の真の意図に気づいた節がある。離れていこうとしている風間を、共犯という軛(くびき)でつなぐために事件に巻き込んだのかもしれない。  逮捕してからの取り調べで、風間が殺人を唆してきたなどと供述していた関根は、2017年3月、東京拘置所内で多臓器不全のため75歳の生涯を閉じた。  風間は殺人の冤罪を晴らそうと、再審請求を続けている。1件目の事件発生直後から埼玉県警は関根を疑い、アフリカケンネルの犬舎などを監視していた。2件目の事件当日の行動確認日誌での車両の動きが、風間の供述に一致し、中岡の供述と矛盾しているという内容の第1次の再審請求は2015年、最高裁で棄却された。犬舎の周囲は田畑で見晴らしがよい。中岡の供述では、監視対象のベンツは丸1日以上とまっていたはずだ。それが記録にないのは監視に当たっていた警察官の見落としだとされたのだ。  風間の再審請求弁護人、内山成樹弁護士は言う。 「私たちが風間さんが殺人に関与していないと確信している大きな理由は、風間さんが殺人の共犯だと言っていた張本人の中岡が、風間さんは死刑になってはいけないと法廷で証言していることです。今後も、再審を勝ち取るべく頑張ります」  現在、東京高裁で審理されている第2次再審請求は、山上とのトラブルを風間が知らなかったことを裏付ける、取り調べ時の供述だ。  遺体が、徹底的に解体されてしまったため、新証拠を見つけるのも至難の業だ。だがこの事件の真相が解明されないままで、日本の社会に再びシリアルキラーが現れた時に、捜査当局や司法は正しく対応できるのだろうか。(ノンフィクションライター・深笛義也)
dot. 2019/12/29 11:30
冤罪を訴える風間博子死刑囚からのイラスト入り手紙【埼玉愛犬家連続殺人事件】
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 愛犬家ら4人が殺害された「埼玉愛犬家連続殺人事件」で、犬や猫の繁殖業をしていた関根元と風間博子が1995年1月に逮捕されてから、まもなく25年。証拠隠滅のために、遺体を細かく切り刻み遺棄した異常な手法は「遺体なき殺人」とも呼ばれた。  2人は死刑判決を受けたが、関根は2017年3月に東京拘置所内で死去。死刑は執行されなかった。裁判で、殺害された4人うち3人で関与が認定された風間は、死体損壊・遺棄は認めたものの殺人罪については冤罪を主張し、再審を求めている。  ノンフィクションライターの深笛義也は事件を調査し、17年に『罠 埼玉愛犬家殺人事件は日本犯罪史上最大級の大量殺人だった!』(サイゾー)を発表。その後、深笛のもとに風間から手紙が届いた。 【関連記事】 埼玉愛犬家連続殺人事件から25年 冤罪を訴える風間博子死刑囚からの手紙
dot. 2019/12/29 11:30
もう一度見たいあのユニフォーム… 甲子園に「戻ってきて欲しい」高校は?
久保田龍雄 久保田龍雄
もう一度見たいあのユニフォーム… 甲子園に「戻ってきて欲しい」高校は?
あなたが甲子園に「戻ってきて欲しい」と思うチームは?(C)朝日新聞社  長年高校野球を見つづけているファンなら誰しも「最近あの高校が甲子園に出てこないな」と気になるもの。そして、「もう一度甲子園で見たい」と熱望する。最後の出場年から20年以上も遠ざかっていれば、なおさらその思いは強くなるはずだ。2000年以降の20年間で春夏いずれも出場歴のない、かつて甲子園を沸かせたチームを対象に、ファンが熱いカムバックコールを送る高校を地区別にピックアップしてみた。  まず北海道・東北地区では、“元祖アイドル”太田幸司を擁し、1969年夏の決勝で松山商と延長18回0対0の死闘を演じた三沢(青森)。この球史に残る名勝負以来、50年間も甲子園から遠ざかっているが、できれば、01年夏の4強を最後に19年間出場が途絶えている松山商と聖地での再戦を見たいところだ。  71年夏に“小さな大投手”田村隆寿の好投で準優勝した磐城(福島)も95年夏が最後の出場だが、今秋の東北大会で2勝を挙げ、21世紀枠候補校に選出。来春のセンバツ出場が期待される。  78年夏に明治時代からタイプスリップしてきたようなバンカラ応援で話題を呼んだ盛岡一(その後、09年夏の県大会決勝で菊池雄星の花巻東に1対2と逆転負け)、今夏、“令和の怪物”佐々木朗希の登板回避で35年ぶりの甲子園をあと1歩で逃した大船渡の岩手勢も、もう一度甲子園で見たいチーム。北海道勢では、70~80年代に常連だった函館大有斗や旭川龍谷、札幌商時代に春夏連覇の箕島や荒木大輔の早稲田実と好勝負を演じた北海学園札幌の名が挙がる。  関東・東京地区では、84年夏にKKのPLを延長戦の末下し、全国制覇した取手二(茨城)が一番手。名将・木内幸男監督の退任後は、低迷が続くが、甲子園であのスカイブルーのユニホームをもう一度見たいところだ。同様に84年春にKKのPLを破り、初出場初Vの快挙を成し遂げた岩倉(東京)も97年夏が最後の出場。今夏も東東京大会でベスト16入りするなど、ダークホース的存在で、チャンスは十分ある。  75年夏に原辰徳の東海大相模に打ち勝ち、4強入りした上尾、88年夏に初出場で4強と旋風を起こした浦和市立の埼玉勢、春準優勝2回の実績に加え、78年春に左腕・木暮洋と“王2世”阿久沢毅の活躍で4強入りの桐生(群馬)、三浦将明をエースに83年に春夏連続準Vの横浜商(神奈川)も復活が待たれる。  東海・北信越地区は、69年夏の4強で74年春以来、甲子園から遠ざかっている古豪・若狭(福井)の名が挙がる。さらに50年春の優勝校で、95年夏にも2勝した韮山(静岡)、58年夏に徳島商と延長18回引き分け再試合を演じた魚津(富山)、54年春Vの飯田OIDE長姫(長野、旧名・飯田長姫)、84年夏に新潟県勢では58年ぶりの8強入りを果たした新潟南、99年春の8強以来20年間出場が途絶えている海星(三重)、98年夏の4強・豊田大谷(愛知)など高校野球ファンにおなじみのチームが顔を並べる。  近畿地区では、戦前の京都商時代の40年春に準優勝し、81年夏にも“沢村栄治2世”井口和人の力投で準Vを果たした現京都学園、同じく戦前の和歌山中時代に史上初の夏2連覇を達成した桐蔭(和歌山)の両古豪が双璧。大阪桐蔭、履正社の台頭で勢力地図が塗り替わった大阪では、93年春の覇者・上宮に加え、甲子園で優勝、準優勝経験のある明星、興国、阪南大(旧名・大鉄)などかつての“私学7強”の復活を望む声も多い。  85年夏に初出場で4強入りした甲西(滋賀)、春夏4強入り2回の和歌山工も近年は近江や智弁和歌山の壁を越えることができず、春夏準優勝2度、延長25回の死闘を演じた古豪・明石も87年夏を最後に甲子園から遠ざかっている。  中国・四国地区では、85年春にエース・渡辺智男がPL・清原和博から3三振を奪うなどの活躍で初出場Vをはたした伊野商(高知)の87年夏以来の甲子園を期待したい。58年夏V&72年夏準Vの柳井、74年夏準Vの防府商工(旧名・防府商)の山口勢、34年夏に優勝の古豪・呉港、76年春の優勝校・崇徳(いずれも広島)、95年春の覇者・観音寺中央、75年夏の準優勝校・新居浜商(愛媛)、春4強2回の岡山南も甲子園でもう一度見たいチームだ。  九州地区では、春夏の甲子園を制した津久見(大分)が、川崎憲次郎を擁して春夏連続ベスト8の88年を最後に出場が途絶えている。来春のセンバツ出場が確実視されるライバル・大分商に続く復活が望まれる。90、91年夏に連続準Vの沖縄水産も、新垣渚がエースだった98年夏が最後の出場。裁弘義監督の前任校・豊見城も3年連続8強の78年夏を最後に“長い冬”が続いている。47、48年に夏連覇の小倉、88年夏準Vの福岡第一(今秋の県大会で優勝)の福岡勢に加え、オリックス・山本由伸の母校で、84年春4強の都城(宮崎)も、99年夏以来の朗報を期待したい。  番外編として、最後の甲子園出場は10年前の09年夏だが、16年夏を最後に休部となったPL学園も忘れるわけにいかない。11月9日に行われた「マスターズ甲子園2019」では、背番号1をつけた桑田真澄OB会長がPLのエースとして登板し、アルプススタンドに名物の人文字も復活。全盛期を彷彿とさせる光景に、野球部の復活を望む声が一段と高まった。甲子園で応援曲の「ヴィクトリー」や「ウイニング」をまた聴ける日が来るのが待ち遠しい。(文・久保田龍雄) ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」(野球文明叢書)。
