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貴乃花親方騒動もううんざり 逸材“大鵬の孫”納谷に注目!
貴乃花親方騒動もううんざり 逸材“大鵬の孫”納谷に注目!
土俵外の騒動はもう結構です (c)朝日新聞社 全勝で序ノ口優勝を決めた納谷。次の元号のスタートのころには、どの地位にいるのだろうか (c)朝日新聞社  「自分に与えられた職責を果たし、弟子の育成と大相撲の発展のためにゼロからスタートして参ります」  3月29日、日本相撲協会は貴乃花親方に2階級降格処分、十両貴公俊(20)に5月場所の出場停止処分を下し、2人は首を垂れた。日馬富士の暴行事件に端を発した“貴の乱”は、ようやく幕が下りた。  そこで土俵に目を移せば、次代を担う可能性を秘めた若い芽が出てきた。筆頭が、序ノ口デビューした3月場所で7戦全勝優勝を飾った納谷(18、大嶽部屋)だ。史上2位の優勝32回を誇り、“巨人、大鵬、卵焼き”と並び称された昭和の大横綱大鵬の孫にして、父は元関脇の貴闘力。高校相撲界の名門、埼玉栄で活躍し、キャプテンを務めた昨年は全国高校選抜大会と国体少年の部で個人2冠を達成、国体では団体も制した逸材だ。 「埼玉栄の山田(道紀)監督は『しっかりしている。いいキャプテンだった』と評価してましたからね。おじいさんが有名な大横綱で、ともすれば勘違いしそうな環境にありながら、賭博問題で角界から永久追放されたお父さんとは違い、真面目です(笑)。高校時代に家を出て、豪栄道などが輩出し、プロを目指す者が集う埼玉栄という厳しい環境で合宿生活を送り、相撲の基礎だけでなく礼儀も学んだことが良かったんでしょう」(相撲担当記者)  肝心の力士としての可能性を聞くと、ベテランの相撲担当記者が、こんな言い方をした。 「デビュー場所を全勝優勝したわけですが、いつ負けるか、です。負けたとき、どう立て直すか。心の強さを見てみたい。高校相撲でトップレベルだった彼を脅かす存在は、今の位置ではそういませんから」  納谷のライバルになりそうなのは、埼玉栄時代の同級生で一場所早くプロデビューした塚原(春日野)と、琴手計(ことてばかり・佐渡ケ嶽)。 「高校時代、納谷より強いと言われていた塚原は、1月場所で序ノ口優勝、3月場所で序二段優勝と、納谷の一足先を行ってます。それと、朝青龍の甥の豊昇龍も負けん気が強くておもしろい。納谷に負けても『体重の差だね。10キロ増えれば勝てる』と言っていましたから(笑)」(同前)  楽しみな納谷世代。若貴で盛り上がった時代も、曙や武蔵丸というライバルがいたからだ。  相撲はやっぱり土俵に注目が集まってほしい。(黒田朔) ※週刊朝日 2018年4月13日号
週刊朝日 2018/04/05 11:30
「好戦派、恥を知れ」率直に生きた俳人・金子兜太の言葉
「好戦派、恥を知れ」率直に生きた俳人・金子兜太の言葉
昨年11月23日に行われた現代俳句協会創立70周年記念式典で。表彰にただ一言、「ありがとう!」。宴もたけなわになった頃、かつて好戦派と敵視もした父・伊昔紅が現在の形にまとめた「秩父音頭」を熱唱(撮影/倉田貴志) 熊谷市の自宅で。最後まで「俳句弾圧不忘の碑」の除幕式に出たがった。1933年に獄中死した小林多喜二と同じ2月20日に亡くなったのは、「軍国主義の悲惨を忘れさせないため」だとマブソン青眼(撮影/倉田貴志) 東京新聞「平和の俳句」の打ち上げパーティーで、いとうせいこうと。メニューは大好物の肉料理だった(撮影/倉田貴志)  2月20日に98歳で逝去した俳人、金子兜太。自宅に迎え入れてくれたのは4カ月前のこと。現代社会に対する危機認識を話しつつ、安倍首相にあなた俳句やらんか?って勧めてみたいよ、と笑った。ジャーナリスト・斎藤貴男氏が追想する。 *  *  * 「私は何が本当なのか、本当でないのか、わからなくなる時がある。お前はいい加減な奴だ、本物じゃないのではと、自分でも思う。戦争の頃からだ」 ──ニヒルな感じに。 「どうでもいいや、とね。女性がいてくれて、食い物があればいいや、というくらいの」  金子兜太が微笑んだ。昨年11月、私にとっては、これが最初で最後のインタビューになった。本誌「現代の肖像」の取材で、せめてあと1、2回は会い、じっくり話を聞くつもりが、この2月20日、急性呼吸促迫症候群で亡くなってしまった。98歳だった。  すぐれぬ体調が言わせた言葉でなかった保証はない。だが私は感銘を受けた。希代の俳人が、100歳を目前にしてなお悩んでいる。己の力では何も成し遂げたことがないくせに、やたら傲慢な手合いばかりが目立つ現代にあって、なんと謙虚で、正直な人なのか、と。 ●大好きな小林一茶に倣い「荒凡夫」を自称する 「戦後日本の代表的な」「俳壇の重鎮」「大御所」「闘将」「戦後の俳壇リード」……。金子の訃報を、新聞各紙はこんな形容とともに伝えた。記者たちの苦労が偲ばれる。どれもその通りではあったけれど、紋切り型の慣用句で説明できる人物では到底なかった。  さりとて蛇笏賞や日本芸術院賞、文化功労者といった受賞・栄典の類いを並べるのもピントが外れている。そもそも文化勲章やノーベル賞を受けていないことのほうが不思議だった。  遡れば東京帝国大学経済学部卒、元日本銀行勤務の経歴。50歳代の写真を見ると、眼光鋭い、寄らば斬るぞのムードを湛えた男がそこにいた。その頃に旅先で詠まれた代表的な一句──。  人体冷えて東北白い花盛り  さまざまな解釈があるそうだが、花や雪の美しさよりも、「人体」の一語にどこかゾッとする怖さを感じたのは私だけだろうか。やがて金子は大好きな小林一茶に倣い、「荒凡夫」を自称した。「荒」は荒々しさというよりは「自由」のイメージ。  そして2016年1月。学術、芸術などの分野で傑出した個人や団体に贈られる「朝日賞」の授賞式で、彼は宣言した。 「私は存在者というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。(中略)私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を捧げたい」  存在者とは、「そのままで生きている人間。いわば生の人間。率直にものを言う人」だと、金子は言った。「荒凡夫」をさらに一歩進めた、悟りの境地のようなものを感じさせる。 「ただね」  と話してくれたのは黒田杏子(79)である。生前の金子と最も近しかった俳人の一人だ。 「あの挨拶だけだったら、単なる格好つけで終わっていたかもしれません。あの方はやはり特別な存在でしたから。兜太さんが本当の“存在者”たちに出会ったのは、むしろあれ以降ではなかったか。以前は、私の知り合いで、軍隊では人間魚雷を発進させる任務を負っていた新潟の漁師さんに私がまとめた『語る 兜太』という本を見せて、『やっぱり俺らとは違う。これはエリートの言葉だ』と言われちゃったこともあるんです。兜太さんは晩年、あの方自身の理想に近づくことが確かにできたのだと思う。完成したとまでは言いませんけど」 ●「平和の俳句」欄の選評に「好戦派、恥を知れ」  黒田がそう感じることができたのは、朝日賞の挨拶から3カ月ほどを経た同年4月29日。「東京新聞」朝刊1面の「平和の俳句」欄の選評で金子が、 「好戦派、恥を知れ」  と書いているのを読んだのだった。詠み人に向けた非難ではもちろんない。都内在住の74歳が詠んだ「老陛下平和を願い幾旅路」について、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる」と綴った後に続けられた、腹の底からの叫び。 「普通はあり得ない選評でしょう? あれには私もビックリした。平和の俳句では他にも、兜太さんと同い年の方の、自分は体を壊して兵役に就かず、この年まで生きている、死者たちにすまないという内容の句に、なんと謙虚な、と返したり。  朝日とか読売とか、私が選者になっている日本経済新聞とかの俳句欄には、いわば俳句に慣れた人たちが投句してくるのに対して、東京新聞はそうじゃなかった。それまで俳句と縁がなかった人たちが、無我夢中で、句だけでは収めきれない思いの丈まで、ハガキに書き込んでこられる。兜太さんはそういう人たちと、紙面を通した対話を真剣に重ねていらした」 「平和の俳句」は15年の元日から1年間の予定でスタートし、2年も延びて昨年末に終了した、東京新聞の名物企画だった。14年に、作家でクリエイターのいとうせいこう(56)と対談し、時代に対する危機意識を確認し合ったのがキッカケだ。やはり15年に作家・澤地久枝(87)の頼みに筆を執り、反戦運動のシンボルとなる「アベ政治を許さない」の揮毫も、この延長線上に位置づけられた行動だ。 「父は戦争を憎む句は以前から詠んでいましたが、俳句以外の場にも積極的に出向き、反戦や平和を強く、広く訴えるようになったのは、いとうさんとの対談あたりからです。歴史にも鑑みて、戦時における文化人の生き方というものを考えたのだと思います」  金子眞土(69)の回想だ。亡きみな子との一人息子。考古学を学び、埼玉県で学芸員などを務めて、定年後は妻の知佳子と、父親のサポートに徹した。 ●戦場のトラック諸島で句会を開く  金子兜太は1919年9月23日、埼玉県小川町に生まれた。父元春は医師で、「伊昔紅(いせきこう)」を名乗る俳人でもあった。  翌年から2年間は父の仕事の関係で中国・上海へ。帰国後は秩父郡皆野町で暮らした。明治期における自由民権運動の拠点で、秩父困民党を組織し政府の横暴に抗った土地柄を愛し抜いた。  晩年の一句。  われは秩父の皆野に育ち猪(しし)が好き  猪だけでなく、肉は何でも好きだった。その話が出ると、「人肉じゃないよ~」と、笑えぬブラックジョークを飛ばさずにはいられないサービス精神もまた、金子の金子たるゆえんだった。  俳句を本格的に詠み始めたのは旧制水戸高校(現茨城大学)時代だったか。先輩の誘いで句会に参加。全国規模の学生俳句誌「成層圏」の常連となり、たちまち頭角を現す。  人間探求派と呼ばれた加藤楸邨(しゅうそん)の門下で活動した。東京帝大卒業後の日本銀行勤務はわずか3日間。戦局の悪化に伴い、海軍主計中尉として西太平洋における日本軍の拠点・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に送られた。 「秩父の人たちに、戦争に負けたら俺らは食えなくなる。兜太さん勝ってきてくれと頼まれてね。まあ英雄気取りで、南方第一線を志願しました」  だが戦場とはこの世の地獄だ。トラック諸島は米軍の空襲で航空機270機、艦船43隻を失い、拠点としての基地機能をほぼ壊滅させられたばかり。  米軍の戦闘機が毎日機銃掃射にやってくる。爆撃機は爆弾を落としていく。ややあってサイパン島の日本軍が全滅すると、食糧や武器弾薬の補給路も断たれた。  餓死者が続出した。畑を耕し、芋を育てても虫に食われる。毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者も出た。金子はコウモリを焼いて食べて生き延びた。ヤキトリの味がするそうだ。  現地の娘を暴行して報復されたり、男色のもつれで殺し合う事件が相次いだ。誰もが生きる意味を失いかけた時、金子は、句会を開いた。季語や季題、五七五の定型にこだわらない「前衛俳句」と呼ばれた彼の作風は、生か死かの緊張を強いられ続けた戦場で培われたものか。金子がかの地で詠み、いつまでも覚えていた一句。  空襲よくとがった鉛筆が一本  試作した手榴弾の実験で軍属が爆死した際、金子は戦争は絶対悪だと確信した。同時に日頃は粗暴な軍属たちが、腕がちぎれ、背中を抉られた仲間をみんなで2キロも離れた医師のところに担いでいく姿を見て、人間が生きるということの素晴らしさを改めて思った。  トラック諸島での戦争体験が、そのまま戦後の俳人・金子兜太の原動力になった。広く知られた事実には前段がある。まだ学生だった20歳の頃、「土上(どじょう)」を主宰していた嶋田青峰と会う機会があり、ここにも投句した。と、ややあって41年2月、嶋田が治安維持法違反で逮捕されてしまった。 “皇紀2600年”だった前年の「京大俳句」会員一斉検挙に始まり、翌々43年までに合計44人の俳人が捕らえられた新興俳句弾圧事件の暴風だった。  総動員体制下での表現統制が、世界最短かつ遊戯性を楽しむ定型詩の世界にまで及んだのは、当時の俳壇にあった正岡子規以来の花鳥諷詠を重んじる伝統派と、表現形式の革新や思想性、社会性の探求をも目指す新興俳句運動との対立が、そのまま体制と反体制の関係に重ねられたせいもある。嶋田は温厚な人柄で、明治期には伝統派の牙城「ホトトギス」で高浜虚子の片腕だった男だが、「土上(どじょう)」では新興俳句にも理解を示していた。  嶋田には胸の病があった。59歳だった彼は留置場で喀血(かっけつ)し、釈放後は生ける屍となって死に至る。自宅療養中はかつての同人たちもほとんど訪れず、非業の最期を遂げたという。  金子は見舞った。この時期までは特段の反戦思想は持ち合わせていなかったと言うが、件(くだん)のいとうせいこうとの対談では、事件当時と現代の日本社会に共通する特質を論じ合った。この少し前に発覚した、さいたま市の公民館が俳句教室で選ばれた護憲デモを詠んだ句の「公民館だより」への不掲載を一方的に決めた、いわゆる「9条俳句掲載拒否事件」を糸口に、 いとう:こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。(中略) 金子:この人(引用者注・嶋田)がボソボソボソボソ言っていたことも思い出しますけどね。治安維持法が過剰に使われた。何とかこういうことはいろんな形で訴えていかにゃいかんと。 いとう:特定秘密保護法を見たときに治安維持法だと私は思いました。目立つところで言うことを聞かなさそうな人たちを引っ張っていく、ということが既に始まっているんだという実感はすごくある。(東京新聞14年8月15日付朝刊)  日本はまだトラック諸島のようにはなっていない。9条俳句の事件も新興俳句弾圧事件よりはソフトに映る。だが監視社会化は対談当時よりも格段に進んだ。共謀罪も、そのための盗聴法の拡充も、街中に張り巡らされた監視カメラ網も。私たちは今や、家畜同然に一方的に割り当てられたID番号を、あろうことか“マイナンバー”と呼ばされ、利用を強制されている。  歴史は繰り返す、という。だから金子は、一般からは俳人というより社会運動家のように見えかねない発言にも踏み込んだ。覚悟の意義は、訃報を伝えた保守系メディア──近年はネトウヨメディアに堕した──でさえ、オーソドックスな報じ方をせざるを得なかった現実だけでも証明されたと考える。  被曝の人や牛や夏野をただ歩く  2011年の福島第一原発事故を受けて──ただし現政権が誕生する以前──詠まれた句だ。ではあるけれど、このままでは避けられないかもしれない近い将来の核戦争をも予見しているとは言えまいか。  復員後に復職した日銀で、「トラック諸島で死んだ人たちのためにも、平和の実現に体を張ろう」と組合活動に熱中。勤め人にとってはそれが唯一の方法論だったからだが、はたして地方を転々とする“窓際族”どころか窓の奥、要するに“窓奥族”にされたと苦笑する。それでも金子は、その怒りさえもエネルギーに変えて、句を詠んだ。  新興俳句の流れを汲む“前衛俳句の旗手”として、伝統俳句派との論争にも情熱を注いだ。現代俳句協会の会長(後に名誉会長)にも就任した。87年に朝日俳壇の選者となった際は、朝日新聞社の社長が、「そんなことをしたら不買運動だ」という手紙を伝統派一部勢力に送りつけられた経緯もある。  だからといって晩年の言動と俳人としてのアイデンティティーは矛盾しない。思うに、ああすることができたからこそ、金子は「存在者」になり得た。 ●今どきの新自由主義なんて信用しません  インタビューは金子の書斎の隣にある応接室で行った。仮眠から覚めて出てきてくれた彼は、こんな話もした。 「俺の部屋に飾ってある、亡くなった女房の写真がね、こっちを見ている気がするんだよ。苦労させたからね」 ──今の社会をどうご覧になりますか。 「非常に危険だと感じています。できそこないの奇術師みたいな連中が政治の先頭に立っているからね。アメリカのスランプ、トランプか、あの人も危ないと思いますよ、私は」 ──戦後72年。かつてない状況だと。 「イエス。まったくその通り。機が熟したな、というぐらいに感じています」 ──私ももう40年近く記者の仕事をしていますが、近頃はわけがわかりません。自分のいる世界が不気味です。 「私みたいなチンピラ俳人も同じです。戦争反対なんて偉そうにしていても、みなさんうわべは真顔で聞いてくれるようでいて、実は笑っていたりして。金子兜太自身も笑っているんじゃないか、なんて思いに陥ることがある。いつも何かしら、ごちょごちょごちょごちょ、地球上を動いてますなあ。そういう情勢を見て、経団連とかが、一番いい状況に乗っかろうと一生懸命なんじゃないですか。資本主義は本来、“自由”が前提なんです。自由主義を忘れた資本主義というか、独占段階に入ったというか。今どきの新自由主義だなんてのは、ぜんぜん信用しません」  さる2月25日、戦没した画学生らの作品を展示している長野県上田市の「無言館」の敷地内で、「俳句弾圧不忘の碑」の除幕式が行われた。筆頭呼びかけ人だった金子は、最後まで出席すると言い張っていたのだが。  15年11月の「秩父俳句道場」で金子と対談し、碑のアイデアを持ち掛けて事務局長となり、その建立に寝食を忘れて打ち込んだフランス出身の俳人で比較文学者のマブソン青眼(49、本名ローラン・マブソン)が、除幕式の司会を務めた。金子に碑とともに贈るサプライズにしようと完成させた、弾圧された俳人たちの句や似顔絵に鉄格子をかけて展示する「檻の俳句館」をも見据えて彼は、 「弾圧事件の関係で亡くなった俳人は、少なくとも3人。この碑にしても、いろいろな抵抗はありましたが、何よりも彼らの名誉回復を、という思いによって、ここに除幕するものです」  とする趣旨の言葉を述べて、やはり呼びかけ人である無言館館長の窪島誠一郎(76)と除幕の紐を引いた。金子が鬼籍に入ってしまう前に会ったマブソンの「兜太先生の俳句はGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazonに代表されるプラットフォーマー)にも支配されない、レジスタンスなんだ。AI(人工知能)には不可能な、時間やイメージの飛躍を恐れない凄み、感性と知性がひとつになった人だけにできること」という言葉が忘れられない。  金子は、そのような存在者だった。 (文中敬称略) (ジャーナリスト・斎藤貴男) ※AERA 2018年3月19日号
AERA 2018/03/19 16:00
「アベ政治を許さない」 筆を振るった俳人・金子兜太の危機感
「アベ政治を許さない」 筆を振るった俳人・金子兜太の危機感
2017年11月末、「現代の肖像」の取材で埼玉県熊谷市のご自宅にお伺いしたときの写真。庭が見える応接間で、「どうも、どうも」と迎えてくれた(撮影/倉田貴志) 「アベ政治を許さない」の揮毫は衝撃だった。集団的自衛権の行使を容認した、ということは米国の意向次第で戦争に引きずり込まれかねない“安全保障関連法案”の国会審議が続いていた2015年、これに反対するプラカードの言葉を、金子兜太(とうた)さんが毛筆で書いていた。  旧知の作家・澤地久枝さんの求めに応じた。とはいえ、俳句という伝統的な文芸の世界の重鎮が、かりそめにも時の総理大臣にそこまで言うか、と思った。しかも金子さんは、「許」の字を特に大きく力強く、首相の名字をカタカナで表記したのである。  これには頼んだ澤地さんも驚いた。「そこまではお願いしませんでしたから。あれは兜太さんの感性です。今のようなご時世にあって、それでもご自分を貫かれることは大変だったと思う」。だが金子さん本人は、報道陣に真意を問われても、「こんな政権に漢字はもったいない」と呵々大笑したものだ。  伊達や酔狂でできる業ではない。金子さんをしてそうさせたのは、五体から噴き出してくる危機感だった。  埼玉県は秩父で幼少期を過ごす。東京帝大経済学部を卒業し、日本銀行入行後、海軍主計中尉として赴任した西太平洋のトラック諸島(現・チューク諸島)で、彼は人間の修羅場に遭った。  空襲で基地機能を喪失した島々には、もはや米軍も侵攻してはこなかった。けれどもサイパン島からの補給を断たれて、食糧も武器弾薬もない。  飢えて死ぬ者、毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者が続出した。金子さんはコウモリを食べて生き延びた。  現地の娘を暴行して報復される事件や、男色のもつれが殺し合いに発展する事件が相次いだ。試作された手榴弾の実験で軍属が爆死した。戦争は悪以外の何ものでもないと知った。  父親も俳人だった。旧制水戸高校(現・茨城大学)時代から俳句に本気で取り組み始めた金子さんは、東大時代にも戦争の、というより戦時下にある社会の非道を目の当たりにしていた。  目をかけていてくれた雑誌「土上(どじょう)」の主宰・嶋田青峰が1941年2月、治安維持法違反で検挙された事件である。総計44人が検挙された新興俳句弾圧事件の一環だった。特段の言動があったのでもない。だがこの当時、人間の生命も尊厳も、特高警察の胸三寸で、どうにでもなるものでしかなかった。虐待された青峰は獄中で喀血し、釈放された後も回復できぬまま死に至っている。  戦後の金子さんは、虚子以来の花鳥諷詠にも、五・七・五の定型にもとらわれない、現代俳句運動の先頭を走り続けた。復帰した日銀では組合活動に従事し、冷や飯を食わされもしたが、彼は不遇さえもエネルギーに変えて、膨大な句を詠み、一茶や山頭火の研究に精魂を傾けた。  現代俳句協会の会長および名誉会長職。朝日俳壇の選者。蛇笏賞、日本芸術院賞、スウェーデンのチカダ賞、文化功労者、菊池寛賞、朝日賞……。功績を挙げていけば際限がない。晩年は東京新聞で15年にスタートさせた「平和の俳句」の仕事を、とりわけ大事にしていた。 「AERA」編集部と私は、そんな金子さんの魅力溢れる人間像を「現代の肖像」欄で読者に紹介しようと、かねて取材を進めていた。とことん自由な魂を湛えて、誰にも愛される人だった。2月25日には長野県上田市の無言館近くで前記の俳句弾圧事件の犠牲者たちを語り継ぐ「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑」の除幕式があり、呼びかけ人の金子さんも出席する予定だったから、悲願を叶えての思いを存分に語っていただいた上で、一気に書き上げるつもりでいたのに──。  私たちはまたしても大きな道標を失ってしまった。だが泣いてばかりいるわけにはいかない。  水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を  置きて去る  金子さんがトラック島から引き揚げた際に詠んだ句だ。彼に学び、その心を忘れずに生きたいと思う。(文中一部敬称略)(ジャーナリスト・斎藤貴男) ※AERA 2018年3月5日号
お悔やみ
AERA 2018/02/27 16:00
二階堂ふみ「絶対にハルナを演じると決めた」岡崎京子が時代を超えて支持されるワケ
二階堂ふみ「絶対にハルナを演じると決めた」岡崎京子が時代を超えて支持されるワケ
『リバーズ・エッジ』の中に登場する「平坦な戦場で、ぼくらが生き延びること」という言葉は、米国出身のSF作家ウィリアム・ギブソンの書いた詩の一節。『リバーズ・エッジ』はこの詩によって普遍的価値を得た(撮影/今村拓馬) 漫画のハルナ(左)と公開中の映画の一コマ。私服に着替えて夜の河原へ集まる場面は、退屈な日常からの解放の象徴 (c)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社  1980年代~90年代前半にかけて活躍した漫画家・岡崎京子。その同名漫画が原作の映画「リバーズ・エッジ」が公開中だ。行定(ゆきさだ)勲が監督し、二階堂ふみが主演を務める。20年以上前に描かれた作品がなぜ根強く支持され続けるのか、関係者とファンの声からノンフィクション作家・中原一歩氏が読み解いた。 *  *  *  映画「リバーズ・エッジ」で主人公のハルナを演じた二階堂は23歳。00年以降に社会人になった、いわゆる「ミレニアル世代」だが、原作を初めて読んだ時、いつか絶対にハルナを演じると心に決めたと話す。それは、ある映画の撮影の真っただ中のことだった。 「高校生の時、映画『ヒミズ』の撮影中に仲良くなったスタッフさんが原作を貸してくださって、読んだのがきっかけです」  映画「ヒミズ」も同名の漫画が原作。01年から03年にかけて「週刊ヤングマガジン」に連載された古谷実の作品で、東日本大震災後の12年に、園子温(そのしおん)によって映画化された。  孤独な人生を送るある中学生の、重苦しい日常と不条理な運命を描いた青春群像劇。母親は蒸発し、父親からの虐待に耐えかねた主人公は、衝動的にその父親を殺してしまう。主人公の夢は「普通に生きたい」だった。二階堂はこの作品で園に魅入られ、17歳でその才能を開花させることになる。 『リバーズ・エッジ』と『ヒミズ』。どちらも若者の「日常」を切り取った物語だが、「たとえ気だるくても、なんとかして終わりなき日常を生きよ」と説く前者に対し、震災後の世界を舞台にした後者は「そんな日常すら終わってしまったけれど、それでも生きなければ」とカタルシスを語る。偶然にも、『ヒミズ』に登場する主人公の家の前にも川が流れている。  二階堂は自身にとっての青春とは何かという質問にこう答えている。 「当事者には分からないもの。その時は青春していると思っていても、後から振り返ると意外に友だちとダラダラしている無駄と思われる時間のほうが青春と思えます。言い換えるなら、大人にならないと見えてこないものですかね」  16歳で初めて読んだ時は、自分の感情が登場人物に近かった。だが、自分が大人と分類される年代に近づくと、見えてくるものが変わってきたと語る。  SEALDs(シールズ)のメンバーとして、安保法制反対などを訴えた津田塾大学の学生、溝井萌子は22歳。『リバーズ・エッジ』のハルナに自身を重ねる。「川縁」は、自分の生まれた街、埼玉県川口市の風景と同じだと言う。 「今年55歳になる父親が岡崎京子の大ファンでした。90年代なので、描かれているファッションこそ違いますが、荒川のほとりで、工場があって、団地がある。同世代の友だちは、とくに大きな変化も求めず、ダラッとした日常を続けている。いまでは住民の4人に1人が外国人で、あらゆる人種がごちゃ混ぜになって生活しています」  高校時代にいじめに遭い、自宅に引きこもっていた時に、父親の本棚で手にとった『リバーズ・エッジ』。自由を求め、マイペースでもタフに生きようとするハルナは溝井自身だった。  岡崎本人は、この状況をどう思っているのか。  岡崎の弟・忠は、東京・下北沢で実家の理髪店を引き継ぎながら、父と母と共に姉の自宅療養を支えている。事故の後遺症で手足に麻痺が残り車椅子生活の岡崎は、以前のように筆をとって、創作に臨むことはまだできていない。家族と共に好きなアーティストのライブに行くなど、穏やかな日々を送っているようだ。忠は言う。 「京子さんとは、病院から退院してきてはじめて本当の家族になれたと思います。初めて京子さんの前で他愛もないギャグをやって、彼女が笑った時は本当にうれしかった。昔から僕の役回りはパシリで、京子さんと妹がペチャペチャおしゃべりをしている時、近くのコンビニまで行かされていました。そうした何げない光景が、京子さんの初期の作品には数多く登場することを、僕は事故後にはじめて知ったんです」  岡崎は映画「リバーズ・エッジ」を見ているが、映画のように場面展開の激しい動画を認識するのは難しい状態らしい。 「『はい』や『いいえ』などの簡単な意思は、短い言葉や表情で返してくれるので、それで判断します。食事をしたり、ラジオを聞いたり、いまはどうすれば彼女がケラケラと笑ってくれるかを考えることが、僕を含めて家族の喜びなんです」(忠)  映画「リバーズ・エッジ」を監督した行定は、この映画を撮っている間ずっと、リバー(川)という歴史のエッジ(縁)に立たされているような感覚だったと語る。 「登場人物のハルナや同級生たちは、過ぎていった時代の子どもたち。平坦な戦場という、何と戦っているかも分からない時間、つまり青春の中にいる。原作が発売された直後の95年に地下鉄サリン事件が起こって、世の中の価値観が大きく変わっていった。それから世界では日常的にテロが起こり、ついには凄惨(せいさん)な事件が報道されても驚かないくらいになってしまった」  誰もが大きな時代の空気にのまれていて、最後まで何かへの途上にいる。そしてギリギリの岐路、つまり、“リバーズ・エッジ”に立っている。だから共感できるのだと行定は語る。 『リバーズ・エッジ』は、時代や世代を超えて限りない日常を生き続けるための生存戦略であり、処方箋なのだ。(文中敬称略)(ノンフィクション作家・中原一歩) ※AERA 2018年2月26日号より抜粋
AERA 2018/02/25 11:30
コインチェックは「ハッキングしてくださいと言わんばかり」 専門家が指摘
コインチェックは「ハッキングしてくださいと言わんばかり」 専門家が指摘
記者会見で頭を下げるコインチェックの和田社長(左)ら。金融庁は業務改善命令に続き、2月2日には立ち入り検査に入った (c)朝日新聞社 仮想通貨を支えるのは、インターネット以来の革命的技術とも言われるブロックチェーン(※2)だ。不特定多数の利用者が直接つながり、取引記録を共有することで信頼性を担保できるため、中央銀行のような管理者(※1)を置く必要がなくなる(AERA 2018年2月12日号より)  仮想通貨取引所「コインチェック」(東京)から巨額の仮想通貨NEM(ネム)が不正流出した。仮想通貨イメージそのものにも大きく影響を与えたこの事件、問題点はどこにあったのか。  被害総額と、フィット感のないダークスーツ姿とのミスマッチが甚だしすぎる。27歳の和田晃一良(こういちろう)社長が率いる大手仮想通貨取引所「コインチェック」がハッキングによって時価総額580億円相当の仮想通貨「NEM」を盗まれたニュースは世界を駆け巡り、下落基調だった相場をさらに冷やした。しかし、同社のセキュリティーの甘さとは裏腹に、仮想通貨を支えるブロックチェーン技術の信頼性が知られるきっかけにもなったようだ。ここで見えてきたのは、米ロを中心とした次世代基軸通貨を巡る覇権争いだった。  埼玉県内の私立高校から東京工業大学に進学した経緯を、和田社長は自らのツイッターにこう綴っている。 「高校生のときは数学物理化学がめちゃくちゃ好きで常に勉強してました! その結果センター試験無しで数学の入試だけで東工大に入りました」  小学生時代から興味があったプログラミングの技術を伸ばし、大学在学中にはアプリ開発を手がけ、知人に誘われ大学を休学して「レジュプレス」を設立、体験投稿サイトを立ち上げた。ここで、のちに「ビリギャル」の題名で映画化された話などを書籍化して軌道に乗せ、2014年8月に仮想通貨取引業に乗り出し、昨年3月に社名を「コインチェック」に変更して急成長した。しかし、金融庁が昨年4月から始めた取引所登録制度で、同社の申請は認められなかった。「みなし業者」のまま、前代未聞の事件の当事者になったのだ。  仮想通貨を支えるのは、インターネット以来の革命的技術とも言われるブロックチェーンだ。不特定多数の利用者が直接つながり、取引記録を共有することで信頼性を担保できるため、中央銀行のような管理者を置く必要がなくなる。ブロックチェーン推進協会の平野洋一郎代表理事はこう指摘する。 「ブロックチェーンの取引履歴は誰もが見ることができ、流出したNEMの動きも把握できている。流出の原因はひとえにコインチェックの管理体制にある」  どこに問題があったのか。『アフター・ビットコイン』などの著書がある麗澤大学経済学部の中島真志教授はこう解説する。 「動かさない仮想通貨はネットと完全に切り離した『コールドウォレット』で管理すべきなのに、コインチェックはNEMに関してはネットに接続したままの『ホットウォレット』状態で管理していた。ハッキングしてくださいと言わんばかりです」  皮肉にもコインチェックの大塚雄介取締役は自著でこう書いている。 「全体を100とすると、そのうちの数%しかオンライン上に置かず、それ以外はインターネットから物理的に切り離して、オフライン環境で厳重に保護してあります。ゴールドと同じように金庫にしまっておけば、少なくともネット上で攻撃を受けても盗まれる心配はありません」  未登録ながら人気芸人を広告塔に派手なCM展開をしていたことも、利用者保護の観点からは疑問が残る。グループ会社が金融庁の登録を受けているフィスコデジタルアセットグループ代表取締役の田代昌之さんはこう言う。 「心証は良くないですね。本来ならシステムやガバナンスも段階的に全てうまく整備できて、登録が終わってからCMを打つのが筋でしょう。ただ今回の事件で、なかなか統合の話し合いが進まなかった業界2団体が危機感を覚えて、統合を検討して規制や管理についての自主ルール作りをしようという機運が出ています。雨降って地固まるになればいいのですが」  しかし、コインチェック事件は仮想通貨相場に大きく影響した。昨年200万円を突破したビットコインは100万円を大きく割り込むほど急落、他の仮想通貨も続落した。特に、米国発のソーシャル・ネットワーキングサービス(SNS)のFacebook(FB)が1月30日、仮想通貨と、仮想通貨を利用した「イニシャル・コイン・オファリング(ICO)」と呼ばれる資金調達方法に関連する金融商品やサービスの広告の禁止を発表したことが拍車を掛けた。 「誤解を招いたり、欺瞞的な宣伝活動に頻繁に関連する」ことを理由としているが、目的は定かでない。これについて、一般社団法人日露仮想通貨協会理事の油屋康さんはこう分析する。 「FBの経営者が米国のどのグループに属しているかが重要ですね。米国のエスタブリッシュメント層は、ビットコイン以降、雨後の筍のように出てきた仮想通貨群を将来的にはクラッシュして統合するのが一つの目的だと思います。基軸通貨の発行権争いはいつの時代にもありますが、通貨の中の通貨たる米ドルに相当する仮想通貨を掌握したいのでしょう」 (編集部・大平誠、澤田晃宏) ※AERA 2018年2月12日号より抜粋