dot. 2019/12/17 16:00
【現代の肖像】ノンフィクション作家・保阪正康 歴史の教訓刻む史実の「図書館」
【現代の肖像】ノンフィクション作家・保阪正康 歴史の教訓刻む史実の「図書館」
誰にでもこの笑顔で、紳士的だがうそのない語り口で接する。出版界で有数の人格者だ(撮影/葛西亜理沙) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  物書き人生半世紀。一貫して在野に身を置き、あの戦争の史実に向き合うべく数千人に会い、数多の著作を著してきた。  記憶の中には取材した約4千人の証言が息づき、膨大な史実がアーカイブされ、「図書館」のようだ。  それらの蓄積に突き動かされ、国民を愚弄する官僚や政権への警鐘として、保阪は今この時も歴史の教訓を書き起こしている。  JR東京駅前のビルの一室。保阪正康(79)は受講生と向き合う席に着くと、目を閉じて話し始めた。今年3月のことである。 「先月、2月26日の未明に一人の男がアメリカでこの世を去りました。松尾文夫というジャーナリストでした。天皇(現上皇)の学友で寮が同室だったから、陛下が何を食べたかなど、毎日メモを取ったそうです。天皇の親友でした。そして彼の祖父は二・二六事件の日に人違いで殺された松尾伝蔵です」  目を開いて座り直し、話し続ける。 「彼がアメリカに調べ物に行くというので、止めたんです。でも彼は、日韓関係の改善のためには史実を解き明かす必要があると。史実が大切だと。そんな男が2月26日に亡くなりました」  そう話し終えると一呼吸おき、「今日は終戦までの3カ月についてお話しいたします」。その日の講義が始まった。  保阪は月に1度、社会人講座「慶應丸の内シティキャンパス」(慶應MCC)で、昭和史を読み解く講義を開いている。3時間に及ぶ本編の前に、記憶のポケットから取り出すように「歴史余話」を語る。そして本編でも記憶を探るような語りが続く。こんな具合だ。 「7月17日、ポツダムにいるトルーマンの元に、『ベビーが生まれた』という連絡が届きます。原爆の実験が成功したという一報です」  自分の記憶のように語れるのは、半世紀もの間、昭和の史実を追い続け、150冊近い著作を著し、市民講座で語り続けてきたからだ。そしてそんな「昭和史の語り部」保阪の存在感が、改めて増している。 ■国民を愚弄する官僚の姿、新たな「東條論」で警鐘  昨年7月に発表した新書『昭和の怪物 七つの謎』は瞬く間に売り上げを伸ばし、現在13刷18万部。続編も3刷5万8千部に達している。講談社現代新書編集部の小林雅広(32)は「発売初日から予想を大幅に超える売れ行きで驚きました。昭和を知る世代の『昭和とは何だったのか』というニーズに刺さったようです」。満面の笑みを浮かべる。  各種市民講座の受講希望者も後をたたない。冒頭の慶應MCCは受講料がやや高めだが、早々に定員に。同社事業部長の城取一成(58)は「本格的に近代史を学びたい方々に大人気です」と、胸を張る。受講者も、鈴木貫太郎の孫で音楽評論家の道子(88)や日本在住の韓国人女性(35)、在宅医療で戦中世代を看取ってきた男性医師(49)など、実に多様だ。  そしていま、保阪は東條英機と密に向き合っている。新たな「東條論」を発表するためだ。40年前、話題作『東條英機と天皇の時代』を発表しているが、なぜ再び「東條論」なのだろう。 「思想も何もない官僚的な発想の人たちが依然として日本を動かしている。だから東條を通して、近代日本の政治風土を総括しようと思ってね」  保阪が「思想も何も」と言うのは、文書改竄問題や統計不正調査問題などにみる現政権や官僚たちの態度にほかならない。国民を愚弄する態度が、無謀な戦争で大量の兵士を死なせた軍官僚に、重なって見えるという。 昭和史研究の「兄」である半藤一利(左端)など、昭和史通が集う懇談会では歴史談議に花がさく。書店に並ぶ歴史関連の著作への「ダメ出し」や、爆笑ものの出版裏話も飛び交う(撮影/葛西亜理沙)  教訓は、山ほどある。例えば、昭和19年10月のレイテ決戦。戦地に送られた8万4千人のうち8万人が戦死した戦闘だが、その直近の台湾沖航空戦で「大勝利」したとの誤報が、無謀な作戦に繋がった。このとき一人の情報参謀が「戦果に疑問あり」と打電したにもかかわらず、その電報は無視されていた。握りつぶしたと目される作戦参謀は戦後、政権のブレーンとなった瀬島龍三。保阪は昭和62年発表の『瀬島龍三 参謀の昭和史』で、その史実に迫ってみせた。  300万人超の命が失われたあの戦争の責任を問われることなく、戦後の政財界で暗躍した軍官僚たちがいる。その残影が現代日本に継承されたと確信するからこその「東條論」なのだった。  今や「昭和史研究の大家」となった保阪にも、悩める少年時代や青春時代はちゃんとある。  北海道の旧制中学で働く数学教師の父と、聡明な母の長男として生まれた。父は風変わりで威圧的だった。まだ幼い長男を夜な夜な正座させ、書き方の練習を強いた。「かわいそうです」と制する母をよそに、決めた回数を終えるまで許さなかった。中学2年の冬、お年玉を貯めてスケート靴を買い求め、帰ると父が怒って待っていた。しつこく説教する父。長男はスケート靴を抱きしめて抵抗。父は靴を取り上げ、窓の外に放り投げた。 ■ドラマの新聞記者に憧れ、三島がまいた檄文転機に  関係修復は父が病臥した45歳のとき。肺がんで余命半年と聞いた保阪は病床に通い、父の半生を聞き取った。幼少期の「音の記憶」が印象的だった。学生だった姉が毎朝、玄関先で制服のバンドをしめる音が大好きだったと言う。「そのパチンと言う音が一日の合図だったと。その話で父を信頼しました」。そういう情景を語る人を、無条件で信頼する癖があると言う。  そんな癖が表出したのが、平成5年に発表した後藤田正晴の評伝である。徳島県の山間部で生まれた後藤田は幼くして父を亡くした。担がれてきた父の棺を母の横で見ていた後藤田は、自分を抱きしめる母の腹が波打っていた記憶を語った。「母親が嗚咽していることに幼い少年が気づいた情景です。『この人は信頼できる』と思ったね」。迷わずこの情景から書き出した。  中学は、両親の意向で進学校に越境入学。この中学で1学年上の西部邁と知り合う。長じて評論家となった西部は秀才として知られた存在で、通学途中の駅などで交わす会話は刺激的だった。 「人間と猿の違いって何だと思う」と西部。「人より毛が3本少ないこと」と保阪。「生産手段を持っているか否かだ」と西部。こうした西部との会話が、保阪を知的な世界へと誘った。  高校進学で離れ離れになるが、友情は、西部の死の直前まで続いた。昨年1月、西部は多摩川で自殺を遂げたが、そのひと月ほど前、最後の著書が保阪の自宅に送られてきた。「1カ所、折り目がついてた。死ぬって決めてたんだね」  大学は京都の同志社大学へ進学。演劇研究会に所属し、学生運動を横目に演劇活動に勤しんだ。4年の秋、テレビドラマで見た新聞社の空気にひかれ「新聞記者になろう」と思い立つ。ある全国紙の最終面接に残ったが、結果は「地方記者で」という条件付きの内定だった。  これを断り、電通PRセンターに入社。この仕事で新聞記者や雑誌編集者と親しくなり、物書きへの夢が膨らんだ。2年半で朝日ソノラマへ転職。作家の大宅壮一など著名な論者たちとの仕事で経験を重ね、28歳で「独立」を志して同社を退社。