AERA 2018/02/07 07:00
コインチェック「460億円補填」は本当に可能か
コインチェック「460億円補填」は本当に可能か
ユーザーが詰めかけ、大混乱となった東京・渋谷区にあるコインチェックの本社前(撮影・田中将介) 警察も出動した東京・渋谷区にあるコインチェックの本社前(撮影・田中将介)  1月26日、仮想通貨の大手取引所であるコインチェックは、日本円にして約580億円分の仮想通貨が不正に送金されたと発表した。過去最大規模となる今回の流出事件から、取引所のシステム不備や大金を生む取引所の収益構造など、熱狂する仮想通貨市場の盲点が浮き彫りになった。(「週刊ダイヤモンド」編集部 田上貴大)  仮想通貨取引所のコインチェックで、売買も出金もできなくなった──。  1月26日、インターネット上に溢れるこうした投稿を見て、30代の男性投資家は焦りを覚えた。自身がコインチェックに預けているのは、日本円にして約5000万円。居ても立ってもいられず、仕事が終わるとすぐに職場の埼玉県川口市からコインチェックの本社がある東京・渋谷に駆け付けた。  だが、本社前に投資家や報道陣、やじ馬が何十人も集まって騒然とする様子を目の当たりにして、事態の深刻さを痛感。その瞬間、「お金は返ってこないかもしれない」と覚悟を決めたという。  同日深夜、渦中のコインチェックは記者会見を開き、一連の騒動について説明。そこで明らかになったのは、日本円にして「約580億円に相当する仮想通貨が不正に送金された」(大塚雄介最高執行責任者)という流出被害だ。  仮想通貨といえば、ブロックチェーン(分散型台帳)を使った暗号技術によって、通貨としての安全性は盤石と言われてきた。その一方で、2014年に破綻したマウントゴックスに続き、大手取引所での不正流出が発覚した。その背景には何があるのか。  今回、不正送金の被害に遭ったのは、「NEM(ネム)」という仮想通貨。保有するネムの「ほぼ全額」(和田晃一良社長)が流出した。  無論、コインチェックは不正送金の被害者だ。しかし、その被害の原因とされているのが、同社の不十分なセキュリティー対策だ。  仮想通貨を購入すると、現金を財布に入れるのと同様に、専用の「ウォレット」と呼ばれるサーバーなどに保管する。これには、オンライン上で保管する「ホットウォレット」とインターネットから切断して保管する「コールドウォレット」の2種類がある。  当然、コールドウォレットの方が安全性は高いのだが、コインチェックは「技術的に難しく、人材が不足していた」(和田社長)という理由から、ネムをホットウォレットに保管。さらに、マルチシグネチャという複数の暗号鍵を用いることでセキュリティーを高める仕組みも導入していなかったのだ。  だが、ある取引所の社員は「仮想通貨をコールドウォレットに移す作業は難しくない」とその不手際を指摘する。また、取引所のビットポイントの小田玄紀社長は「ウォレットの種類以上に、サーバーのセキュリティーレベルを証券会社など金融機関と同等まで高めることが必要。クラウド型サーバーでは不十分。加えて24時間365日監視する態勢が最重要」と業界全体の底上げの必要性を説く。  システムの不備が露呈したコインチェックだが、同月28日には流出したネムの保有者26万人に、自己資金から日本円で約460億円を補填する方針を発表。30日深夜には、停止していた出金についても「数日中に見通しを知らせる」と再開の意思を示すなど、騒動の収拾に向けて前進し始めた。 ●取引高は4兆円も業界内で異論噴出 460億円の補填策  一見、資本金が1億円に満たないベンチャー企業であるコインチェックが、460億円もの現金を捻出するのは難しそうに思える。だが、ある取引所の幹部は「あり得ない数字ではない」と言う。  理由は大きく二つ。一つは、「国内ナンバーワン」をうたう取引高だ。1月に放映されたテレビ番組で、前出の大塚氏はその額を「月間で4兆円」と披露した。  もう一つが、同社の収益構造だ。仮想通貨の取引所は、株取引と同様に「指し値」「成り行き」の注文方式を用いて投資家同士で売買するものと、「成り行き」のみで胴元から直接購入する「販売所」と呼ばれるものの二つに大別される。  後者の販売所は、海外取引所から安く買った仮想通貨を投資家に高く売るため、その差額であるスプレッドが大きい。「(スマートフォンの)アプリ利用者数ナンバーワン」を自負するコインチェックは、アプリ内では販売所のみを展開しており、そこで大きく稼いでいると推測されるのだ。  その収益力を知ってのことか、買収の気配も漂いつつある。ある金融機関関係者は、コインチェックに近しい人物から「すでに証券会社やIT企業からアプローチを受けたと聞いた」と明かす。  一方で、業界内では稼ぐ力に異論も出ている。「そんなに補填に資金を回せるとは意外だ」。別の取引所の幹部も、460億円という金額に疑問を抱く。というのも、「コインチェックの利益は月に10億円ほどと聞いていた」からだ。  しかも補填の方針は出したが、時期は不透明。揚げ句には、「顧客対応も含め全ての説明が不十分」と金融庁が業務改善命令を出す始末だ。まずは、突き付けられた“不十分”を改善することが急務だろう。
ビットコイン
ダイヤモンド・オンライン 2018/02/05 00:00
星野仙一だけじゃない… 強力打線を手玉に取った「巨人キラー」
星野仙一だけじゃない… 強力打線を手玉に取った「巨人キラー」
 年明け4日に70歳で死去した星野仙一氏。中日、阪神、楽天の監督として計4度のリーグ優勝を果たした“闘将”であったが、現役時代には投手として巨人を相手に並々ならぬライバル心を燃やし、巨人戦勝利数歴代6位タイの通算35勝(31敗)を挙げた“巨人キラー”でもあった。改めて“燃える男”の冥福を祈るとともに、星野氏と同様に球界の盟主撃破に燃えた“巨人キラー”の投手たちについて語りたい。 ■平松政次(大洋) 星野氏より1学年下、同じ岡山県出身の名投手。プロ3年目の1969年に14勝を挙げると、翌70年には25勝を挙げて沢村賞投手となり、その後も長らく大洋のエースとして活躍した。そして、現役18年で通算201勝(196敗)を挙げたが、その4分の1に当たる51勝(47敗)を巨人戦でマーク。右打者の懐に食い込む“カミソリシュート”を強気に投げ込み、特に長嶋茂雄に対してはめっぽう強く、通算対戦打率.193に抑え込んだ。もともとは巨人ファンで、プロ入団時の背番号は長嶋への憧れで3番に。星野氏同様、巨人からドラフト指名されなかった悔しさを、プロ入り後に“巨人キラー”として見事に晴らした。 ■小林繁(阪神) 右アンダースローからの巧みな投球術で沢村賞を2度受賞した男。鳥取・由良育英高から全大丸に入社し、1971年のドラフト6位で巨人入り。76、77年と2年連続で18勝を挙げ、77年には沢村賞を受賞したが、78年オフに球界を揺るがした「江川事件」の余波を受けて阪神へ移籍した。プライドを大きく傷つけられる悲運のトレードとなったが、そのシーズン(79年)は巨人戦での登板を監督に直訴するなど並々ならぬ闘志でマウンドに上がり、巨人戦無傷の8連勝をマーク。22勝、防御率2.89の好成績で2年ぶり2度目の沢村賞を受賞した。 ■川口和久(広島) 鳥取生まれのサウスポー。鳥取城北高から社会人野球のデュプロを経てドラフト1位で広島入り。プロ3年目の1983年に先発ローテ入りを果たして15勝を挙げると、その後も威力抜群のクロスファイアーを武器に勝ち星を連ね、86年から91年までは6年連続での2ケタ勝利を達成した。家族の事情もあって巨人にFA移籍する94年までに、巨人戦で計33勝(31敗)をマーク。巨人から30勝以上を挙げた投手の中で勝ち越しているのは、星野、平松と川口の3人のみということからも、この男の価値が分かるだろう。 ■土肥義弘(横浜) 埼玉出身の左腕。春日部共栄高からプリンスホテルを経て、1997年のドラフト4位で西武に入団。リリーフとして実績を残した後、2004年に横浜にトレード移籍すると、同年7月に巨人から“1球勝利”を挙げて移籍後初勝利をマークした。そして翌05年に本格的に先発に転向すると、巨人戦で面白いように勝利を重ね、2ケタ10勝を挙げる活躍を披露。巨人戦だけを見ると、巨人戦初登板から8連勝で、05年は巨人戦7勝1敗の高勝率を誇った文句なしの“巨人キラー”だった。その一方で、他球団に対しては同年3勝10敗と極端な成績に終わっている。 ■能見篤史(阪神) 虎の現役左腕エース。鳥取城北高から大阪ガスを経て、自由獲得枠で阪神入り。プロ5年目の2009年に13勝を挙げると、同年から11年にかけて巨人戦8連勝をマーク。ストレートとフォークのコンビネーションで巨人打線から多くの三振を奪い、12年からは3年続けて巨人戦で完封勝利を記録した。ただ、14年以降はシーズントータルでの負け越しが続いた中、巨人戦でも打ち込まれる試合も目立っている。38歳で迎える新シーズンは、完全復活で再び“巨人キラー”ぶりを発揮してもらいたい。 ■岸孝之(楽天) プロ11年で計111勝を挙げている秀才右腕。宮城・名取北高から東北学院大を経て西武入り。2016年オフにFA宣言して楽天に移籍した。パ・リーグ所属のために巨人戦での登板自体は多くはないが、強烈だったのが西武時代の08年の巨人との日本シリーズ。巨人の2勝1敗で迎えた第4戦に先発して毎回奪三振での完封劇を披露すると、巨人の2勝3敗で迎えた第6戦では2番手で登板して5回2/3イニングを無失点に抑え、逆転日本一に大きく貢献し、シリーズMVPに選ばれた。楽天移籍後、昨季は巨人戦登板なし。今季の交流戦での対戦(6月5日~7日、東京ドーム)を楽しみにしたい。
dot. 2018/01/23 16:00
宮台真司「平成という時代は被害妄想と誇大妄想の泥沼」
上田耕司 上田耕司
宮台真司「平成という時代は被害妄想と誇大妄想の泥沼」
宮台真司(みやだい・しんじ)/59年生まれ。首都大学東京教授。小学生以下3児の父。2017年10月にAV監督二村ヒトシ氏との共著「どうすれば愛しあえるの」を、12月にイラスト満載の子育て指南書「ウンコのおじさん」を出版。元々は数理社会学者 オウム真理教の代表だった麻原彰晃(本名=松本智津夫)死刑囚 (c)朝日新聞社  最先端の若者文化や社会現象を鋭く指摘することで、脚光を浴びた社会学者宮台真司さん(首都大学東京教授)。平成の重大事件や震災などを手がかりに、社会の構造や問題点を読み解いてもらった。 ■コントロールすることで承認感覚を得たい  平成は「コントロール系」の男たちの怖さがあらわになった時代です。犯罪者の男たちに限らず、他人をコントロールすることで自分への承認感覚を得たいという欲望が強まりました。他人を支配したいのに支配できない。それで抑うつ的な不全感に陥った者の一部が、コントロール不全を埋め合わせる犯罪に向かいました。  自分がコントロールされるだけの存在だという劣等感を埋め合わせるために、弱い者を見つけてコントロールしたがる、という動きが進んだのです。そこから“ネトウヨ”も生まれたし、様々な犯罪さえ生まれました。  見栄えに気を使うのも、見掛けによって相手をコントロールすることで承認されたいという願望によるものです。平成29年(2017年)ユーキャン新語・流行語大賞に「インスタ映え」が選ばれたことが、今を象徴します。 ■一つ屋根の下のアカの他人から始まった  平成は、個人が分断されて孤立した時代です。平成の幕開け(1989年)に、家族にまつわる二つの大きな事件が起こります。一つ目は、3~4月に4人の少年が逮捕された東京・綾瀬の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。二つ目は、7月に宮崎勤元死刑囚が逮捕された「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」です。  二つは似ている。宮崎勤元死刑囚は、家の敷地のはなれで、遺体を解体した。綾瀬の事件では、階下に両親が住む家の2階で、女子高生を40日間暴行して死なせた。双方とも犯行が家族の近辺で行われています。「一つ屋根の下のアカの他人」がキーワードです。 ■糸が切れた少年集団犯罪と動機不可解な単独凶悪犯罪  実は予兆がありました。平成に入る7年前、1982年からワンルームマンション建設ラッシュになって各地で反対運動が起こりましたが、「単身世帯の孤立」と「地域共同体の空洞化」を象徴します。  続いて、組事務所撤去運動が起こります。地域と共生してきたヤクザが異物として忌み嫌われ始めたのです。昔は不良少年グループを地元ヤクザが“ケツモチ”して地域との共生の作法を教えましたが、ヤクザとの関係が薄れて「糸の切れた凧」のような少年集団犯罪の暴走が始まります。綾瀬コンクリート詰め事件はその結果でした。  他方、「東京・埼玉連続少女誘拐殺人事件」の方は動機不可解な単独凶悪犯罪の出発点です。以降、「酒鬼薔薇事件」に象徴されるような動機不可解な単独凶悪犯罪が、平成を通じて社会を揺るがすことになります。 ■エリートがこんなはずじゃなかった感からカルトへ  平成7年(95年)3月、オウム真理教の信者らによる「地下鉄サリン事件」が起きます。逮捕された教団幹部が医者や大学院生だった事実が衝撃でした。エリートのカルト犯罪も平成を象徴します。努力したのに自分はさして輝かず、人々も気にかけてくれない。高度成長期に生まれ育った世代の「こんなはずじゃなかった感」が背景にありました。  出発点は、80年代に「アウェアネス・トレーニング」(問題解決マネジメント)のブームでした。「人格改造セミナー」とも呼ばれます。自己像を支える無意識の言語プログラムを書き換える訓練のこと。70年代前半、ベトナム戦争の帰還兵が社会復帰に失敗して凶悪犯になるケースが続出したことに対処するためのセッションがルーツでした。  それが70年代後半にエグゼクティブ向けに展開する。競争を勝ち抜くには意志の力が強調されますが、意志はくじけがちなので、意志で抑え込んできた欲望の側を書き換えます。セッションを工夫すると「神の声」が聴こえたり「体が燃える」のを体験できたりします。免疫がない人は実際に起こったことだと思い込む。「神通力を使える教祖」の誕生です。  オウム真理教の事件の後、カルトを生み出す強力なアウェアネス・トレーニングは鳴りを潜めましたが、コーチングや自己啓発の名で今も生き残っています。自分が前向きになれないのは、自分の心に問題があるからだ」という「心理学化」も平成の特徴です。