しかし結婚が決まり、「安定」を求めてTBSブリタニカに入社。それでも「自分の筆で生きる」という思いは消えなかった。 2009年から朝日新聞の書評委員を務める。月に2回の委員会にも極力出席する。画家の横尾忠則(左)や哲学者の柄谷行人らとは「長老組」として親交を深める(撮影/葛西亜理沙)  転機は昭和45年秋に訪れた。11月、三島由紀夫が割腹自殺。朝日ソノラマの編集部に立ち寄ると、編集部員が三島のばらまいた檄文をくれた。「共に起ち、共に死なう」とある。「共に死なう」に見覚えがあった。翌日、国会図書館へ。過去に目を通した週刊誌に昭和12年に起きた「死なう団事件」が取り上げられていた。「死なう団」という宗教団体が都内各所で切腹自殺を図った事件だが、さらに調べると、特高警察にテロ集団と誤認されて拷問を受け、抗議として起こした事件だった。ところが年鑑などには「狂信者のテロ」とある。「なぜ史実が歪むんだ」。腹は決まった。「年表の1行にも人の生死が関わっている。その1行を一冊にまとめる仕事をしよう」。翌春、退社。31歳だった。 ■昭和陸軍が起こした災禍、史実に迫る在野の一匹狼  事件の生存者を訪ね歩いて書き上げた『死なう団事件』は昭和47年1月、「れんが書房」から刊行された。推薦文を松本清張に依頼したこともあり、売れ行きは上々。しかし4月、一人の訃報が届いた。取材の過程で特高警察に通じていた人物が教団にいたと確信し、その人を訪ねた。  無粋な質問はしなかった。それでも帰りぎわ老人は「ありがとう。一生の重荷だった」。著書でも触れなかったが、一読してほどなくホーム屋上から身を投げたという。「人の命を奪う権限があるのか」。1年ほど煩悶。「自分の筆で人が死ぬこともある。その覚悟がなければ」と結論づけた。  そしてデビュー作以後、作品が編集者を呼び、新たな分野に挑戦する流れが生まれた。講談社学芸局の編集者だった阿部英雄(76)とは初対面で意気投合し、まだ草創期だったノンフィクションのイメージを語り合った。草思社の創業者・加瀬昌男は「東條英機の評伝を」と提案。戸惑ったが「史実から生み出す評伝を」という言葉に納得し、挑戦を決めた。  保阪は「物書きとして4千人に会った」と公言する。一貫して人に会い、証言を求めた成果だが、その手法こそ東條の評伝のために編み出したものだった。約3年、国会図書館に通い、史料や著作を読み、取材リストを作成。丁寧に手紙を書き、返信用のはがきを封書に入れて送付。すると7割以上の200人ほどが「会う」と返信してくれた。特筆すべきは東條の妻カツへの取材が実現したことだ。計20回ほど会い、「日米開戦前夜、東條が泣いていた」という秘話などを聞き出した。  依頼から7年後、評伝を書き上げた。しかし東條の評価をめぐる意見が加瀬と折り合わず、知人を介して「伝統と現代社」から昭和54年12月、『東條英機と天皇の時代』の上巻を発表。出版各社の編集者たちに「保阪正康」の名が刻印された。  元文藝春秋の浅見雅男(72)は、上巻を一気に読了したという。「歴史の悪役の評伝はまだ少なくて、こと東條においては『全て東條のせいにしておけばよい』という時代でした。保阪さんの著書は昭和天皇との関係性などが客観的に書かれて、実に面白かった」と語る。  浅見は昭和57年春、保阪に週刊誌での仕事を依頼。数年後に「秩父宮」の評伝を提案した。58年、「週刊朝日」の編集部にいた蜷川真夫(81)も保阪に会い、田中角栄の支持基盤のルポを依頼した。  作家の半藤一利(89)が保阪に注目したのは、文藝春秋の昭和62年5月号の特集「瀬島龍三の研究」だった。「若いのに、神格化された参謀によく食らいついている」と感心したという。 慶應MCCの一コマ。受講生のチェ・スルギ(35)は数年間の韓国駐在から戻り、日本の右傾化に驚いて受講を決めた。「日本国民が政治に関心が低い背景がわかってきました」(撮影/葛西亜理沙)  昭和史を「人」から書き起こす著作の先達たる半藤が、保阪の仕事で最も高く評価するのは『昭和陸軍の研究』だ。月刊「Asahi」で平成2年夏から26回続いた連載を、増補して平成11年に発表した大作。なぜ昭和陸軍があれほどの災禍を引き起こしたのか。史実に分け入り、その解明を試みている。半藤は「司馬(遼太郎)さんでも手に負えなかった昭和陸軍を、徹底検証したからね。何が偉いって、彼は大新聞とかの後ろ盾のない一匹狼。軍人たちの語る虚実を自分の頭で選り分けてね。大したもんだよ」  東京大学名誉教授の姜尚中(68)は「在野のまれびと」と形容する。「大学教授であれば史料探しはさほど難しくはありません。アカデミズムと距離を置き、在野で昭和史を『人』からすくい続けた。稀有な存在です」と称賛する。  保阪は在野で生きながら技術を磨いた。同じ相手に何度でも会う。戦地での重い話を聞く時は、相手が話しやすい場所を厳選する。半藤は「あれほど人に会ってきた物書きはいません。何度も会うから信頼される。あの人の人徳だよね」と褒めちぎる。  ゆえに仕事仲間にも愛されてきた。平成5年2月、長男・康夫が22歳の若さで急死し、保阪が喪失感に苛まれていた折、各社の編集者が次々に励ました。前出の浅見が回想する。「悲嘆する姿から、息子さんへの愛の深さが伝わってきましたね」。2年後の春には「保阪正康を囲む会」が開かれ、後藤田も駆けつけ「私より私を知る男だ」と激励した。  息子の死後、数年ほど作業を中断した『昭和陸軍の研究』だったが、最終的に1千人近くの元兵士に取材し、丹念に書き起こした。  例えば、日中戦争での蛮行を特別軍事法廷で裁かれた元中尉・鵜野晋太郎には、最高人民検察院の起訴状などをもとに取材した。保阪が隅田川の土手につれ出すと、鵜野は「ある軍医に『しゃれこうべが欲しい』と頼まれ、捕虜を斬り殺し、別の捕虜に頭の皮を剥ぎ取らせた」と語った。 ■一兵卒の声なき声集め「悼み受けつぎ次代へ」  あるいは、昭和13年夏の「張鼓峰事件」で捕虜となった成沢二郎。ハバロフスクにある極東赤軍博物館で見た写真が気になり、戦友会を訪ね歩き、居場所を探った。成沢は74歳となり、長野県飯田市でひっそりと暮らしていた。  地元の温泉に案内され、お湯の中で取材は進んだ。貧しい家に生まれ育ったことや「事件」の全容、17年の捕虜生活。帰国後、厚生省(当時)から扶助料の返金を求められたこと。保阪はこれらの証言を記しつつ、「高級軍人たちは戦後も(略)恩給を受けていた」と怒りを込めて付け加えた。  成沢のような一兵卒たちの声なき声は、人知れず消える運命にあった。「記録を残せるのは高級軍人たち。史料だけでは、実際に戦場で戦った兵士たちの体験を見落としてしまう」  昨年、時を経て発売された「選書版」のあとがきに、改めてこう記した。 「兵士たちは戦場で逝った仲間の名を忘れていない。(略)かつてあの戦争の時代に(略)戦場に行かされた、私より十五歳から二十歳ほど上の世代に、あなたたちの悼みを受けつぎ、そこから教訓を学んで次代に伝えますと約束する」  78歳の決意表明だった。  そして80歳になろうという年に新しい時代を迎えた。平成の評伝を書くとしたら誰だろう。そう問うと、「天皇ですね」と即答した。平成後期、何度か参内し、当時の天皇、皇后両陛下と「雑談」を交えた会食に呼ばれた経験がある。 パソコンは使わず、原稿は今も万年筆で原稿用紙にしたためる。筆まめで知られ、対面取材で足りない部分は何度も手紙を出して補った(撮影/葛西亜理沙)  特別な言葉も受け取った。保阪を支え、人生を照らし続けた妻・隆子が平成25年6月に66歳で急逝した。最愛の妻との別れを表現できる言葉などなかったが、翌夏、雑誌に文章を寄せた。その秋に参内。天皇が「保阪さん、大変でしたね」と述べ、皇后が「奥様は心の中で生きてらっしゃいます」と続いた。落涙をこらえ、心で泣いた。 「物書きとしては大きな経験でした」と努めて冷静に振り返るが、「物書き」以上に「一個人」として時の天皇に向き合えた喜びは大きいだろう。  