そこでは、社会に問題があって前向きになれない可能性が覆い隠されるのです。 ■酒鬼薔薇聖斗事件と秋葉原通り魔事件の違い  さて、平成9年(97年)に、14歳の少年Aによる酒鬼薔薇聖斗事件が神戸市で発生します。以降、数々の動機不可解な単独凶悪犯罪が連続し、人々を震え上がらせました。後にサイコパスの名で知られましたが、痛みを含めた人の感情を自分の心に映し出せない「同感能力を欠いた存在」が、社会に包摂されずに暴走したのだと考えられました。  平成20年(08年)6月の「秋葉原通り魔事件」も単独凶悪犯罪ですが、酒鬼薔薇事件や以降の類似事件とは動機構造が違う。犯人はネットで「どうでもいい存在=誰でもいい存在」として扱われたことへの復讐として殺人を思い立ちました。以降この種の「誰でもよかった殺人」が目立ち始めます。平成28年(16年)7月の「相模原障害者施設殺傷事件」や、平成29年(17年)10月の「座間9遺体事件」です。 ■コントロール不全の埋め合わせで殺戮(さつりく)するコントロール系の男  相模原と座間の両容疑者はともに90年まれで、両者とも美容整形していると報じられました。美容整形は、相手の心を見ずに自分の見栄えにこだわるコントロール志向の表れです。彼らが殺害したのは、相模原では重度障害者、座間では若い少女らという具合に、共通して「コントロール可能な弱者」を選んでいます。  他人を支配したいのに支配できない。その結果、抑うつ的な不全感に陥り、一部がコントロール不全を埋め合わせる犯罪に向かう……最初に話したパターンが見いだされます。こうしたコントロール志向は若い男たち全体の傾向です。コントロール志向が強すぎると挫折への恐れから男たちが性からの退却傾向を示します。  コントロール系の男には、女を理解しようとか幸せにしようというマインドはない。セックスにおいても、アダルト映像をなぞって「オレだってこんなこともできるぞ」という自己満足を得たがります。置き去りにされがちな女は、性からの退却傾向を示します。 ■実りなき社会で「ここではないどこか」を求めてボランティアへ  平成7年(95年)の阪神・淡路大震災ではボランティアがブームになりました。「地下鉄サリン事件」もこの年です。共通のキーワードは「ここではないどこか」。普段は存在が希薄な自分でも、どこかで非日常を経験すれば、生きていることを実感できるだろう……と。  平成23年(11年)の東日本大震災でもボランティアが活躍しましたが、そこで見られたのは「ここではないどこか」への志向ではなく、「この社会は続くのだろうか」という疑問でした。原発事故もさることながら、むしろ救援物資の奪い合いなどに見られる社会の劣化が、疑問を裏付ける形になりました。 ■愛よりカネの両親が正しさより損得の子を育てる  日本青少年研究所の国際比較調査(日米中韓)を見ると、日本には、一方で「自分は無価値だ」と思う若者がとても多く、他方で親を尊敬していない若者もすごく多い。各種の調査が共通して「女はカネがあれば結婚せず、カネがない女がカネがある男と結婚するので、カネがない男は結婚できない」ことも示しています。  カネで結びついた両親が、「愛と正しさがあれば立派に生きられる」と教えず、「勉強しないと負け組」「得をしたければ勉強しろ」と教えるのです。勝ち組が上位1割とすれば9割が自尊心を奪われるし、「愛と正しさ」を欠いた親は尊敬できません。  かくして「自分は無価値」と思う親を尊敬しない若者が、「正しさよりも損得」という生き方をします。若い世代ほど、就職率の高さや失業率の低さを理由に安倍政権を支持しているのは、それも背景にあるでしょう。 ■平成とは「分断と孤立」が招いた「被害妄想と誇大妄想」の時代  こうして、昭和末期の80年代に進んだ家族と地域の空洞化が、90年代に完成しました。人は、分断されて孤立すると、被害妄想と誇大妄想の“沼”にはまります。ルールを破った者を見つけて集団炎上する者や、排外主義的なネトウヨの増殖はその現れです。  かくして「行政は何をしている」と騒ぎ、自分の損得しか考えない人が、社会にのさばっています。共同体の崩壊を背景とする不安ゆえに「法の奴隷」と「カネの奴隷」が増殖したのが「平成」という時代でした。 (構成/本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2018/01/09 07:00
「体罰で脳の容積が減少」の調査結果…うつ病や問題行動の原因にも
島沢優子 島沢優子
「体罰で脳の容積が減少」の調査結果…うつ病や問題行動の原因にも
表彰状を破ったハンドボール部顧問教諭の処分について、日本スポーツ仲裁機構が仲裁判断の文書でつけた付言部分。学校関係者に向けて、暴力指導が起こる土壌を座視していなかったか「改めて認識してもらう必要がある」としている(撮影/写真部・片山菜緒子)  スポーツの世界で繰り返される指導者や年長者による暴力事件。礼節を重んじるはずの相撲の世界で起きた暴力事件の衝撃も、いまだ冷めない。暴力で本当に強くなるのか。子どもたちには未来にわたる影響がある。  埼玉県高校ハンドボールの新人戦。ある強豪校が決勝で惜敗、50代教諭がキャプテンが差し出した表彰状を生徒の前でビリビリ引き裂くという前代未聞の「事件」が起きた。鬼のような形相。生徒たちはうなだれるしかなかった。2016年秋のことだ。  教諭は後に「気合を入れるためだった」などと話したが、ハンドボール部員の男子生徒(17)は、本誌の取材に答えて当時の思いをこう語った。 「スポーツへの冒涜(ぼうとく)だと感じました。そのときは2位の力しかなかっただけのこと。なぜ破るのか理解できなかった。3位のチームにも申し訳ない」  この男子生徒は、男子ハンドボール日本代表元監督の酒巻清治さん(55)の長男だ。  この一件は、「賞状破りは指導か?」などの見出しで報道もされたが、「賞状破り」までに何があったのかは、あまり知られていない。  酒巻君によれば、部では暴力や暴言が蔓延していた。多くの部員の受け止め方は「自分たちが悪いからやられるんだ」。酒巻君自身は暴力はいけないことだと認識していたし、全国大会に行けば「体罰は許さない」の横断幕がかかる。スポーツ界全体が暴力根絶を目指していることも知っていた。 「それなのにどうして、先生は体罰を続けるんだろうと疑問だった。世の中で『ダメだ』と強く言われていることが、自分たちの身の回りで実際に起きていた」(酒巻君)  教諭は常に、誰かひとりをターゲットにした。棒で胸を突いたり、拳で殴ったり、蹴ったり。表彰状を破った新人戦の準決勝ではタイムアウト中、ひとりの生徒に「あとで覚えておけよ」と言い放ち、ハーフタイムになると体育館の隅に連れていって飲料の缶で頭を殴った。その後は、「俺がやると体罰になるから、おまえやれ」とキャプテンに暴力行為を命じたという。  暴言もひどかった。「人間の不良品」などと言っては生徒の人格を否定し、「めくら」「きちがい」などの言葉も頻繁に使った。酒巻君は言う。 「ミスすると怒鳴られる。言われ続けて萎縮してしまうから、選手はミスしていたと思う」  酒巻君自身が暴力を受けたことはない。現代表のチームマネジャーとして日本ハンドボール界の中枢にいる酒巻君の父を、意識していたのか。ただ、拳は飛んでこなくても、チームにいる当事者として暴力を止められない現実に苦しんだと酒巻君は言う。 「父が暴力を一掃したいと考えているのは知っていましたから」  葛藤は増すばかりだった。  賞状破りから3カ月後の今年2月、教諭の暴力や暴言を問題だと感じていた酒巻君の母が日本ハンドボール協会に実態を訴えた。協会の事情聴取に教諭は体罰を認め、6月上旬から9月まで3カ月間の活動停止が決まったが、保護者には、教諭や学校から処分の具体的な理由は明かされず、暴力やハラスメントに対する謝罪もなかった。  ところがその後、酒巻家を除く28の家庭の保護者が「体罰はなく、子どもたちはハラスメントとも感じていない」として教諭の処分取り消しを要求。日本スポーツ仲裁機構は、協会が実際に暴力を受けたとされる生徒の事情聴取をしなかったなど、調査手続きに瑕疵(かし)があったとして、処分期間が満了する前日にその処分を取り消した。  酒巻君の父・清治さんは憤る。 「これではハンドボール界は暴力やパワハラがまかり通ると感じる人もいるのではないか」  本誌の取材に協会は、 「調査の瑕疵については倫理委員会で今後調査し、必要があれば指導委員会に問題の受け渡しをする」  とコメント。学校はこう答えた。 「処分取り消しなんだから体罰はなかったということ。こちらからは調査などしていない」  スポーツ仲裁機構が処分取り消しの際に発表した「仲裁判断」の付言には、 「保護者会を中心とした『犯人捜し』や嘆願書作成が行われたのではと窺わせる異様な状況すら生じていることを踏まえると、申立人(編集部注=顧問教諭)においても、暴力的指導や体罰、ハラスメントを疑われるような強権的な指導、不適切な指導、いわゆる旧来の体質が抜け切れていなかった可能性も極めて高い」  とはっきり書いてあるのに、だ。    12年12月に大阪の高校で、バスケットボール部員が顧問の暴力やパワハラを理由に自死した。その際も遺族以外の親は「先生は悪くない」と顧問をかばった。それから5年。中高の運動部での指導者による暴力事件は収まる気配がない。  プロスポーツの世界でも、元横綱・日馬富士(33)がモンゴル出身の後輩・貴ノ岩(27)に暴力をふるい、傷害容疑で書類送検されたばかりだ。日馬富士は記者会見で「礼儀を正そうと思い行きすぎた」などと話し、暴力を「教育的な指導」ととらえていた。07年に17歳の力士が「かわいがり」の名のもとに集団暴行を受けて亡くなったことをどう受け止めているのだろう。  表出する事象を裏づけるように「体罰」という名の暴力を容認する人は多い。ヤフージャパンが17年10月に実施した体罰に関する意識調査では、「体罰はいかなる場合も認められない」と答えた人は2割。「体罰が認められる場合がある」が約8割を占めた。  その8割の人たちには思いもよらないであろうデータがある。『子どもの脳を傷つける親たち』の著書がある福井大学の友田明美教授(小児神経学)は、米ハーバード大学と共同で、子ども時代に体罰を受けた経験がある18~25歳の若者約1500人について、MRI(磁気共鳴断層撮影装置)を使って脳の変化を調べた。その結果、体罰により前頭前野の容積が平均19.1%減少することがわかった。 「30歳前後までゆっくり成熟する前頭前野の一部が壊されると、うつ病に類似した症状が出やすい。犯罪抑制力に関わる部位でもあるため素行障害という問題行動を起こす確率が高くなる。体罰を繰り返し受けている子どもたちは非行に走りやすくなるということです」(友田さん)  言葉の暴力が、視覚野や聴覚野を変形させることもわかった。 「暴言を浴びせられると言葉の理解力などが低下し、心因性難聴にもなりやすい。そういった慢性ストレスで傷ついた脳も、適切な治療を施せば回復することは可能です。ただ、ストレスを受け続ける期間が長ければ長いほど、影響があることを知ってほしい」(同)  前出のハンドボール部員の保護者は「本人が(暴力だと)思っていなければいいのではないか」と話したそうだ。だが、友田さんは断言する。 「暴力だと認識していなくても、お子さんの脳は悪い影響を受けます」  暴力や暴言は、生徒の未来にまでマイナスの影響を及ぼすということだ。食い止めるには、指導者こそが変わらなければならない。暴力根絶のために必要なのは、「コーチの育て直し」だ。  日本ラグビー協会コーチングディレクターの中竹竜二さん(44)は、コーチ育成の第一人者だ。ラグビー以外にプロ野球の横浜DeNAベイスターズやJリーグのチームからも依頼を受ける。「選手を成長させたいなら、まずコーチが成長しよう。コーチが変われば、選手が変わる」と指導者に呼びかける。中竹さんは言う。 「暴力を減らすことを目的にするのではなく、結果論として暴力が減っていけばいい。いい指導ができれば力でねじ伏せる必要はない」  カギは、選手の可能性を信じられるかどうか。 「信じられれば主体的に動く彼らを見守ることができる。それができないのは他者を信じられない人。裏返せば自分に自信がない人だ。愛情があれば暴力も暴言もOKなんて、今の時代は受け入れられない。暴力と認識される行為は絶対に許されない」(中竹さん)  コーチが子どもの可能性を信じたら強くなったという実例が12年に生徒が自死した大阪の高校バスケット界に存在する。12月23日開幕のウインターカップにも出場する大阪学院大学高校だ。実業団でプレーした後、04年から監督になった高橋渉さん(50)は、 「最初は選手のミスばかり責めていた。手が出ることもあった」  と振り返る。転機を迎えたのは、09年に初めて全国大会に出場したあとだ。10年もと意気込んだが、この年も翌年も全国行きを逃した。 「やり方を変えないと本当に強くはならないと感じた」(高橋さん)  試行錯誤するうちに、圧迫してやらせるのではなく、適切な練習法を丁寧に教えて意欲を引き出せば、生徒は自分の力で成長するのだと気づく。自分とは違う時代を生きる生徒が何を考えているのかを知ろうと、心理学の専門家の門もたたいた。怒鳴ることもやめた。チームは、12年からの6年間で5回、全国大会に出場した。  大阪学院と大阪府でしのぎを削る近畿大学附属高校も大森健史さん(43)が監督になってから、過去6年で8回全国大会出場。15年度のウインターカップではベスト8に進出した。  強豪校では異色の「日曜日完全オフ」を敷いている。 「僕自身、疲労とストレスで仕事や指導の精度が落ちていると感じていた。自分が疲れているんだから、生徒もそうだろう、と」(大森さん)  周囲から「ふざけるな」「弱くなるぞ」と非難囂々(ごうごう)だったが、大森さんはさらに年休制度までつくった。理由を添えて3日前までに申請すれば、年に10日間練習を休める。大森さんは言う。 「休む権利があるという意識を植え付けたかった。主体的に動ける人間でないと選手としても伸びませんから」  選手の立場でこれを実感したのが、冒頭の酒巻君だ。問題の教諭がベンチに入れなかった3カ月弱の間に、全国高校総体予選を自分たちで戦った。決勝は延長に突入、大接戦を制した。 「なぜ勝てたか? それはみんなが自分の意思でプレーしたからです」  この3カ月間を仲間と過ごせたことで得た学びは大きいと感じている。 「将来は、たくさん勉強して、選手を尊重できるいい指導者になりたい」  と酒巻君はほおを緩める。  古い手法を取り続ければ、コーチたちは職を追われるリスクを抱え続ける。暴力・暴言を捨て去ることは、コーチ自身が救われることにもなるのだ。(ライター・島沢優子) ※AERA 2017年12月25日号
AERA 2017/12/22 07:00
リニア不正入札、スパコン詐欺…安倍首相の財界「人脈」研究
リニア不正入札、スパコン詐欺…安倍首相の財界「人脈」研究
安倍晋三首相 (c)朝日新聞社 ケネディ米駐日大使(当時)のリニア視察に立ち会うJR東海の葛西名誉会長 (c)朝日新聞社  リニア中央新幹線をめぐる不正入札事件。東京地検特捜部は18日、公正取引委員会と共同で大手ゼネコンの鹿島と清水建設に家宅捜索に入った。特捜部は既に大林組の本社を偽計業務妨害の疑いでメスを入れているが、捜査の範囲を拡大し、実態解明を進め、事態は緊迫している。  大林組といえば、会長の大林剛郎氏は安倍首相と親交があり、11月19日に東京都内のホテルで行われた大林会長の親族の披露宴には、安倍首相も来賓として出席していた。  また発注側のJR東海といえば、安倍首相の後見人で財界ブレーンとして知られ、第1次安倍政権で教育再生会議のメンバーを務めた葛西敬之氏が代表取締役名誉会長を務める企業だ。  この少し前には、東京地検特捜部はスーパーコンピューター開発会社「ペジーコンピューティング」社長の斉藤元章容疑者らを国の助成金を不正に受け取った詐欺容疑で逮捕した。  この事件は、安倍首相に食い込み、『総理』(幻冬舎)の著書がある元TBS記者の山口敬之氏がペジー社の顧問を務めていたことで大きく注目されている。東京都心の超高級ホテルの住居棟にあった山口氏の事務所の家賃をペジー社が負担。また山口氏は斉藤容疑者が設立した財団の代表理事にも就任するなどズブズブの関係だった。  一連の特捜部の動きの意味は何なのか。元東京地検検事の郷原信郎弁護士がこう語る。 「リニアの件もスパコンの件も、その舞台となったJR東海、経済産業省なども捜査のターゲットに含まれる可能性があります。2010年に村木厚子元厚労事務次官の事件で大阪地検の証拠改ざんが発覚して以来、目立った成果のなかった特捜検察ですが、大きな利権構造に久々に切り込んだ点は注目すべきです。リニアの件については、偽計業務妨害罪での起訴のハードルは高く、相手が大手ゼネコンだけに捜査の展開は容易ではないと思えますが、今回の家宅捜索を入り口に大きな利権構造の全体像に迫ろうとする姿勢に期待したいと思います」  スパコンの案件では、斉藤容疑者と安倍政権の大物政治家との接点も浮かび上がってくる。中でも麻生太朗財務相は16年7月、ペジー社のスパコンが導入された理化学研究所(埼玉県和光市)の施設を視察。今年5月25日の参院財政金融委員会では、フィンテック導入の課題について問われた際に、自らペジー社と思われる名前を出してこう発言していた。 「コンピューターとかAIというものが発達すると、今、日本で今年も多分世界一になると思いますが、ペギー(議事録ママ。ペジーのことか)コンピューターというのが出てきました」  事件の構図を元経産官僚の古賀茂明氏がこう解説する。 「財務相が個別の案件について自ら視察に行ったり、国会で名前を出したりするのはかなり珍しいことで、官僚たちも意識していたはずです。経産省内では麻生氏の話は有名で、他に甘利明元経産相などとの関係も指摘されています。直接の指示の有無はわかりませんが、助成金を出すにあたり官僚側が何らかの忖度をした可能性が高い。森友・加計学園の問題と似た構図と言えるでしょう」 (本誌・小泉耕平) ※週刊朝日  2017年12月29日号より加筆
安倍政権
週刊朝日 2017/12/19 00:00
地域住民がお金を出し合って病院を設立… 徳洲会の光と影
地域住民がお金を出し合って病院を設立… 徳洲会の光と影
311床で職員数は約500人。ロビーは狭く、建物の老朽化が進んだため、2018年5月に新築移転する予定(撮影/山岡淳一郎)  団塊の世代が後期高齢者となる「2025年問題」に直面する日本。厚生労働省は「地域包括ケアシステム」を掲げ、自治体の尻を叩く。医療と介護などが連携した仕組みが求められる中、地域の住民が組合費を出し合ってつくった病院がある。ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏がレポートする。 *  *  *    東京都心から北へ約60キロ、羽生総合病院(311床、以下羽生病院)には診療開始前から患者が詰めかけていた。人口約5万5千人の埼玉県羽生市で総合病院はここだけだ。利根川の向こうの群馬県館林市からも患者が来る。年間約3千台の救急車を受け入れる。医療が手薄な地方都市の“命綱”である。  病院長の松本裕史(59)は、午前8時に各部門長の診療報告を受け、朝礼で短い指示を出した。続けて事務長と病院運営の打ち合わせを行う。  その間に訪問看護ステーションから連絡が入り、「僕が執刀した患者さんだから、往診に行くよ」と答えた。松本は院長、胸部・消化器外科医、さらに訪問診療医という三つの顔を持つ。 午前9時、診療開始。羽生病院の忙しい一日が幕をあける。松本は語る。 「院長として14年前に赴任して以来、手術も、往診もやってきました。病院で治療した患者さんを、退院後も介護ケア、在宅診療などで切れ目なくお世話する。当初から徳田虎雄前理事長が、そう方針を掲げ、実践してきました」  事実、羽生病院を中核に介護老人保健施設「あいの郷」、3カ所の「ふれあいクリニック」、介護支援センターなどがネットワークを形成。シームレスな医療、介護サービスを展開している。 ●青写真と現実のギャップ 難しい患者「情報」の共有化  近年、約650万人の団塊の世代が後期高齢者となる「2025年問題」がクローズアップされてきた。超高齢化社会への突入を前に、厚生労働省は「病院から地域へ」を掲げ、「地域包括ケアシステム」の構築を推奨する。  厚労省は中学校区程度の生活圏域で30分以内に住民が必要な医療、介護、生活支援を受けられる体制を整えるよう自治体の尻を叩く。羽生病院を基軸とする羽生市の取り組みは、地域包括ケアのモデル事例に入っている。  だが、官僚が描いた青写真と現実のギャップも横たわる。一例が患者の「情報」の共有化である。地域包括ケアの質は情報が左右する。ひとりの患者の病歴や治療、介護の情報が病院や診療所、介護施設などで共有されてこそ切れ目のないケアが可能となる。  けれども、カルテひとつとっても地域の診療所と病院が双方向で共有しているとは言い難い。松本が指摘する。 「たとえば救急の患者さんの場合、ふだんの血圧はどうか、糖尿ではないか、検査結果はどうか、かかりつけ医のデータがほしい。私たちのグループ内では、いち早く電子カルテで診療所や介護施設、在宅診療部門などと双方向ですべて共有し、必要に応じて取り出せるようにしました。でも他の開業医とはまだ難しい。情報の壁があります」  そもそも羽生病院は、厚労省の制度設計を追いかけて地域と結びついたのではない。住民のニーズに応えているうちに現在の形ができたようだ。  老健施設「あいの郷」は、羽生病院から車で5分のところにある。事務長の勇仁(いさみひとし)は「近さ」の利点をこう述べる。 「施設にはドクターが1人いますが、入所者さんの容体の急変にも十分、救急対応できます。羽生病院を退院して、こちらに入っている方もいます。病院との連携は大きいですね」  素朴な疑問が頭をもたげる。なぜ羽生病院は地域に密着できたのだろう。疑問を解く鍵は「出自」にある。じつは、羽生病院と関連施設の運営母体は、医療法人ではなく、「埼玉医療生活協同組合」である。地域住民が、お金を出して組合に加入し、運営する組織だ。  徳洲会は埼玉医療生協の立ち上げに深くかかわり、医療、介護事業を切り盛りしてきた。その来歴に地域密着のドラマが潜んでいる。話は、1980年代、医療生協設立前夜にさかのぼる。  82年2月、徳田は「早く、早く」と秘書に猛スピードで車を運転させ、羽生市内の集会をハシゴしていた。  羽生では交通事故で息子を亡くした父親が、「救急医療が実現すれば救える命がある」と総合病院の誘致に熱心だった。しかし、地元医師会の猛反対で、膠着状態が続く。徳洲会は住民側に医療生協の設立を提案し、若手職員数十人を羽生に送り込んだ。 ●抗う外部から招かれた院長 徳洲会からの独立もくろむ  若い職員は、研修所で雑魚寝の合宿をしながら、飛び込みで住民を訪ねて回る。病院建設の意図を説き、ひと口5千円の入会金を払って組合員になってほしいと「営業」をした。半信半疑の住民に「徳田が皆さまに説明をする準備会を開きますので、ぜひ、お越しください」とつなぎとめる。  そして、寒風吹きすさぶ日に市内十数カ所で車座集会が企画された。徳田は「急げ、急げ」と秘書に催促し、住民と対面して回ったのである。  行く先々で「貧乏人も金持ちも関係ない。生命だけは平等だ」と力説し、住民の心をつかんだ。医師会の反対を抑えて医療生協設立の機運が高まった。当時、若手職員を指導した埼玉医療生協専務理事、中川和喜は、住民を巻き込んだ活動の「副産物」について、こう回想する。 「いきなり見ず知らずのお宅を訪ねて、5千円出して医療生協に入ってくださいと頼むわけです。緊張しますよ。門前払いを食うのは当たり前。だけど病院をつくりたい。その思いが住民の皆さんに通じるのを徳田さんは見ていて、『これだっ』と選挙に出る腹を固めた。このやり方で選挙運動もやろう、と。ローラー作戦で一軒ずつ回って懐に飛び込む方法を見つけたんです」  約3万2千人の住民が出資して埼玉医療生協が創設された。医療生協なので徳洲会の名前は冠せられないが、医師である徳田の弟が理事長に就いた。弟は激情型の兄と違って温厚で、紳士然としていた。この弟が夭逝しなければ、徳洲会は違う組織になっていたのではないか、ともいわれる。  83年9月、関東の医療法人から院長を迎え、羽生病院が開院した。各科の医師は院長の人脈で集められる。病院は順調に滑り出したかに見えた。  ところが、「年中無休・24時間診療」「患者からはミカンひとつももらわない」という徳洲会のやり方に外部から招かれた院長は抗う。徳田のコントロールを脱し、独立しようともくろんだ。院長たちは母体の埼玉医療生協の幹部に徳洲会からの脱退をもちかける。  不穏な動きを察した徳田は羽生に急行した。医療生協の意思決定は、組合員の理事会で行われる。徳田は埼玉医療生協の理事会に乗り込み、 「徳洲会を取るか、現状の医者たちを取るか、はっきりしてほしい」  と、鬼の形相で迫った。 ●効力を発揮した議員バッジ 厚生省の対応が変わる  理事会は、医療生協の立ち上げをゼロから支えてきた徳洲会を選んだ。  院長以下、医師全員と事務方トップの専務理事は憤り、84年1月、一斉に辞めた。患者を抱えた病院で、医者が職場放棄したのだからたまらない。羽生病院は空中分解の危機に直面した。  徳田は徳洲会に入職して日の浅い医師を新しい院長に据える。岸和田、沖縄南部、茅ケ崎などのグループ病院から腕利きの医師を応援で送り込み、診療体制を維持した。羽生病院は、あわや内部崩壊の寸前で、踏みとどまる。その後、持ち直し、地域の中核病院に育った。経緯を知る中川は振り返る。 「住民の皆さんの資金で始まった病院ですから、絶対に潰してはならない。応援の医師、看護師、事務職員、必死でした。地域あっての病院、病院あっての地域。貴重な教訓を得ました」  徳田は、行政や医師会との闘いや、古いピラミッド型の医師組織との軋轢(あつれき)を経て、「政治力」の必要性を痛感する。自分が政治力をつければ反発を抑え、病院を建て続けられると読んだ。衆議院選挙に打って出る。83年、86年と落選するが、90年に三度目の正直で当選をはたす。羽生での住民運動は選挙活動の参考になった。  では、国会議員のバッジは、徳田の狙いどおり効力を発揮したのだろうか。徳洲会の元幹部(61)は、こう証言する。 「厚生省の対応が変わりました。徳田は保守系議員で、国政調査権を持っている。邪険にはできない。反感を買ったら昇進できない。役人は保身に入る。政治ってこんなものかと思いました」  当初、徳田は自民党入りを望んだがかなわず、政党の「自由連合」をこしらえる。政策の軸が定まらない自由連合に有力な政治家は集まらず、政党要件を満たすのが精一杯だった。  この自由連合に、徳田は莫大な政治資金を投じた。選挙では大勢の候補者を立て、徳洲会の関連会社を迂回させて巨額の融資を行う。選挙運動には病院の職員を大量に動員した。「政治とカネ」の歪みがたまっていく。  2002年、徳田は全身の筋力が衰える難病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。  羽生病院の現院長、松本は、徳田がALSの診断を受けて間もないころ、招聘の面接を受けている。群馬大学医学部出身の松本は、三井記念病院、国立がん研究センター、伊勢崎市民病院で経験を積み、徳洲会に招かれた。 ●解体の危機に瀕した徳洲会 徳田一族との関係を絶つ  ある夜、面接で東京・赤坂の徳洲会本部に出向いた。徳田はじめ職員が事務所の床に胡坐をかいて車座にすわり、餃子や春巻き、焼きそばと、料理店で買ったものを分け合って食べていた。 「おお、来たか、一緒に食おうって。びっくりしました(笑)。徳洲会独特、奄美の文化ですかねぇ。徳田さんは、じーっと私の目の奥をのぞきこんで、喋りました。あんな目で見られたのは初めてでした」と松本は述懐する。  2度目の面接で、松本は院長就任を受けた。すると、徳田はこう告げた。 「病院は任せる。好きなようにやれ。これまで僕は院長をクビにしたことはない。ただ、職員が院長をクビにすることはある。部下が、この院長にはついていけないと思ったらクビを切られる。だから、院長は人の3倍働かんといかん。仕事の量と質で勝て」  徳田の忠告はずしんと腹にこたえた。松本は、院長、外科執刀医、そして往診医、3足のわらじを履く決心をした。  地域に密着した羽生の医療は、松本にとって新鮮だった。地道に病院を運営し、新築移転が視野に入ってきた。  その矢先、「徳洲会事件」が起きた。徳田の次男の選挙運動にグループ病院の職員が数百人単位で動員され、あとで手当が支払われていた。公職選挙法違反で関係者10人が逮捕、起訴され、有罪が確定する。羽生病院からも職員が駆り出されていた。痛恨事であった。 「最終的に許可した私の責任です。選挙にかかわった職員は、警察の事情聴取や家宅捜索で、大変な負担と心の傷を抱え込みました。職員の前で、申し訳ない、もう二度と諸君にこんな思いはさせない、と謝りました」(松本)  解体の危機に瀕した徳洲会は、徳田一族との関係を断つ。いまも71病院、年商4201億円の規模を保っている(17年6月現在)。  日々、現場で医療に携わる松本には、釈然としない面が残っている。 「事件は収束したけど、首脳部にはケジメの記者会見を開いてほしかった。徳洲会は生まれ変わる、医療に専念すると社会的な宣言をしてもらいたかった。いまさらですが……」(同)  これは3万人超の徳洲会職員に共通する思いだろう。  羽生病院は、来年5月、車で6、7分の幹線道路沿いの広い敷地に新築移転する。地域包括ケアを進めたい厚労省は、病院の機能分化、地域連携を推す。だが、それは医療機関が多い都市型の発想にすぎず、医療過疎地にはなじまない。新しい羽生病院は、高度医療から慢性病への対応まで多機能集中型となる。松本は言う。 「機能分化しようにも他に大きな病院がない。高齢の患者さんを、何時間もかけて大学病院やがんセンターに通わせていいのか。新病院は、グループ病院とネットワークで結び、ドクターヘリで患者さんの移送も考えています」  医療は、現場での実践と制度の間を揺れ動きながら積み上げられていく。つなぐのは人であり、一朝一夕には築けないものだ。  徳田虎雄の歴史的評価にも、もう少し時間が必要なのかもしれない。(文中敬称略) (ノンフィクション作家・山岡淳一郎) ※AERA 2017年12月11日号
AERA 2017/12/11 07:00
徳洲会が日本最大グループになった背景 「異形の病院王」徳田虎雄の戦略
徳洲会が日本最大グループになった背景 「異形の病院王」徳田虎雄の戦略