今秋、郷里・北海道の文学館で企画展「ノンフィクション作家・保阪正康の仕事」が開催される。150冊近い著作を展示し、半世紀の軌跡を紹介する。元講談社の阿部は「150」という数字に感慨深げだ。「たくさんの本が長きにわたり形を変えて読みつがれた証しです」  当人は「残された時間も、そう長くないからね」と照れ笑いするが、『昭和の怪物~』担当の小林にはこう説いたそうだ。「物書きって中華料理のくるくる回るテーブルと同じ。お皿が目の前に来たらたくさん書かなくちゃ」。ご馳走の皿に、旺盛な執筆意欲を隠せない一匹狼なのだった。 (文中敬称略) ■保阪正康(ほさか・まさやす) 1939年/北海道生まれ。旧制中学の数学教師だった父の転勤に伴い、道内を転々とした。戦中の記憶として残るのは5歳のとき。室蘭で空襲を受けた際、青空を編隊を組んで飛ぶB29爆撃機を見たくて防空壕から飛び出し、母親に激しく叱られた。 46年/4月、小学校入学。中学は札幌市立柏中。高校は北海道札幌東高校に進み、放課後には映画を見たり北海道大学の「シナリオ研究会」に通ったりという3年間を送った。 59年/4月、京都大学を目指して1浪ののち、同志社大学文学部社会学科へ進学。演劇研究会に所属し、演出や脚本を学んだ。3回生の時には特攻隊員と60年安保をモチーフにした創作劇「生ける屍」を手がけた。 62年/秋、就職活動で全国紙の試験を受けたが、最終面接で「革命が起きたらどうする」と聞かれ「革命の側に立つ」と回答し、面接官の失笑を買った。 64年/知人のつてで「電通PRセンター」に入社。以後、何度か転職。「朝日ソノラマ」では、大宅壮一や丸山邦雄などと仕事をし、ビートルズ初来日の折には破天荒な編集部記者の発案で、ビートルズの突撃取材を試みた。 71年/TBSブリタニカを退社して独立。翌年、『死なう団事件』で作家としてデビュー。刷り上がった見本本がいとおしく、枕の横に置いて添い寝をした。 87年/12月、「文芸春秋」での特集を元にした単行本『瀬島龍三 参謀の昭和史』を発表。謎めいた財界人に対する注目度は高く、ベストセラーに。 89年/1月、昭和天皇が逝去。前年から秩父宮の評伝を書き進め、4月『秩父宮と昭和天皇』として発表。担当編集者の藤沢隆志は保阪の原稿に手厳しく、たびたび押し問答に。藤沢は「厳しいこともたくさん言いましたが、最後は納得して受け入れてくれました」と恐縮しきり。 2000年/昭和史を「もし」の切り口からエッセーふうに書いた『昭和史七つの謎』がヒット。現在発売中の『昭和の怪物~』はこの本に着想したという。 04年/一連の昭和史研究と、元兵士たちの証言を集めて独自でブックレット「昭和史講座」を刊行し続けた功績で、第52回菊池寛賞を受賞。この冊子の編集には妻・隆子もかかわっていた。 13年/6月18日、隆子死去。くも膜下出血だった。 17年/『ナショナリズムの昭和』で第30回和辻哲郎文化賞を受賞。 ■浜田奈美 1969年、埼玉県生まれ。早稲田大学教育学部卒。93年朝日新聞社入社。be編集部やAERA編集部、文化部などを経て、現在、地域報道部に所属。 ※AERA 2019年8月5日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/12/05 18:00
差別問題“日本型謝罪”やめ「第三者介入」を サッカー界に学ぶ対応
差別問題“日本型謝罪”やめ「第三者介入」を サッカー界に学ぶ対応
浦和レッズの「無観客試合」。試合前、観客のいない埼玉スタジアムで差別撲滅宣言をする浦和レッズの選手たち/2014年3月23日、さいたま市緑区で (c)朝日新聞社 川崎市は11月15日、ヘイトスピーチを繰り返した人に刑事罰を科すことを盛り込んだ全国初の条例案「差別のない人権尊重のまちづくり条例案」を公表。25日からの市議会で審議され、年内に成立する見通しだ。写真はヘイトスピーチに対して抗議する人たち/2018年6月3日、川崎市川崎区で (c)朝日新聞社 ARICでは政治家などの差別事例を集めたデータベース作成、大学生向け反差別ガイドブック配布などの活動を行っている。シンポジウムで発言する梁英聖さん(右)(写真:反レイシズム情報センター提供) 「差別はいけない」というけれど、差別事案は後を絶たない。身近に差別が起こったとき、どう対応すればよいのか。加害者でも被害者でもない立場からの「第三者介入」が必要だ。AERA 2019年12月2日号で掲載された記事を紹介する。 *  *  *  9月22日、若手実力派お笑いコンビ「Aマッソ」がイベント中、女子テニスの大坂なおみ選手に必要なものは何かと問われ、「漂白剤」と発言。イベント後にSNSで「人種差別だ」などと批判する声が上がった。  この事態に対する所属事務所、ワタナベエンターテインメントの対応は早かった。9月24日、公式サイトに謝罪声明を発表し、「Aマッソ」の自筆コメントも掲載。アンチレイシズムを専門とする弁護士と顧問弁護士を講師として招き、ダイバーシティーに関する意識を向上させるためのセッションを設けた。国際人権条約の歴史をひもとき、時代の経過と共に「人種」に加えてさまざまな差別撤廃の意識が国際的に向上していることを学び、手記などを読むことで当事者の悩みや感情を実感する機会を持ったという。ワタナベエンターテインメント常務取締役の大澤剛さん(46)は言う。 「お笑いで身体的な特徴を取り上げて笑いのネタとする場合に、具体的にどういった場合なら許され、どういった場合は許されないのか、それはなぜなのか、といったことをディスカッション形式で個別に意見を交換しました。自由な表現と差別的表現の線引きや判断が難しい限界事例、ダイバーシティーの対象となる事柄は時代と共に変化していくことなどを知り、そうした世の中の動きに弊社の所属タレントは常に敏感でなければならないと深く学びました」  社会に広くエンターテインメントを届ける所属タレントの全員が、こうしたダイバーシティーに関する意識を向上させることが不可欠だ。大澤さんはこう考え、セッションの様子を全て映像で記録。タレントやマネジャーに対して順次、講習会を開いているという。  ダイバーシティ研究所代表理事の田村太郎さん(48)は言う。 「災害が起きないのが無理であるのと同様に、差別は必ず起きます。差別はしないに越したことはないですが、災害でもレジリエンス、起きた時にどう復元するかという強靱(きょうじん)性が重要であるように、差別が起きた時はすぐに被害者を救済し、再発を防ぐバネのような、強靭な社会にしていくことが大切です」 ●加害者でも被害者でもない第三者が介入する必要  日本は1995年に国連の人種差別撤廃条約を批准したが、人種差別を犯罪だとして処罰する法律はない。川崎市で11月15日、施行されれば全国初となる刑事罰が盛り込まれたヘイトスピーチへの条例案が公表され、前向きな動きは出つつあるが、差別事件が起きた時、現状ではどう対応できるのか。反レイシズム情報センター(ARIC)代表の梁英聖(リャン・ヨンソン)さん(37)は、「法律がなくても社会で自主的に判断し、加害者でも被害者でもない人が加害者を止める『第三者介入』が必要です」と語る。  日本では、被害者が自分の被害を回復するという方向性での対策はとられている。だが、マジョリティーもマイノリティーも包含した社会全体で差別をどのように抑制していくか、という観点からの対策が薄いと梁さんは言う。  差別の問題は、加害者と被害者という当事者だけの問題ではない。例えば、ナチズムを経験した欧州の国には、レイシズムは社会全体のセキュリティーを揺るがすおそるべきものだという認識があると、一橋大学の鵜飼哲特任教授(64)は言う。  フランスでは毎年、国家人権諮問委員会が「レイシズム、反ユダヤ主義、外国人嫌悪に関する年次報告」という報告を出す。