 アサヒグラフ1972年6月2日号の特集記事「救急病院の素顔」。首都圏でも夜間や休日は救急患者の受け入れ先が見つからないことがあると報じている。写真は72年4月~6月合本版(撮影/写真部・片山菜緒子) 京都府と埼玉県では2倍以上の隔たりがある(AERA 2017年11月27日号より) 1984年12月ごろ撮影。徳田虎雄は、「年中無休」「24時間オープン」など、医療改革を掲げた (c)朝日新聞社 数年前、「政治とカネ」の問題で、多くの公職選挙法違反者を出した医療法人「徳洲会」。だが、いまなお日本最大の民間病院グループとして存在する。徳洲会を生んだ時代を、医療の側からノンフィクション作家・山岡淳一郎氏が3回に分けて読み解く。 *  *  *   医師の数は、地域によって大きな差がある。厚生労働省によると、人口10万人当たりの医師数で最多の京都府と最少の埼玉県の隔たりは2倍以上だ。  地方の医師不足の解消に向けて、厚労省は来年の通常国会に都道府県の権限を強める法案を提出する準備を進めている。憲法に「職業選択の自由」が謳われたなかで、いかに医師の偏りを均(なら)し、無医地区をなくしていくか。  医療過疎地への対応は官民挙げてのテーマである。超高齢化社会が到来したいま、この難題にどう向き合うか。そこで改めて徳田虎雄(79)が創業した徳洲会に焦点を当てたい。徳洲会はわざわざ医療空白地域に病院を建て、巨大化したグループなのである。  徳田は2000年代前半に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、全身不随になってからも文字盤を目で追う意思伝達法でグループを統率した。その姿から「異形の病院王」とも呼ばれる。いまは自力で瞼(まぶた)を開けられないほど病状が進行しているという。 ●人口集中と自由な病院開設が医療砂漠を産み落とす  数年前、徳洲会事件が起き、徳田一族の女性問題や「政治とカネ」のトラブルが露呈した。大勢の公職選挙法違反者を出した徳洲会は、傘下の医療法人の認定が取り消され、解体されるのではないか、とささやかれた。だが、徳洲会は徳田一族との関係を断ち、いまもグループの一体性を保っている。  その規模は群を抜く。病院数は71、診療所や介護、福祉系施設が145、職員数3万800人。1日の平均入院患者数1万7300人、外来患者数2万4千人。グループ全体の年商は、4201億円に上る(17年6月現在)。何が徳洲会を日本最大の民間病院グループに成長させたのか──。  時代は高度経済成長期にさかのぼる。1973年1月、大阪府松原市で徳田病院(当時70床、現松原徳洲会病院)が開院の日を迎えた。松原市は診療所数、病床不足率で大阪府下ワースト自治体だった。徳田病院の目の前は近鉄の線路が走り、車庫が連なる。人の住まない線路は空白の診療圏。常識的には病院経営には最悪の土地である。  ところが、徳田は逆の発想をした。「医療砂漠」と呼ばれる空白地帯だからこそ、患者が集まると確信していた。いざ、病院を開いてみると……。開院初日に公立病院から祝いの花束を持って駆けつけた看護師(73)は、こう語る。 「日が暮れて病院に行くと、電灯が煌々とついて、患者さんでごった返していました。待合室に入れない患者さんが狭い廊下に50人以上溢れていた。うわぁ、これはいかん、と白衣を借りて患者さんをさばきました。徳田先生は救急患者も断らなかったから、夜中も救急車のサイレンが鳴りっぱなし。野戦病院みたいでしたよ」  大都市圏にも医療砂漠は点在していた。背景には、医療の制度的支柱「自由開業医制」が横たわる。医師は、施設基準を満たせばどこでも病院を開設でき、診療科も自由に標榜できる。70年代には「医療計画」のしくみも発足しておらず、医師が好きなところに病院をオープンできた。  一方で、高度経済成長を追い風に都市に人口が集中する。都市計画は後手に回り、大規模な団地や宅地が近郊へ無秩序に拡大した。新興住宅地はインフラ整備が遅れ、なかなか病院が建たない。つまり都市への人口集中と自由な病院開設のギャップが、医療砂漠を産み落としていたのである。  その弊害は生死を分ける救急医療を直撃した。首都圏でも夜間や休日は救急患者の受け入れ先が見つからず、医療過疎地と同様の惨状を呈する。アサヒグラフ72年6月2日号の「救急病院の素顔」は、23区内で2年間に亡くなった交通事故被害者の追跡データ(東京消防庁)をもとにこう記す。 「千二百人の死亡者のうち、最初に収容された病院から六時間以内にその病状の治療に適した病院に適切に送られたのはわずかに三十七例三.三%しかなかった。しかもその半数近くは小病院から小病院への転送だった。開頭、開腹などの手術が行われたのは、中小病院では死亡者の一二%、総合病院では四二%と顕著な差をみせている」 ●「全部、受けよう」ナースやスタッフを鼓舞  大阪大学医学部を卒業し、麻酔医として立った徳田は、「患者さんが苦しんでいるのに、なんで救急車を断る。全部、受けよう。朝まで状態を診て、他に移してもええんや」とナースやスタッフを鼓舞して救急患者を受け入れる。75年に医療法人徳洲会を設立し、大阪府大東市に野崎病院(現野崎徳洲会病院)を開院した。「徳洲」とは徳田の故郷、奄美群島の「徳之島」を指す。  徳田は、小学3年のときに弟を病気で亡くしている。島の医師に往診を頼んだが、来てもらえず弟は死んだ。弟の死への「怒りと悲しみ」を度々口にし、医療過疎地の奄美群島に総合病院を建て、離島医療に貢献したいと唱える。その発想は医師偏在に視点を置くとマーケティングの理にかなっていた。  都市の医療砂漠は、自由に開業したい医師側の都合で生じたものだ。そこに暮らす住民は病院を渇望していた。潜在的な医療ニーズは高かったのだ。 ●借り入れが頼みの綱、徹底した低コスト主義  徳洲会は、医療の供給側ではなく、住民ニーズの側に立っていた。これは医療観のコペルニクス的転回をもたらし、スタートダッシュにつながる。  大阪府の岸和田市、八尾市、沖縄本島南部の東風平町(現八重瀬町)と徳洲会は用地を確保し、病院の建設を進める。資金面で打ち出の小槌を持っていたわけではない。金融機関からの借り入れが頼みの綱だった。それなのに次々と病院を建てられたのは「低コスト主義」を徹底していたからだ。  八尾徳洲会病院(現八尾徳洲会総合病院)と、ほぼ同時期に開院した埼玉県の越谷市立病院の建設費を比べると違いが明らかだ。どちらも当時約300床で、八尾病院の建設費は16億5千万円。越谷市立病院は69億7千万円。4倍以上の開きがある。  徳田は、低コストのカラクリをこう語っている。 「僕に言わせれば、市立病院は市民のためのものではなくて、働く職員のためということです。デラックスで広々とした院長室、副院長室、総婦長室、外科医長室……これらはことごとく、患者にとっては無縁の設備ですよ。これに比べて、僕たちは患者のために病院をつくるわけですから、副院長室、総婦長室なんてものは、最初からつくってないわけです。理事長室なんてものもありませんよ。僕が病院に行ったら、絶えず会議室にいるわけです。だから、(略)越谷市立病院の場合は、五十平方メートル(十五坪)に一床、僕たちの八尾病院は二十平方メートル(六坪)に一床です」(「現代」79年4月号)  徳田は白衣を脱いで理事長職に専念し、自伝『生命だけは平等だ わが徳洲会の戦い』(光文社)を出版する。マスメディアは徳田を医療の革命児ともてはやす。しかし徳田が脚光を浴びる裏で、徳洲会は難題に直面した。「医師の確保」に苦しんでいたのである。  当初、徳田は阪大医学部の先輩や同輩を招いて病院を立ち上げたが、「白い巨塔」といわれた大学病院はそうそう人材を派遣してはくれない。そこで白羽の矢を立てたのが「アメリカ帰り」の医師である。岸和田徳洲会病院の初代院長・山本智英、現徳洲会理事長の鈴木隆夫らアメリカで研鑽を積んだ医師たちを招聘したのだった。  現在、アメリカ帰りと聞けば、読者は「神の手」を持つカリスマ医師を連想するかもしれない。が、そのころ、アメリカ帰りの多くは「白い巨塔」の前で茫然と立ち尽くしていた。  大学病院は、いわゆる「医局講座制」というピラミッド構造で成り立っている。これは明治時代中期、帝国大学(現東京大学)がドイツを真似て取り入れたシステムだ。大学病院では診療科ごとに教授が頂点に立ち、助教授(現准教授)、講師、助手(現助教)を従え「医局」を束ねる。診療と教育の組織が一体化し、どちらも医局単位で行われた。 ●年中無休、24時間診療「アメリカなら当然」  その結果、閉鎖的で家父長主義的な医局ができあがる。教授の胸三寸で配下の医師の勤務先や序列が決まり、忠誠心が試される。医局は、医師を派遣する市中病院への影響力を強め、不満があれば引き揚げる。医局間の交流はなく、利権と結びついて権力闘争が展開される……。  そんな医局を飛び出してアメリカで修業した医師は、帰国しても力量にふさわしいポストを与えられなかった。  ある内分泌内科医(80)は、大学を卒業後、ロードアイランド州の病院で内科レジデント(泊まり込み医師)を務めた。心筋梗塞から糖尿病、食中毒とあらゆる患者を診て、月に15日の当直をこなす。地獄の2年間を終え、指導医の推薦で名門大学の病院に移る。臨床的医学者のトップクラスにランクされた。  名声が日本にも届き、出身大学の教授から「就職口の世話をする」と声がかかり、帰国した。ところが、である。 「ボスは僕の顔を見るなり、『外来の尿検査をやれ。嫌なら辞めろ』と言いました。だまし討ちにあったようなものです。『おまえは臨床の腕はいいかもしれんが、医局への貢献度が低い。なかなか入れない大学院もボイコットして米国に行った。けしからん』と、理屈も何もあったもんじゃない」  と、内分泌内科医はふり返る。彼は1年間、尿検査を担当した後、慢性病の研究センターに転じた。たまたま大学の同期が徳洲会の病院に勤めていて、臨床指導をしたのが縁で徳田と会う。 「日本の医療を変革したい。手伝ってほしい。古い世代には任せられない」と徳田は口説く。何度も足を運び、三顧の礼で迎えた。  内分泌内科医は「医師の仕事のやり方、臨床教育のデタラメさを変えましょう」と徳洲会に入った。  総じてアメリカで腕を磨いた医師は、向上心が旺盛で厳しい環境にも耐えている。何よりもタフだった。  別の血液内科医(79)は、ペンシルベニア州フィラデルフィアの医学センターでレジデント生活を経験した。1年目、英語が十分に話せなかった彼は、病理に回され、毎日、遺体の解剖を命じられた。ひとりで1体を受け持ち、主に胸部、腹部を開いて臓器を、必要に応じて脳や脊髄も取り出す。摘出した臓器は肉眼観察して写真に撮り、ホルマリンに漬ける。組織標本を作って顕微鏡で観察し、異常を調べる。カルテをまとめて解剖を終えると心身ともにくたくたになるが、指導医は、容赦なく「はい。次」と遺体を送ってきた。  夜を徹して解剖、また解剖。その後、一般内科に回り、メリーランド州の病院でICU(集中治療室)、CCU(心疾患集中治療室)を担当する。1日交代の当直を4カ月続け、やっと「奴隷」のような境遇を脱した。  3年目にチーフレジデントに昇格し、「人間らしい生活に戻れた」と言う。血液内科医はアメリカの内科専門医の資格も取得した。「このまま残って開業すればいい。稼げるのはこれからだ」と誘われるのを振り切って帰国。恩師の勧めで徳洲会に入職した。  血液内科医は、日米の医師の働き方の違いを、こう語る。 「私たちは検査重視の科学的な医療を仕込まれました。無駄な投薬、薬漬けはしない。大げさではなく、日本育ちの医者の2倍、3倍は働きましたね。年中無休、24時間診療もアメリカなら当然ですから」  徳洲会の基盤は、旧態依然とした日本の医療に辟易し、変革を求めるアメリカ帰りの医師が築いた。そこに「全共闘世代」が加わり、若い研修医を巻き込んで医師団が形成される。徳洲会は一種の社会運動体として医療過疎地に進出していった。  と、そこに既得権益集団がたちはだかる。医療界最大の圧力団体、医師会であった。(文中敬称略、以下次号)(ノンフィクション作家・山岡淳一郎) ※AERA AERA 2017年11月27日号
AERA 2017/11/27 07:00
サイゼリヤ、バイト女性「セクハラ」自殺の謎 詳細な日記が示すのは
サイゼリヤ、バイト女性「セクハラ」自殺の謎 詳細な日記が示すのは
取材に応じた実父は言った。「娘と同じ年頃の女性を見ると、急に涙が止まらなくなったりもするので、周囲からは危ない人に見えるかもしれません」(撮影/写真部・小山幸佑)  アルバイト先のファミリーレストラン「サイゼリヤ」の正社員を目標に、懸命に働いていた20代の女性が、3年ほど前、自ら命を絶った。何があったのか。 「許せないという感情とは、少し違う。でも、サイゼリヤでアルバイトを始めなければ、娘は間違いなくいまも生きていたでしょう。警察署の霊安室で見た眠るような顔を、忘れることができません」  職人らしい節くれだった手も、まぶたも、唇も、時折震えていた。20代前半だった娘の自殺から間もなく3年。50代に差し掛かった父親は、睡眠導入剤なしに眠れなくなった。  サイゼリヤは、埼玉県吉川市に本社を置き、関東を中心に国内外に1300店舗以上のファミリーレストランを展開する外食チェーン。その関東エリアの店で働いていた女性が、2014年12月、自室のベランダで命を絶った。 ●娘の真実を伝えたい  15年7月、前出の実父と実母、実母の夫で亡くなった女性の養父にあたる男性は、サイゼリヤと女性が勤務していた店の副店長らを相手に、計約9800万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。訴状で、女性が、既婚者で上司だった副店長に望まぬ性交渉を何度も強いられ、関係解消を求めたものの、「一緒に死のう」などと持ち掛けられて動揺、その翌日にロープを購入し自死に至った、サイゼリヤは副店長のセクハラ防止措置を講じず放置した、などと主張している。  これまで遺族がメディアに直接心情を吐露することはなかったが、11月29日の証人尋問を前に、「娘の真実を知ってほしい」と実父が取材に応じた。 「事件の後、1カ月ぐらい会社を休ませてもらって、明けて初出勤の電車の中で失禁してしまいました。立っていて自分では全く感覚がなかったんですが、周りがざわついて私から離れていって。床を見るとダラーッと小便が垂れていました」  その日は出勤をあきらめ、病院を受診した。 「自律神経がおかしくなって、脳と体の伝達がうまくいっていないと言われました。仕事はしていますが、電車が苦手になり、いまはなるべく早めに出て、途中で乗り降りを何回もして休み休み出勤しています」  実父と実母は一人娘だった女性が4歳のころに離婚。女性を引き取った実母は再婚し、弟が生まれた。実父も再婚して1女1男をもうけた。女性は二つの家庭を行き来して、弟2人と妹をかわいがった。 「私が望んだのですが、離婚後は娘は私を下の名前で呼ぶようになりました。行きがかり上、下の2人の子もそうなりましたが(笑)。娘は頻繁に遊びに来て、中学に入るまでは毎夏伊豆の白浜と、千葉の館山に旅行に行きました。泳ぐのが好きで、ボディーボードも上手でした」  勉強はあまり好きではなかったが、学習塾を経営する実父のいとこが、折にふれて面倒を見ていた。そのいとこが言う。 「彼女は絵が上手で、高校も美術系に進学したのですが、当時からコンビニエンスストアでバイトをしていて、そっちのほうが熱心でした。僕にも喜々として仕事の話をよくしていました」  高校卒業後、サイゼリヤでアルバイトを始めると、それにのめり込んでいるように見えた。 「専門学校も途中で辞めてしまいました。心配で3回ほど食事がてら様子を見に行きましたが、遅刻の多かった学生時代と打って変わって、自分の勤務時間の30分も前に店に入り仕事の準備を始めているのを見て、目標を見つけたんだとうれしくなりました」(実父のいとこ) ●詳細な日記が示すこと  しかし、女性が正社員を目指して「定時社員」になったころ、件の副店長が女性の教育係になる。定時社員とは、月平均労働時間が120時間以上の準社員。サイゼリヤでは資格者からのトレーニングを受けて等級を上げていき、年間30~40人が正社員に登用される。女性にとっては、副店長が昇級を左右する「資格者」だったということだ。  13年12月ごろ、女性は実母にこう打ち明けている。 「副店長の距離感がおかしい。近すぎる」  副店長には第1子が生まれたばかりだった。実母は陳述書の冒頭にこう記している。 《娘が遺してくれたものを読んだりするうちに、副店長氏にボディータッチを繰り返されたり、シフトを重ねられたり、抱きしめられたりするだけでなく、一人暮らしの自宅に頻繁に上がり込まれて何度も性交渉を強いられ、「死ねばいいんだよ」に代表される数々の暴言を浴びせられたり、気に入らないことをすると無視されたりするパワハラを受け、結果的にうつ病になっていたことがわかりました》 《亡くなる1週間前ごろから「おまえが離れたら俺は死ぬ」「一緒に死んであげるよ」などと詰め寄られ、困惑した娘が副店長氏によって自死へと追い込まれたこともわかりました》  実父が娘の訃報を知ったのは、実母からの電話だった。 「警察署から確認に来てほしいと前妻に連絡があり、私が同行しました。娘はいまにも起きそうなんだけど、おでこにおでこをゴツンてつけても冷たくて。立っていられなくなりました。腰が抜けるってこういうことなのかと初めてわかりました」  それから約1カ月後、実父とそのいとこ、実母、養父の4人は副店長と面会する機会を得たという。いとこが振り返る。 「副店長は泣いて真っ青で『ごめんなさい』とは言うものの、『自分がいなければ彼女はダメだった』『一緒に死のうと言うことで彼女は立ち直るんじゃないかと思った』とか不思議な言い訳を繰り返すばかりでした」  しかし、女性は日々の出来事を、詳細に日記に残していた。 「不倫とかするような人ならこんなに慕ってないけど、なんでこんなにすかれてるのか意味わからん」 「年に3回くらい、お前を本当に可愛いと思う神角度に出くわすんだけど、横なんだよな……って言い出して、横向いてみ?と言われ、やだっていったら、愛されたくないの?って言われた件。妻子持ちには愛されたくないだろ」 「ドンキ行って日用品を買うのに付いてきて、家までよく分からないっていってたら経路勝手に調べて付いてきた。勘弁してくれ。こええよ」  日記からは、半年以上も抵抗したが、副店長に何度もアパートに上がり込まれ、性交を強要されたことが読み取れる。 「ただの上司と部下の関係がよかった。師弟関係に戻りたいです。お願いします」  自死を選ぶ2カ月前の日記だ。しかし、副店長は応じなかった。実父は言う。 「娘にとっては初めての男性経験だった。普通の恋愛ならともかく、向こうに妻子がいて不倫だけは絶対にだめだと。それでも言い寄られ続けてそういう関係になってしまったことを後悔して、元の師弟関係に戻りたいと願う娘に『一緒に死のう』なんて、一番言ってはいけないことではないですか。誰か一人でも店のスタッフが本気で副店長に注意をしていてくれたらこんなことにならなかったはずです」 ●順番が納得できない  裁判では副店長の態度は一変。「訴訟記録の中に閲覧制限が多い」などの理由で被告側の書証は開示されなかったが、実父によると、心中を持ちかけたことを否定し、女性のほうが交際に積極的だったなどと証言しているという。事実確認などを求めた本誌へのサイゼリヤ広報の回答は、「係争中の事案であるためコメントを差し控えさせていただきます」だった。  女性の実父は社寺の建具や仏具を手がける職人だ。娘のための仏壇は人に任せたくない。 「部品は全部作ったんですが、どうしても組み立てられない。位牌も作ったのに出せない。線香一本上げる気になれないんです。死ぬ順番が、納得できない。娘には普通の恋愛をしてほしかった。彼氏ができたら紹介してもらって、酒の一杯でも飲みたかった」 (編集部・大平誠) ※AERA 2017年11月27日号