「移民が多すぎると思う」「イスラームに否定的」などの項目でアンケートをし、社会の中でのレイシズムのパーセンテージを測っている。レイシズムが存在するということを数字で毎年目に見える形にして、それを一定の水準以上に上げないために何をすればいいかという風に問題を立てている。 「ぎりぎりのところで社会が壊れないように、まさにマネジメントしていくということです。リアリズムと理想主義の接点です。それはレイシズムがあることを認めて調査しないと始まらない。でも日本はその議論に入ること自体を拒否している。まずレイシズムが存在していることを国家に認めさせないといけない」(鵜飼特任教授)  10月4日、第200回臨時国会の所信表明演説で安倍晋三首相は、第1次世界大戦の戦後処理を討議した1919年のパリ講和会議で日本が「人種平等」を掲げたことを引き合いに出した。これは韓国併合で朝鮮半島を植民地化し独立運動を弾圧、シベリア出兵など日本が対外膨張の道を歩んでいる最中の出来事だった。首相のこの演説は内外で批判を浴びた。  話を戻そう。前出の梁さんは言う。 「とりあえず謝ってうやむやにするという『日本型謝罪』をやめることが重要です。自主的にルールを作り、それに違反していると認めたうえで解決する。差別が起きた時の対応としては、サッカー界が良い例だと思います」 ●差別横断幕で無観客試合、Jリーグはゼロ・トレランス  2014年3月、浦和レッズの一部のサポーターが「JAPANESE ONLY」と書いた横断幕を観客席入場口に掲出し、大きな批判が起こった。  Jリーグはこの横断幕を「差別的な内容」であると判断し、問題発生から5日後に浦和レッズに対し1試合「無観客試合」とするというJリーグ史上最も重い処分を下した。その背景を、「性別・国籍・老若男女問わず、多くの方々にスタジアムでサッカーを楽しんでもらいたいというJリーグの理念に反する行為が行われた」からだとJリーグ広報部は語る。これによって浦和レッズは数万人規模でチケット代の払い戻しをするなど、莫大な損害を出した。  この迅速な決定の背景には、FIFA(国際サッカー連盟)が13年5月に採択した「人種差別主義及び人種差別撲滅に関する決議」がある。これを受け日本サッカー協会は同年11月、差別行為に対する懲罰規定を追加。Jリーグも14年4月に「三つのフェアプレー宣言」を発表した。ルール順守を求める「ピッチ上のフェアプレー」、健全な経営を求める「ファイナンシャル・フェアプレー」、そして、差別の根絶や反社会的勢力との関係遮断、社会的責任を果たす「ソーシャル・フェアプレー」の三つを掲げ、「ソーシャル・フェアプレー」実現のために、リーグと全クラブにコンプライアンス・オフィサーを配置。日々のリスクに対して迅速に対応できる体制を整えている。日本サッカー協会はこう言う。 「サッカーワールドカップをはじめ、スポーツの国際大会はナショナリズムをかきたてる一面がある一方で、国籍や人種、言語、宗教、国際情勢などの枠を超えて世界の人びととの相互理解や友情を深め、差別を撲滅できるほどの大きな力があると考えています」  暴力・暴言、ハラスメント、差別の根絶については“ゼロ・トレランス”を目指すこととした。 「一切の妥協も許さない姿勢で臨まない限り、根絶させるのは難しい問題ですし、フェアプレーを信条とする日本サッカー界として、リスぺクトやスポーツパーソンシップで世界のサッカーをリードしたいと考えるからです」  企業経営の現場では、特に労働力不足の問題から女性、高齢者、外国人など多様な属性の人が差別なく働ける環境をつくらないと人材難で経営が厳しくなるという認識がある。日本ダイバーシティ・マネジメント推進機構専務理事の油井文江さんはこう言う。 「実は労働力という『量』の問題だけでなく『質』も課題になっています。産業の中心が第3次産業に変化した今、ソフト対応という新たな質の確保が課題となり、属性の違いが生む創造力への評価が浮上してきました。質を高める意味では、『違い』は障害ではなく大事な資源。世界経済の先進企業はそう捉えています」  油井さんによると、多様な人材の雇用を進める企業の中には、主要取引先の海外展開に対応するため外国人社員を登用したが日本人社員の反発にあったり、あるいは一部の離反を乗り越え外国人雇用を継続し、量的にも質的にも人材を確保でき業績を伸ばしたといった例がある。 「ダイバーシティーを語るとき、ビジネスの場面では生産性や人的資源という言葉が前に出ますが、背景には人権があります。多様な人を差別せず一人ひとり尊重することが、企業の生産性や社会の発展に今や不可欠ということです」(油井さん) ●フェイクニュースは、消費者の利益を害する  公正取引委員会の杉本和行委員長(69)は9月18日、日本記者クラブでの会見で、プラットフォーマーがフェイクニュースや差別的な書き込みなど信頼できない情報が排除されるような競争環境の整備を考えるべきだと発言した。  製造業と比べコストがかからないデジタルプラットフォーマーは事業拡大が容易で、グーグルやアマゾンといった市場支配力が極めて強い事業者が相対的に出現しやすい。デジタル分野で自由で公正な市場環境を整備することは重要だ。検索サービスやSNSサービスは、消費者に無料でサービスが提供されるが、その代わりにプラットフォーマーは消費者の行動情報などを収集することができる。それを投入財にしてターゲット広告というビジネスモデルが確立されている。  杉本委員長はこう語る。 「検索サービスが無料だったとしても消費者との間で取引関係が成立すると考えられるので、それに対して独占禁止法を適用していく必要があるのではないか。今までの取引で主な着目点は価格だったが、情報の着目点は質になってくる。消費者が得る情報の質も問題にすべきではないか」  消費者が、信頼性に欠ける情報や有害な情報を自分の情報と引き換えに入手することは、対等な対価になっておらず、消費者の利益を害されることになるということだ。 「誤情報や有害情報が流れているサイトと、きちんと取材した信頼性の高い情報を流しているサイトとの間では、公正な競争ができる環境にはなっていないかもしれない。メディア間の対等な競争環境をどう確保していくか、メディアの方々にも考えていただきたいと思います」(杉本委員長) (編集部・小柳暁子) ※AERA 2019年12月2日号
AERA 2019/12/01 17:00
ハライチ岩井が初のエッセー集刊行 「テレビでは絶対言えないことを書いてます」
ハライチ岩井が初のエッセー集刊行 「テレビでは絶対言えないことを書いてます」
岩井勇気(いわい・ゆうき)/1986年、埼玉県生まれ。2005年に澤部佑と「ハライチ」を結成。マンガ、アニメ、ネコが好き。特技はピアノ。テレビのほかTBSラジオ「ハライチ岩井勇気のアニニャン!」などに出演(撮影/写真部・片山菜緒子) 『僕の人生には事件が起きない』は、お笑いコンビ「ハライチ」のボケ担当でネタも作っている岩井さん初の著書。日常のささいな出来事を独特な視点で切り取った25編のエッセー集だ。著者の岩井さんに、同著に込めた思いを聞いた。 *  *  *  初めての著書の中で「30代、独身一人暮らし、相方の陰に隠れがちなお笑い芸人」と自らを紹介する岩井勇気さん(33)。「小説新潮」などの連載をまとめたこのエッセー集には、テレビ番組の裏側や芸能人ならではの話はない。庭の木が枯れた、あんかけラーメンのスープを水筒に入れて持ち歩いた、といった日常がシニカルな視点で描かれている。 「すごい出来事って半年に1回ぐらいしか起きないじゃないですか。でも、ラジオのレギュラー番組では相方の澤部佑とその週に起きたことを話さないといけない。何でもない日常を面白がれる能力を身につけるしかないんですよ」  テレビでは「事件級」のエピソードしか話せないが、ラジオや文章ではささいな出来事を面白く語ることができる。 「その意味でテレビでは絶対言えないことを書いてます」   驚くのは、小説をほとんど読んだことがなく、まとまった文章を書くのも初めてということだ。又吉直樹さんにもらった太宰治『人間失格』は1ページで挫折。その代わりマンガとアニメには詳しい。  今回は編集者に声をかけられ、自分の思いを言語化できるようになりたくて書くことに挑戦した。 「バラバラの部品をとりあえず組み立てた、ではなくて、これめっちゃよくできたな、もう手をつけないでいい、となれば残りの部品を捨てられる。そういう文章が書けたときがいちばん気持ちいい」  お笑いの仕事で忙しいときに原稿の締め切りがくると、「オレ、エッセイストじゃねえっつうの」と突っ込みたくなる。休日に家でパソコンを開き、コンビニのパンをかじって原稿に集中する。 「休みなのに何やってんだろう、澤部は宿題ないんだよな、と思うことはありますね」  それでも、書くことは続けていくつもりだ。 「何かを作るのは好きなんで。それに、何かあって芸能界をやめてやる!というときの声明文が下手だったらいやじゃないですか。この人は言いたいことをちゃんと伝えてるな、という文章を書きたい」  将来、遺書を書いたとき子どもみたいな文章だったらいやだし、ラジオでの発言が悪意あるネット記事になって訴訟になったときに説得力のある文章が書けないと……。岩井さんの妄想は広がっていく。  ちなみに章ごとの挿絵も本人によるものだ。 「さらっと描いたように見せたくて描き直しまくってます」  幼稚園からの幼なじみである相方を率直に語る最終章「澤部と僕と」も見逃せない。(ライター・仲宇佐ゆり) ■ブックファースト新宿店渋谷孝さんのオススメの一冊  休日にロードバイクで走る自転車サラリーマン、サイクリーマンを描いた『サイクリーマン 1』は、自転車で家庭や仕事の悩みを吹っ飛ばしてくれる爽快な一冊だ。ブックファースト新宿店の渋谷孝さんは、同著の魅力を次のように寄せる。 *  *  *  自転車選手を嘱望されながらもケガで断念し、今はサラリーマンのタケ(和田竹繁)。自宅の倉庫整理で当時のロードバイクに再会し、近くの河原で軽く走っていると、遮二無二こぎあげてくるケン(矢美津健)に遭遇。にわかレースで意気投合する。ところが翌日、会社で紹介された新任部長は、なんと昨日出会ったケンだった。  休日にロードバイクで走る自転車サラリーマン、それがサイクリーマン。ひとたび自転車をこぎ出せば、家庭の悩みや職場のストレスも吹き飛んでいくタケとケンの姿を見ていると、新しい自分を見つけに自転車をこぎ出してみたくなる。  第1話登場の「荒川サイクリングロード」をはじめ、実在する場所が描かれているのも魅力の一つ。読めば乗りたくなるファンライドストーリーだ。 ※AERA 2019年11月4日号
読書
AERA 2019/11/04 07:00
11月の年中行事・七五三と関わりの深い「通りゃんせ」。謎めいた歌詞を読み解くと…?
11月の年中行事・七五三と関わりの深い「通りゃんせ」。謎めいた歌詞を読み解くと…?
今年も早くも11月を迎えました。11月は和風月名では「霜月」。陽暦の11月と陰暦の霜月は時期が異なり、現在の暦の11月下旬から1月初旬ごろに当たるため、霜の降りる月という名もぴったりです。冴え冴えと輝く晩秋・初冬の月は、さながら霜を降らしているようにも見えますね。 年中行事では、11月は何と言っても江戸時代から続く七五三詣でになるでしょう。木々も徐々に色づきはじめる11月15日前後、地元の氏神や有名どころの神社に詣で、三歳、五歳、七歳の子供の成長を感謝し、厄を祓い、将来の加護を祈願する、江戸時代発祥の行事。この七五三に関わりが深いとされるわらべ歌に「通りゃんせ」があります。子供の七歳のお祝いに天神社に詣でる歌詞があるためです。 わらべ歌は遊び歌。それをふまえていざ「通りゃんせ」の世界へ 「通りゃんせ」は江戸時代後期ごろを起源にもち、ヨーロッパの「ロンドン橋落ちた」などと同じ「関所遊び」で歌われる素朴なわらべ歌で、江戸期には「天神様の細道」と呼ばれていました。全国各地でさまざまなかたちで歌われていたものを、大正期に本居長世が編曲し、歌詞の一部を改変してレコード化(レコード発売当時のクレジットは野口雨情になっています)したものが有名になり、わらべ歌の代表曲のひとつとなりました。 通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いにお札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも通りゃんせ 通りゃんせ テキストを字面のみで読み下すと「通りゃんせ(お通りなさい)」と促す門番と、天神参りの子連れの親とのやり取りのように思われ、そのような解釈が一般的です。でもこれは遊び歌なので、全ての台詞が必ず誰かに明確に帰属するものではないのです。それを無理に門番と親のやり取りとして読んでしまうと、以下のような意味が通らない箇所が出てきてしまいます。 ・「お通りなさい」と言っておいて、「通しゃせぬ(通せない)」と拒絶する門番の矛盾。 ・「ここはどこの細道じゃ」と不案内な道を訊ねながら、「お札を納めにまいります」と、明確な目的をもって通行しようとする親の矛盾。 この矛盾は、冒頭のフレーズ(一行目から三行目までの歌詞)が、鬼役の二人の子供で作るゲートが「天神さまの細道」だと設定説明し、その道を通るように誘導するための「天の声」(ナレーション)だと理解すれば氷解します。この導入部の「天の声」によって、遊び手の子供たちは「天神さまの細道」の物語世界に没入していきます。そうすると、それぞれが登場人物の誰かとなって、問答、アクションがはじまります。子連れの親(遊びではゲートをくぐる子供)の台詞、門番(ゲートを作っている二人の鬼役)の台詞が交互に続きます。 この遊びは、歌の終了と同時に鬼役の子供が上げていた腕をすばやく下に下ろし、ちょうどくぐろうとしている子供を一人捕まえる遊戯です(バリエーションとしては、腕を大きく横に広げて下ろし、数珠繋ぎの子を二人、三人同時に捕まえる場合も)。そして、腕を大きく横に振って捕まえた子をゆさぶり、ペナルティを与えます。この捕まるか捕まらないかのスリルが遊びのキモであり、捕まるリスクがあるにも関わらずくぐりつづけなければならない必然性を生み出す仕掛けなのです。 最後の二行もやはり「天の声」。「こわい」というフレーズで、いよいよ門が閉じる瞬間が迫ってくるスリルを盛り上げます。最後の「こわいながらも通りゃんせ」というフレーズは、それが明確に「天の声」であることを示しています。なぜならもしこれが門番の台詞なら「怖かろうとも通りゃんせ」になるはずだし、親子の心情ならば「怖いながらもまいります」になるはずだからです。この最後のフレーズは大正期に付け加えられたものですが、世界観を的確に射抜いていて、この非合理な歌詞の作者がクレジットどおり野口雨情だとしたら、さすがと言うほかありません。 「通りゃんせ川越・三芳野神社発祥説」を検証! 明治期ごろには歌詞の原形がほぼ出来上がっていて、泉鏡花の「草迷宮」にも登場する「通りゃんせ」。その歌詞には、ちょっと不思議な言い回しがいくつも出てきます。 「りゃんせ」「しゃんせ」などの「やんせ」という語尾は、もともとは近江地方(滋賀県)の方言だとも、薩摩地方(鹿児島県)の言葉だともいわれます。 「細道じゃ」の「じゃ」という語尾は、主に備前地方(岡山県)のものです。お国訛りがちゃんぽんになったようなこの歌詞から、「通りゃんせ」成り立ちの背景が見えてきます。 江戸には全国諸藩の上屋敷(江戸藩邸)があり、各地からもたらされた方言が江戸の山の手言葉として形成されていったという歴史があります。本居長世が参考にしたのも江戸で歌われていた「通りゃんせ」でしたから、ここから大正期にメジャー化した「通りゃんせ」が江戸城下発祥である、と推測できます。 ところが、「通りゃんせ」発祥の地としてもっとも流布されているのは、埼玉県川越市の三芳野神社。