働き方
AERA 2017/11/20 16:00
低迷するフジテレビに新鉱脈 殺人ドキュメンタリーで高視聴率の裏側
ラリー遠田 ラリー遠田
低迷するフジテレビに新鉱脈 殺人ドキュメンタリーで高視聴率の裏側
 フジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』が大きな反響を巻き起こしている。10月15・22日に2週にわたって放送された「人殺しの息子と呼ばれて…」という企画だ。ここでは、日本中を震撼させた「北九州連続監禁殺人事件」の犯人の息子が初めてテレビの取材に応じ、インタビューに答えていた。15日に前編が放送されるとネット上で話題が広がり、22日の後編は「10.0%」という異例の高視聴率を叩き出した。  北九州連続監禁殺人事件とは、ある夫婦が被害者一家を暴力と脅迫で洗脳して、互いを殺し合わせて7人の死者を出した日本の犯罪史に残る凶悪事件である。  番組に出演したのは、事件当時10歳だった犯人夫婦の息子。彼は実の父と母の監視下に置かれ、電気を流されるなどの激しい虐待を受けていた。母親に包丁で背中を刺されたこともあった。事件が発覚すると犯人夫婦は逮捕され、息子は養護施設に預けられた。  学校では同級生に両親がいないことをからかわれて、思わず逆上して椅子を投げつけたこともあった。身寄りのいない彼の孤独はますます深まるばかりだった。16歳のときに養護施設を出て仕事を探し始めた。仕事はなかなか見つからず、職を転々とするようになった。  彼は、服役中の母親に20回以上も面会していた。母親に謝られるたびに、何とも言えないいらだちを感じていた。母親から「私が死ねばいい?」と尋ねられ、「苦しんで生きろ」と答えたこともあった。のちに死刑となった父親との面会では、最後まで謝罪の言葉を聞くことはできなかった。殺人犯の息子として世間の荒波に揉まれてきた彼は、現在、ひとつの希望を手にしている。それは後編の最後のパートで語られていた。  日本のテレビ局の中で、この手の硬派なドキュメンタリー番組に定評があるのは、やはりNHKである。NHKでは、1本のドキュメンタリー番組に費やされる制作費が民放よりもはるかに多い。日本各地に支局があり、それらと連携して取材に大量のスタッフを動員することもできる。長期にわたる密着ロケなどを行うことも可能だ。  一方、予算にも人員にも限りがある民放のドキュメンタリー番組はやや分が悪い。ただ、その中でも、フジテレビのドキュメンタリー番組には昔からの伝統がある。『ザ・ノンフィクション』は1995年に始まった。フジテレビの系列28局が主催する「FNSドキュメンタリー大賞」というコンテスト企画も、1992年から毎年行われている。  また、1989年に始まった『NONFIX』という不定期放送のドキュメンタリー番組も現在まで続いている。『NONFIX』は、民放としての制約に囚われない自由な番組作りに定評があり、のちに映画監督となった是枝裕和、森達也などの著名人が過去にディレクターを務めている。  ピアニストの佐村河内守を追った『FAKE』、オウム真理教に密着した『A』『A2』などの映画作品で知られる森達也は、『NONFIX』で超能力者をテーマにした「職業欄はエスパー」、放送禁止とされた歌を通してメディアの自主規制の問題を掘り下げた「放送禁止歌 ~唄っているのは誰?規制するのは誰?~」などを手がけた。これらの番組は評判になり、のちに書籍化もされている。  80年代後半から90年代前半のバブル全盛期には、バラエティとドラマが好調のフジテレビが全盛期を迎えていた。その勢いに助けられて、ドキュメンタリー番組の分野でも、ほかの局ではできないような実験的な企画やタブーに触れるような企画が次々に実現できたのではないだろうか。  今回の『ザ・ノンフィクション』の企画ができたきっかけは、過去に別の番組で北九州連続監禁殺人事件を取り上げた後に、スタッフのもとに犯人の息子から直接抗議の電話がかかってきたことだった。彼は、メディアによって事件のことが蒸し返されることに憤りを感じていた。  スタッフは彼の話をじっくり聞き、その言い分を受け止めた上で、彼に取材をさせてほしいという要求を出した。そして、今回の企画の実現に至ったのだ。彼は、本名と顔だけを伏せた状態で取材に応じ、彼自身の言葉によって、事件の真相や、彼がその後どう生きていたのか、ということが初めて明かされた。  電話を受けたスタッフが、やりとりを通して彼に信頼されていなければ、こんな番組を作ることはできなかっただろう。人間という生身の存在を扱うドキュメンタリー番組では、作り手の人間力が試される。  今回の番組が、日曜の昼間という時間帯にもかかわらず、高い視聴率を記録して、並びでトップを取ったというのはフジテレビにとって思わぬ朗報だろう。超高齢社会が訪れ、視聴者の高齢化もますます進んでいる中で、ガヤガヤと騒がしいバラエティ番組よりも、地に足のついたドキュメンタリー番組が見たい、という需要は高まっているはずだ。  実際、10月7日に放送されたドキュメンタリー仕立ての『衝撃スクープSP 30年目の真実~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤の肉声~』という番組も好評だった。これは「東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件」を扱ったもの。フジテレビの報道局が独占入手した犯人の肉声音源を再現ドラマに組み込んだ斬新な演出が話題になった。  フジテレビは、長く続く視聴率の低迷にあえいでいるが、独自の伝統があるドキュメンタリー番組の好調ぶりは、今後のための明るい材料だと言えるのではないだろうか。(ラリー遠田)
ラリー遠田
dot. 2017/10/28 11:30
【深ヨミ】アリアナ・グランデ、DL人気も獲得し“Hot Albums”首位に立ったベスト盤のセールス力を調査
【深ヨミ】アリアナ・グランデ、DL人気も獲得し“Hot Albums”首位に立ったベスト盤のセールス力を調査
【深ヨミ】アリアナ・グランデ、DL人気も獲得し“Hot Albums”首位に立ったベスト盤のセールス力を調査  10月9日付Billboard JAPAN週間アルバム・セールス・チャート“Top Albums Sales”で、アリアナ・グランデの初となるベスト・アルバム『ザ・ベスト』が24.764枚を売り上げて2位に入った。このアルバムは他にも、この度ローンチしたばかりのダウンロード・チャート“Download Albums”でも首位を獲得している。そして、これらの両セールスにルックアップ指標(CDの読み取り回数)を加えた総合アルバム・チャート“Hot Albums”でも見事首位に。K-POPやサントラを除いた海外アーティストの作品が総合アルバム首位を獲得するのは、2015年11月16日付のザ・ビートルズ『ザ・ビートルズ 1』以来となる快挙だ。  『ザ・ベスト』は、アリアナが半年以上にわたったワールド・ツアー【デンジャラス・ウーマン・ツアー】の来日公演を8月に行った際に発表したもの。日本限定リリースされた本作には、アリアナの日本デビュー・シングル「ベイビー・アイ」から、世界ダウンロード数500万のシングル「ブレイク・フリー feat. ゼッド」、世界63の国と地域のiTunesで1位を獲得した「プロブレム feat. イギー・アゼリア」、そして「美女と野獣」(アリアナ・グランデ&ジョン・レジェンド)なども収録されている。  今回のワールド・ツアーのタイトルにも据えられている『デンジャラス・ウーマン』はアリアナの3rdアルバムで、2016年5月に世界同時発売された。その『デンジャラス・ウーマン』の初週累計売上が10,484枚だったのに対し、『ザ・ベスト』は24,737枚と2倍以上のセールスを記録。この2作のセールス動向を比較するため、SoundScan Japanの都道府県別セールス・データから、初週における店舗売上の都道府県別トップ5をそれぞれ抽出した。 『デンジャラス・ウーマン』 1位:東京2位:愛知3位:神奈川4位:大阪5位:埼玉 『ザ・ベスト』 1位:東京2位:愛知3位:大阪4位:神奈川5位:福岡  『ザ・ベスト』では福岡がTOP5に入り主要5都市をすべて押さえたことで、本作のセールスがより全国的に広がったことが分かった。ベスト・アルバムということもあり、コアファンだけでなくライト層の購買意欲まで引き出した結果ともいえるし、前作『デンジャラス・ウーマン』や来日公演、また自身が主題歌を担当し、4月に公開されるやいなや日本でも大ヒットを記録した映画『美女と野獣』などの評判が、SNSを中心に口コミとして幅広いユーザーへ広がったことも推測できる。英マンチェスター公演で起きたテロ事件の辛い思いを乗り越え、ワールド・ツアーを完走したばかりアリアナだが、世界中や日本のファンの心に寄り添ってくれるその歌声を今後も伝え続けていってくれることを願いたい。
billboardnews 2017/10/10 00:00
田代まさしの“おじさん”住吉会西口総裁 厳戒体制で行われた「忍ぶ会」ルポ
上田耕司 上田耕司
田代まさしの“おじさん”住吉会西口総裁 厳戒体制で行われた「忍ぶ会」ルポ
「偲ぶ会」の周辺では、埼玉県警の捜査員が警戒した=埼玉県日高市(撮影・上田耕司) 西口総裁と親戚だったという田代まさし氏 (c)朝日新聞社  9月27日午前、埼玉県日高市のとある会館。暴力団員の車が次々と門をくぐり、その周辺では、「捜査」と記された腕章をし、防弾チョッキを身にまとった埼玉県警の警察官が十数人で警戒にあたっていた。午前11時ごろ、ずっしりとした鉄の門が閉まった。関東最大の指定暴力団・住吉会の西口茂男総裁(享年88)の「偲ぶ会」が始まった。 「警察が警戒にあたっているのは昔、ほかの火葬場で射殺事件があったこともあり、トラブルを警戒したのでしょう。当初は跡目争いを警戒していたが、どうやらすぐにはなさそうな雰囲気ですね。会長職を退いてからも、西口総裁のひとことでものごとが決まったりもした。だから、重鎮がいなくなったので、うちわもめはあるかも」(暴力団に詳しいジャーナリスト)  物々しい葬儀以上に話題になっているのが、元タレントの田代まさし氏が西口総裁と“親戚関係”にあることを告白していることだ。9月14日に都内で西口総裁の家族葬が営まれたが、弔問に訪れたとの情報が流れた。参列者はこう打ち明ける。「親戚なんです。総裁の奥さんのきょうだいの子供ですから」。田代氏はその2日前の12日のツイッターにこうつぶやいた。 「僕の大好きな叔父さんが昨夜亡くなりました。僕達兄妹を、おふくろが亡くなって以来自分の子供以上に面倒をみてくださった叔父さん!僕達兄妹は叔父さんの親戚でいれたたことをおふくろの妹である叔母さんに感謝するとともに、叔父さんのことを誇りに思って、これからも生きて行きます。合掌」(原文のまま)  ツイッターには田代氏とのツーショット写真が掲載されているが、警察関係者によると、田代氏の隣に写っている男性は西口総裁だという。田代氏が通う薬物依存症患者の自助組織「日本ダルク」本部に取材すると、「個人に関することには応じられません」と回答があった。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2017/09/27 00:00
韓国・済州だけじゃない! サッカー界で起こった前代未聞の『悪行列伝』
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韓国・済州だけじゃない! サッカー界で起こった前代未聞の『悪行列伝』
スアレス(右)は度重なる噛みつき行為で重い処分を下された(写真:Getty Images)  サッカーは格闘技という言葉もあるが、中には行き過ぎた暴力行為が生まれてしまうこともある。ここでは、サッカー界で生まれた数々の問題行為を取り上げてみたい。  前代未聞の行為としては、今年5月のAFCアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)で済州ユナイテッド(韓国)が浦和レッズに対して行ったものが記憶に新しい。ホーム&アウェー形式の第2戦は、浦和のホーム・埼玉スタジアムでトータルスコア2-2の延長戦にもつれ込んでいたが、そこで事件が起こった。  バックスタンド側で両チームの選手が小競り合いを起こした場面で、済州のベンチにいたDFペク・ドンギュがピッチを横断していくように70メートルほど走り込んで、浦和のMF阿部勇樹にジャンピングエルボーを見舞った。試合に出場していないビブスを着たままの選手がピッチに入ること自体がイエローカードの対象だが、もはやそういう次元の話ではない。当然、ペクにはレッドカードが提示されたが、あまりにも衝撃的なその行為は、試合後に済州の選手たちが浦和の選手たちに襲い掛かった場面と合わせて世界中で報道された。  また、韓国と並んでラフプレーが目立つとされる中国サッカーだが、日本人にとってその印象が鮮明になったのが2008年の東アジアカップでの出来事ではないだろうか。この時、前線の田代有三や中村憲剛、遠藤保仁に対しては、ボールを見ない足裏でのタックルが連発された。また、ゴール前に抜け出した安田理大は飛び出してきた相手GKから、人を蹴る意図があったとしか思えないような片足を伸ばしたジャンピングキックを胸に受けて悶絶した。ベンチの岡田武史監督が激怒するシーンも何度となく映し出され、中国サッカーには“カンフー・サッカー”という悪名が定着した。  Jリーグにも問題行為がなかったわけではない。2015年4月、鹿島アントラーズとサガン鳥栖が対戦したゲームで、鹿島の金崎夢生が左サイドから鳥栖のキム・ミンヒョクを抜き去ろうという場面で、金崎が倒れ込んだ。すると、あろうことか、キムは左足を金崎の顔面に向けて振り下ろして勢いよく踏みつけた。後にキムには4試合の出場停止が科されるが、当たり所次第では選手の日常生活に影響を与えるような大ケガにつながった可能性もある、Jリーグ史上ワーストとも言えるラフプレーだった。  ヨーロッパに目を向けると、“故意”のタックルで相手に大ケガをさせた元マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)のロイ・キーンが浮上する。  因縁が生まれたのは1997年のマンチェスター・ダービー。キーンがペナルティーエリア内にドリブルで侵入するも転倒したところで、マンチェスター・シティ(イングランド)のアルフ・インゲ・ハーランドから「大げさに倒れ込むな」という罵声を浴びた。