三芳野神社には昭和57年に「発祥の地」の記念碑が建てられています。この神社は、現在も川越城の名残である本丸御殿のすぐそばに鎮座していますが、室町期に太田道灌が築城した城が江戸期に拡張されると、三芳野神社は本丸付近の曲輪(くるわ)内、つまり城内の奥座敷に取り込まれました。 三芳野神社発祥説のあらましはこうです。 三芳野神社が城内に取り込まれて参拝できなくなると、川越の町民が参拝できるよう嘆願した。城主は年に一度の大祭のとき(または時間制限を設けての門衛監視の下)に参拝を許し、この後人々は城内の「細道」をたどって参拝できるようになった。ただ、参拝を装ったスパイの侵入を懸念し、参拝者が城から出るときには厳しく取り調べられた。 これが「行きはよいよい 帰りはこわい」という歌詞に反映されているのだということですが、この発祥譚には実は根拠がないようです(地元の川越歴史博物館も根拠のない話と認めています)。 まず、城の中で最も重要な本丸御殿に近接した中枢部に、江戸時代に庶民が参拝のために出入りできるなどと言うことはありえません。そのようなことが川越城で行われていた、という資料も文献もないのです。入城するときには規制がゆるく、去城するときには厳しかった、という説明も、たとえば空港の税関で、チェックインはフリーパスでチェックアウトだけ厳しい、というようなもので、普通には考えにくく、筆者には歌詞にあわせてつじつまをあわせたように思われます。 明暦年間(1655~1658年)に江戸城の二の丸東照宮が川越城の南田郭門外に遷座されます。その際、三芳野神社の天神社の外宮を造営して、外宮の参拝は町民たちに許した、といわれますが、この史実が誰によるものか「城内本丸の三芳野天神社に町民の参拝が特別に許された」という話に改変され、「それならさぞ厳しい監視を受け、怖かっただろう。城内の曲がりくねった細い通路こそ、『天神様の細道』に違いない!」ということになったのではないでしょうか。 「通りゃんせ」の本当の発祥とは… 多くのわらべ歌は、フレーズの面白さや語呂合わせ、当時の流行や風俗が取り入れられ、また主観と客観が大人ほど明確ではない子供たちの感覚が反映されているので、脈絡が意味不明だったり、子供らしい原始的で極端な表現がしばしば見受けられます。 また、現代では考えられないような古の残酷な風習や出来事が下敷きになっているケースもなくはありません。これが、明治期以降に盛んに作られた、教養高い大人による上品で洗練された童謡・唱歌の中に混じると、奇妙さや不気味さが際立って感じられます。それが秘密の裏の意味やオカルト的深読み解釈説の呼び水になってしまったようです。 「通りゃんせ」についても、城の建立に関わる生贄の歌であるとか、幕府の隠し財宝の歌であるとか、「本当は怖い」系の解釈があとを絶ちません。面白くはありますが、これらは客観的な事実・根拠のあるものではなく、心理的な投影でしかありません。 こうしたことをやりすぎると、かえってわらべ歌の存在価値をそこないかねず、深読みされたわらべ歌が、差別である、残酷であるとして、子供たちに教えることを禁止とした事件も過去にありました。子供たちのものであるはずのわらべ歌、「本当の意味は…」と大人の空想を押しつけるのはあまりすべきことではないように思います。 歌詞に登場する「天神さま」とは、言うまでもなく菅原道真(845~903年)のこと。大変な秀才で、書道の達人でもあった菅原道真は、学問・手習いの神様として江戸期の初等教育である寺子屋で盛んに信仰され、寺子屋の子供たちは毎月二十五日の天神講で、道真の姿絵の掛け軸を拝み、道真のように学問に励むことを誓い、その後に余興を楽しんだといわれています。「天神さま」は子供たちのもっとも身近で親しみ深い神様でした。だからこそ、七つになった成長のお祝いと報告は、天神様だったわけです。その時代の習俗や信仰、共同体との厳しくも温かい絆は、わらべ歌を読み解くときちんと織りこまれています。 全国津々浦々に1万2千社もある天神社と、それぞれの地域で無邪気に遊んだ子供たちこそがその発祥である、とするのが正解なのではないでしょうか。 (参考) 童謡・わらべ歌新釈(中)  (若井勲夫 京都産業大学論集)
tenki.jp 2019/11/01 00:00
自殺願望者募り、窒息系のプレーも? 池袋ホテル女性殺害の真相
自殺願望者募り、窒息系のプレーも? 池袋ホテル女性殺害の真相
逮捕後に移送される北島瑞樹容疑者=9月18日(C)朝日新聞社  東京・池袋のホテルで女性が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された大東文化大4年の北島瑞樹容疑者(22)=埼玉県入間市豊岡5丁目=が、ツイッターで自殺希望者を募るような投稿をしていたことが判明した。「手伝う」などと書き込んでいたという。  捜査関係者によると、死亡した無職女性(36)=東京都江東区=とは、 「8月ごろからツイッターで連絡を取り始め、事件当日に初めて会った」  と供述しており、 「女性から殺害を頼まれた」  という趣旨の話をしているという。  2人の間でやりとりされたメッセージは、どちらの携帯電話からも削除されていた。  さらに北島容疑者が事件前、都内の量販店でひもやポリ袋を購入していたことが明らかになった。荒木さんの遺体は布団圧縮袋のような大型のポリ袋にひざを抱えた状態で入れられ、両足首はビニール製の白いひもで縛られており、警視庁池袋署捜査本部では事前に準備してホテルに持参したとみている。  ホテルの防犯カメラには12日午後3時40分頃、キャリーケースを持った北島容疑者が1人で入室し、約2時間後の午後5時半過ぎに荒木さんが同じ部屋に入る様子が映っていた。そして午後7時40分頃に北島容疑者だけが部屋から立ち去り、キャリーケースを引いてJR池袋駅に徒歩で向かっていた。  荒木さんは事件の当日の午後3時頃、同居する両親に「病院に行く」と告げて家を出たまま行方がわからなくなっていた。  北島容疑者は大学で演劇サークルに所属。主演や脚本などを手掛けることもあった。  大学は19日、ホームページで、 「ご遺族の方にお悔やみ申し上げますとともに、みなさまにご心配とご迷惑をおかけしますことをおわび申し上げます」  とのコメントを発表した。  荒木さんは発見時、着衣を身につけた状態だったという。捜査関係者は当時の状況をこう見立てる。 「窒息系と呼ばれるSMプレーの果てだろう。この種の行為では首を絞めるのが有名だが、酸欠状態で性行為を行うと快感が高まるという。SNSで知り合い自殺希望があった被害者に懇願され犯行に及んだ可能性がある」  演劇関係者によれば、北島容疑者は「いじられるタイプ」だったという。北島容疑者の心の闇は深い。(本誌・今井良) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/09/23 11:35
さいたま小4死体遺棄事件 逮捕の義父は母親と“ネット婚”、ヒモ状態だった
さいたま小4死体遺棄事件 逮捕の義父は母親と“ネット婚”、ヒモ状態だった
殺害された進藤遼佑さん(c)朝日新聞社 進藤悠介容疑者(本人のフェイスブックから) 「本当の父親じゃないと言われて腹が立ったので首を絞めた」  痛ましい事件の真相が徐々に明らかになっている。  9月18日未明、さいたま市見沼区の教職員用集合住宅で、この住宅に住む小学4年生の進藤遼佑さん(9)が殺害されているのが見つかった事件で、埼玉県警は19日夜、義理の父親の無職、進藤悠介容疑者(32)を死体遺棄容疑で逮捕した。捜査関係者によると、殺害についてもおおむね認めているという。  遼佑さんは高校教員の母親(42)の連れ子。母親は1年半ほど前にネットで知り合った悠介容疑者と今年3月に再婚したという。近所の人は、悠介容疑者が再婚相手だと思っていなかった人も多かった。 「時々、悠介容疑者は遼佑さんと一緒にいたが、20歳代くらいに見えて、年の離れた兄弟かなと思った」 「遼佑さんはテストでもよく満点をとっていた。走るのも速いし礼儀も正しい、本当にいいお子さんでしたよ」(同級生の保護者)  一方で、再婚を知る別の保護者はこう話す。 「(悠介容疑者は)授業参観や保護者会にいつも来ていた。私も14日の公開授業で見かけた。親子で仲良く話しているのを見かけたこともある。直接話したことはないが、いい人そうだな、若いのに偉いなと思っていた。イケメンだった」  捜査関係者は言う。 「悠介容疑者は広島県出身。東京の大学で福祉を学んだ。介護関連の資格があるようで、結婚後に仕事を探していたようだ。最近は無職という状態が続いていた。普段はヒモ状態。遼佑さんもそれを見ていたはずで、そういう複雑な家庭状況で何らかのトラブルがあったのではないか。今後、そこを追及することになる」  精神科医の片田珠美さんは次のように分析する。 「悠介容疑者にとって、血のつながりがない遼佑さんは望まぬ子どもであり、今回の事件は私の四つの分類でいえば『望まぬ子どもを消すための子殺し』だったのではないか。義理の父親と息子は母親からの愛情をめぐりライバル関係になりやすく、緊張が続いていたと考えられる。遼佑さんは、母親を取られたと感じて、反感を抱いていただろうし、母性を求めて結婚したと考えられる悠介容疑者も、やはり遼佑さんを良くは思っていなかっただろう。事件の引き金になったのは『本当の父親ではない』という一言だったのではないか」  悠介容疑者の真の動機の解明が待たれる。(本誌 今井良、緒方麦/今西憲之) ※週刊朝日 2019年10月4日号
週刊朝日 2019/09/21 12:40
32歳の義理の父親を逮捕 さいたま小4遺体遺棄事件
32歳の義理の父親を逮捕 さいたま小4遺体遺棄事件
9歳の小学生の男の子が遺体で発見された現場(C)朝日新聞社  「やはり…」という事件の結末だ。  9月18日の未明、埼玉県さいたま市見沼区の教職員用の集合住宅で、この住宅に住む小学4年生の男の子が殺害されているのが見つかった事件で、埼玉県警は32歳の義理の父親の進藤悠介容疑者(32)を死体遺棄容疑で19日夕方、逮捕した。  18日の午前0時40分ごろ、集合住宅の敷地内で、この住宅に住む進藤遼佑さん(9)が死亡しているのが見つかっていた。遼佑さんは義理の父親である悠介容疑者と教員の母親(42)との3人暮らし。  捜査関係者によると、遼佑さんが発見されたのは自宅近くの水道メーターなどが入っているスペース。首には絞められたような痕があったことなどから、警察は殺害された疑いがあるとみて捜査していた。  その結果、悠介容疑者が遼佑さんの遺体を遺棄した疑いが強まったとして、逮捕状を請求。事情聴取をした後、逮捕した。  捜査関係者によると、遼佑さんの自宅からは、犯行に使われたとみられるひもが見つかっていた。さらに犯行時刻帯の父親の行動や説明にあいまいな点が見られていたことから、捜査一課は重要参考人として事情を聴いていた。 「発覚直後から父親の犯行とみていた。落とすまでに時間がかかっている状況」(捜査関係者)  悠介容疑者はなぜ息子を……。目を塞ぎたくなる真相を引き出そうと捜査官と父親との心理戦が続いている。(本誌・今井良) ■逮捕状を請求後、進藤悠介容疑者が逮捕されたので記事を修正しました。 ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/09/19 18:49
「いじられるタイプ」だったという22歳男子大学生の素顔 池袋ホテル事件
「いじられるタイプ」だったという22歳男子大学生の素顔 池袋ホテル事件
逮捕後に移送される北島瑞樹容疑者=18日午後8時35分、警視庁池袋署(C)朝日新聞社  東京・池袋のホテルで女性の遺体が見つかった事件で、逮捕された大学生の男が、大型のポリ袋を事前に量販店で購入していたことがわかった。  警視庁は18日、埼玉県入間市に住む大東文化大学4年の北島瑞樹容疑者(22)を殺人容疑で逮捕した。調べに対して、容疑を認めているという。  捜査本部によると、北島容疑者は12日午後6~8時ごろ、東京都豊島区池袋のホテル2階の客室で、東京都江東区南砂の無職荒木ひろみさん(36)の首を圧迫して窒息死させた疑いが持たれている。調べに対して、「手で首を絞めた」と供述している。  ホテルの防犯カメラには12日午後3時40分頃、キャリーケースを持った若い男が一人で入室し、約2時間後の午後5時半過ぎに荒木さんが同じ部屋に入る様子が映っていた。そして午後7時40分ごろに男だけが部屋から立ち去り、キャリーケースを引いた男がJR池袋駅に徒歩で向かっていた。  警視庁が池袋駅など周囲の防犯カメラを解析して男の犯行前と犯行後の足取りを追跡したところ、北島容疑者の関与が浮上した。警視庁では18日朝に任意同行を求め、殺人の容疑で事情を聴いていた。  荒木さんは事件の当日の午後3時ごろ、同居する両親に「病院に行く」と告げて家を出たまま行方がわからなくなっていた。  捜査関係者によると、北島容疑者の携帯電話を解析したところ、ツイッターの一部のやり取りが削除されていたという。さらに北島容疑者の自宅からは荒木さんの携帯電話も見つかったという。警視庁では荒木さん殺害に関わる証拠隠滅を図ったとみている。  関係者によると、北島容疑者は大学で演劇部に所属。主演のほかに脚本や演出も担当していたという。 「きたじいと呼ばれていた。いじられるタイプで本人もそれに乗る感じだった。こんな大それたことをするような人間には見えなかった」(演劇部関係者)  北島容疑者は何を語るのか。警視庁は引き続き、荒木さんとの接点や動機を追及する方針だ。(本誌・今井良) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/09/19 12:51
女性の遺体遺棄で逮捕された22歳男子大学生の足取り 池袋ホテル事件
女性の遺体遺棄で逮捕された22歳男子大学生の足取り 池袋ホテル事件
現場となった池袋のホテル(撮影/今井良)  男と被害女性の接点は何だったのか。  東京都豊島区池袋のホテルで布団圧縮袋のようなポリ袋に入った女性の遺体が見つかった事件で、警視庁は18日、埼玉県入間市豊岡の私立大学4年、北島瑞樹容疑者(22)を殺人容疑で逮捕した。調べに対して容疑を認めているという。  捜査本部の発表によると、北島容疑者は今月12日午後6時から8時頃、豊島区池袋のホテル2階の客室で、江東区南砂の無職荒木ひろみさん(36)の首を圧迫し、て窒息死させた疑いが持たれている。調べに対して、「手で首を絞めた」と供述している。  ホテルの防犯カメラには12日午後3時40分頃、キャリーケースを持った若い男が一人で入室し、約2時間後の午後5時半過ぎに荒木さんが同じ部屋に入る様子が映っていた。そして午後7時40分頃に男だけが部屋から立ち去り、キャリーケースを引いた北島容疑者がJR池袋駅に徒歩で向かっていた。  警視庁が池袋駅など周囲の防犯カメラを解析して男の足取りを追跡したところ、北島容疑者が浮上した。18日朝に任意同行を求めていて、殺人の容疑で事情を聞いていたという。北島容疑者の自宅からはなくなっていた荒木さんの帽子やリュックサックとみられる遺留品が押収された。  荒木さんは事件の当日の午後3時頃、同居する両親に「病院に行く」と告げて家を出たまま行方がわからなくなっていた。  捜査本部では北島容疑者の携帯電話を解析するなどして、荒木さんとの接点、動機などについて追及していく方針だ。(本誌・今井良) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/09/18 22:04
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