しかし、実際のところ、キーンはこのプレーでひざの十字靭帯を損傷する重傷を負っていた。  すると4年後のダービーマッチで、キーンはハーランドの右ひざに向かって足の裏から突進。当然レッドカードが提示されるプレーで十字靭帯断裂の重傷を負わせ、後に出版された自伝で故意のプレーであることを示唆するような記述もされた。キーンはゴーストライターによるものであると否定したが、イングランドサッカー協会からは5試合の出場停止と罰金が科されている。  また、イングランドのジョーイ・バートンが演じた大立ち回りも、歴史に残るかもしれない。  そのキャリアの中で数々のラフプレーや問題行為を起こしてきたバートンだが、12年に当時所属のクイーンズ・パーク・レンジャーズ(QPR、イングランド)が最終戦でマンチェスター・シティと対戦した際に、ボールと関係ないところでカルロス・テベスにひじ打ちを入れて昏倒させた。そして、主審にレッドカードを提示された際に両チームがもみあいになったところで、シティのセルヒオ・アグエロを後ろから蹴り上げた。さらにバンサン・コンパニに頭突きを見舞い、関係者に引きずられるようにピッチから去った。  これにより、バートンは12試合出場停止。それも、移籍先のマルセイユ(フランス)でも処分継続という重いものになった。シティの優勝とQPRの残留が掛かった一戦だっただけに、レッドカードが珍しくない彼のキャリアの中でも、多くのサッカーファンの記憶に残るものとなった。  また、現在バルセロナ(スペイン)でプレーするルイス・スアレスによる3度にわたる“噛みつき”事件もサッカー界の問題行為として歴史に残る。スアレスの“初犯”はアヤックス(オランダ)時代の2010年、ライバルクラブ・PSVアイントホーフェンのオトマン・バッカルの左肩に噛みつき、7試合の出場停止処分を受けた。  移籍したリバプール(イングランド)でも13年にチェルシー(イングランド)の ブラニスラフ・イバノビッチの腕を噛んで、10試合の出場停止処分。さらに、ウルグアイ代表として出場した14年のブラジルワールドカップでは、イタリア代表のジョルジョ・キエッリーニの肩に噛みついた。試合中の噛みつき行為が3度目となることを国際サッカー連盟(FIFA)も問題視し、ウルグアイ代表として公式戦9試合出場停止、スタジアム入場禁止を含むサッカー関連活動の4カ月間禁止、さらに罰金という厳罰が下っている。  サッカースタジアムの熱狂的な雰囲気や、国同士、選手同士が持つ因縁から必要以上にヒートアップしてしまう場面は見られる。しかし、スポーツの枠を超えたレベルのラフプレーや問題行為は根絶されるべきだ。こうした、悪い意味で記憶に残るシーンが生まれなくなることを願いたいものだ。
dot. 2017/09/20 16:00
ネットで「カルおじ」と呼ばれたネコ虐待税理士の仕掛けた「罠」
ネットで「カルおじ」と呼ばれたネコ虐待税理士の仕掛けた「罠」
男の家の裏に置かれていた「餌」。どこにでもいそうな普通の人物が、底知れぬ闇を抱えていた  何が男を残虐行為に走らせたのか。  警視庁は8月29日までに、さいたま市見沼区の税理士の男(52)を動物愛護法違反の疑いで逮捕した。男は埼玉県深谷市の廃屋周辺で、鉄製のオリに閉じ込めた猫に熱湯を浴びせたり、ガスバーナーで焼くなどして殺した疑いが持たれている。男は行為を録画し、ネット上に投稿。匿名の掲示板サイト上の動物虐待マニアが集まるコミュニティーでは「カルおじ」と呼ばれ、もてはやされる有名人だった。  男は少なくとも13匹の猫に同様の行為をしたと認めているが「自分がしたことは有害動物の駆除で、法律違反とは考えていない」などと話しているという。  男は昨夏から、前代表の死去に伴い後継者を探していた埼玉県北本市内の税務会計事務所を継承して経営者となっていた。事務所の関係者がこう語る。 「税務署に長く勤め、5年ほど前に税理士資格をとり独立したそうです。そつなく仕事をこなし、先代からの顧客や部下からの信頼も築きつつあった。カメラが趣味とは言っていたが、おかしな兆候は何もなかった」  男には妻と子どもが2人いたという。2年前に見沼区に家を新築し家族で越してきたが、数カ月後に再び引っ越して以降、新居は事務所として男だけが通っていた。近所の男性が言う。 「おとなしそうな性格でしたが、実家でとれたタケノコを分けてくれるなど、普通に近所づきあいをしていた。そういえば昨年ごろ、温水器のパイプを野良猫に壊されたようで、それ以来、なぜか『餌』のようなものを近くに置いていた。『あれ何ですか』と近所の人が聞いても口ごもって答えなかったそうです」  男の家の裏にある温水器のパイプには猫が引っかいたような傷があり、カバーがはがれていた。周囲には「猫よけ」の剣山が敷かれ、肉のすり身やつくだ煮のようなものがプラスチックの容器に入れて今も置かれていた(写真)。猫をおびき寄せる「餌」だろうか。  動物愛護法に詳しい渋谷寛弁護士がこう語る。 「猫などをみだりに殺す行為は2年以下の懲役か200万円以下の罰金と定められていますが、過去の虐待死事件の判例を見ても初犯では執行猶予がついて実刑にならないことが多い。今後は厳罰化や、ネット上で犯行をあおった人にも幇助罪を適用するなどの対応も必要かもしれません」 (本誌・小泉耕平) ※週刊朝日 2017年9月15日号
週刊朝日 2017/09/11 11:30
アルバイト三昧の医局員 患者より医師の「生活」が優先されてしまう背景とは
上昌広 上昌広
アルバイト三昧の医局員 患者より医師の「生活」が優先されてしまう背景とは
首都圏の病院を襲う危機とは?(※写真はイメージ)  東京を中心に首都圏には多くの医学部があるにもかかわらず、医師不足が続いている。だが、現役の医師であり、東京大学医科学研究所を経て医療ガバナンス研究所を主宰する上昌広氏は、著書『病院は東京から破綻する』で、経営難に直面している病院についても警鐘を鳴らしている。首都圏の病院を襲う危機とは。 *  *  *  経営難に苦しむ首都圏の病院が、まず切り詰めるのが、医師の人件費です。  東京には医師数が多く、大学病院には教授や准教授を希望する医師も多くいます。供給が多ければ、価格は下がるという、経済原理が働きます。  東大医学部の後輩で、現在、都内の大学病院の准教授を務める40代の医師は「手取りは30万円台」と言います。彼の妻は専業主婦で、二人の子供がいます。家賃補助などの現物給付も微々たるものなので、彼はアルバイトに明け暮れています。毎週一日は都内のクリニックで外来、週末は当直です。これで月額50 万円程度稼いでいるようです。  月額50万円は、サラリーマンの平均から比べると高額ですが、彼は毎朝8時から午後11時くらいまで働いています。土日も出勤します。勤務時間と外科医という重圧を考えれば、就労環境は過酷です。  この私大病院は都内で最も経営状態がいいとされています。  確かに、極端なコストカットをすれば、短期的には収益は上がるでしょう。しかし、人材に投資しなければ医師は育ちません。医師が育たなければ、医療レベルは上がりません。  対照的に、福島県いわき市の常盤病院は人材に投資しています。著名な研究者を雇用し、若い医師の論文の指導を依頼しています。この研究者は医師ではないため、短期的には病院に一円の売上ももたらしません。しかし、若い医師は臨床で経験した問題を論文としてまとめ上げ、実力をつけていきます。また、医学者として重要な論文実績も積み上がります。  この病院には、多くの若い医師が勤務を希望するようになってきました。 ■医療事故を招きかねない  人材に投資しなければ、病院のレベルは上がりません。女医が増えた昨今、福利厚生が貧弱なまま、アルバイトに依存する生活を強いれば、優秀な人材は集められません。  前出の都内の大学病院の准教授を務める医師は、「昼間、病棟には研修医以外いません。スタッフは外来、手術、そしてアルバイトに行かないといけないからです」と言います。大学病院の病棟が無医村状態になっているのです。患者の治療が二の次になれば、被害を受けるのは、やはり患者です。  その象徴が、14年2月に東京女子医大で起こった医療事故です。頸部囊胞性リンパ管腫の硬化療法を受けた2歳の男児が、3日後に急性循環不全で亡くなりました。  その後の調査で、人工呼吸中の男児が暴れないよう、小児への使用が禁止されている麻酔薬プロポフォールを用いたことが原因と判明しました。成人用量の2・7倍も投与されていたそうです。東京女子医大が依頼した第三者委員会は「投与中止後すぐに人工透析をしていれば、男児の命は助かった可能性があった」と指摘しました。  東京女子医大では、小児に対するプロポフォールの過剰投与が常態化していたことも明らかになりました。13年末までの5年間、のべ63人に対し投与されていたそうです。病院側は、医療安全体制を見直し、15年2月6日には「平成26年2月に発生いたしました医療事故の件」という声明を発表しています。この中で、「法人組織での『医療安全管理部門』の設置」や「病院長直属の外部委員により構成する病院運営諮問委員会の新設」などの15項目を提言しています。  事態を重くみた厚労省は、東京女子医大の特定機能病院の承認を取り消しました。特定機能病院は、大学病院などの高度医療を提供する施設に対し、診療報酬が優遇される制度になっています。東京女子医大に厳罰を与え、医療事故の再発を防止しようとしています。  しかし、組織改革や厳罰では、医療事故はなくなりません。むしろ、東京女子医大のように特定機能認定を取り消せば、病院の医療安全体制は損なわれるでしょう。特定機能病院でなくなれば、益々、経営が悪化するからです。東京女子医大が発表した14年度の財務報告では、売上高利益率こそ1.4%と黒字ですが、収益の9.3%は補助金や交付金です。  東京女子医大ほどの名門病院のスタッフ医師が、普通に診療していれば、今回のような過剰投与は見落とさなかったのではないか。患者の安全性より「アルバイト」という医師の「生活」が優先されがちな背景があり、急変時の対応が後手にまわったのではと私は考えています。これは、組織論や職業倫理だけでは改善しない構造的な問題です。  東京女子医大に限らず、首都圏の私大病院の医療安全対策の最大の課題は「アルバイトの合間に診療する体制」だと私は考えています。経営がひっ迫すれば、医師の給与を下げ、かわりにアルバイトを許可しなければ、医師はやっていけません。悪循環です。  それを裏づけるように、首都圏の私大病院では医療事故が多発しています。社会の関心を集めた2000年代以降、首都圏の私大病院では埼玉医大抗がん剤過剰投与事件(00年)、東京女子医大人工心肺事件(01年)、慈恵医大青戸病院事件(02年)、東京女子医大麻酔薬過剰投与事件(14年)などが起こっています。貧すれば鈍するということでしょう。モラルを糾弾するだけではなく、医局員の立場に立った実効性のある対策が必要です。 ※『病院は東京から破綻する』から抜粋
朝日新聞出版の本病院
dot. 2017/09/08 07:00
自由恋愛で結ばれた眞子さま 新居の家賃は30~40万円?
自由恋愛で結ばれた眞子さま 新居の家賃は30~40万円?
眞子さま(c)朝日新聞社  ご両親と同じように同窓生との結婚の道を選んだ眞子さま。一般人として歩まれる今後の暮らしや収入、そしてお相手の小室圭さんの仕事はどうなるのか。  秋篠宮家の長女眞子さま(25)と小室圭さん(25)が婚約する運びとなった。  元華族でも、資産家の子息でもない。皇室に縁のある学習院出身でもない。過去に女性皇族が選んだお相手とはまるで異なる。  横浜市内のマンションに母親と祖父と3人で暮らす小室さんは、小学生のときに父親と死別した。そのとき、「僕がお母さんを守る」と決意を固めた。子どもの個性や意思を尊重し、慣習にとらわれず子育てをしてきた秋篠宮ご夫妻。その長女眞子さまが生涯を共にしようと選んだ相手は、そんな青年だ。 「家柄や肩書にとらわれない。目白キャンパスで出会ったご両親、秋篠宮ご夫妻の出会いをほうふつさせるような恋、まさに自由恋愛で結ばれたお二人です」  そう話すのは、皇室ジャーナリストの神田秀一氏だ。国際基督教大学(ICU)に通う二人が出会ったのは5年ほど前。眞子さまはすぐに英国での留学生活に入ったが、小室さんが英国を訪れたり、小室さんが住む横浜市や御用邸のある神奈川県葉山町、埼玉県長瀞町などでデートを重ねたりして、交際を深めたという。  そもそも、早い時期から交際を認めていたという秋篠宮家と小室さんは、いくつかの「ご縁」で結ばれている。 「両陛下が関係する企画展などは、長いこと日本橋の高島屋がなじみであるように、各宮家でもご縁のある業者がおります。秋篠宮家では公用車や移動用のミニバンに三菱系の自動車を愛用しておられます」(元宮内庁関係者)  秋篠宮家と親戚となる小室さんが大学卒業後に一時期勤めたのは、三菱東京UFJ銀行だ。しかもエリートが集まると言われる丸の内支店である。さらに、小室さんが勤務する奥野総合法律事務所の所長・奥野善彦氏は、公益財団法人「世界自然保護基金(WWF)ジャパン」の監事だ。秋篠宮さまが名誉総裁を務める団体である。 庁がお世話しながら、大手ディベロッパー数社から、新居となる物件情報を聞き取っているという。 「2DKの賃貸マンションで家賃は月30万~40万円台。上限は50万円。千代田、中央、港の都心3区を中心に、渋谷、品川、新宿、文京区も対象です」  前の3区ならば赤坂御用地や皇居、眞子さまや小室さんの職場に近い。渋谷区の表参道付近には常陸宮邸、目白には眞子さまが「ねえね」と慕った黒田清子(さやこ)さん夫妻のマンションがあり、心強いだろう。  皇室ジャーナリストの久能靖氏がこう指摘する。 「1963年には、天皇陛下の妹の島津貴子さんの誘拐未遂事件が起きていますので、何よりセキュリティーが重視されます。黒田清子さんはご結婚後も所轄警察署の警備がついていた。眞子さまの新居も、セキュリティーの高い物件を選ぶ必要があります」  皇室を離れる際には、皇室経済法の定めで「品位保持のため」一時金が支出される。天皇陛下の長女黒田清子さんの場合は1億5250万円が支出された。黒田夫妻が購入したマンションは1億円とも言われる。眞子さまの一時金も1億円を超えるとみられるが、二人ともまだ、経済的に盤石とは言い難い。  小室さんは現在、一橋大大学院国際企業戦略研究科に在籍する傍ら、昨夏から法律事務所に勤務し、翻訳業務などにあたる。 「弁護士業務を補助するパラリーガルとしても新人ですから、一般の基準に照らしても年収は300万円前後と推定されます。眞子さまは東京駅近くにある、東京大学総合研究博物館が運営するミュージアム『インターメディアテク』に勤務されています。週3日程度の非常勤の特任研究員で、同大の給与基準は240万円から1400万円と幅がありますが、そう高額ではないでしょう」(皇室記者)  皇族の親戚筋にあたる人物もこう本音を滲ませる。「ごくごく普通のご家庭の小室さんと、結婚後の価値観が合うのか。経済基盤もまだ十分ではない段階での婚約は、早すぎたのではないか」。旧華族の間でも同様だ。ある筋によれば、藤原氏の末裔が集まる「藤裔会」でも、そうした声が上がっているという。  小室さんは今年度で大学院を修了するが、小室さんの就職先を巡り、宮内庁や永田町周辺でこんな情報が流れている。安倍首相と親しい大学教授がこう話す。 「国際弁護士という報道もありましたが、皇族の親族にあたる人間が、生々しい金銭トラブルや訴訟を扱う職種はいかがなものかという見方も強い。国際法務関係の職を望む小室さんの意向に沿う形で、官僚OBらが国際機関への就職先を探しているというのです」  有力候補のひとつが、ODAを行うJICAだ。先の教授が続ける。 「海外勤務であれば、手当も厚い。お二人の生活も不安はないでしょう」  二人とも語学は堪能。前例や慣習にとらわれず、個と自己への責任を重んじる秋篠宮家だけに、海外で暮らす新しいスタイルもあるかもしれない。 ※週刊朝日  2017年9月15日号
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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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