AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL
大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第44回 『ラッシュ』オリジナル・サウンドトラック
第44回 『ラッシュ』オリジナル・サウンドトラック 1990年1月から2月にかけての、ロイヤル・アルバート・ホールでの連続公演を終えるとすぐ、エリック・クラプトンは『ジャーニーマン』をメイン・テーマとしたツアーを開始している。欧州各国や北米はもちろん、南米、豪州、東南アジアも回り、年末の日本公演がフィナーレという、大規模な世界ツアーだ。
第43回 『24ナイツ』エリック・クラプトン
第43回 『24ナイツ』エリック・クラプトン 1980年代が終わろうとしていた、そのぎりぎりの段階で、クラプトンは原点回帰を強く意識したものと思われるアルバム『ジャーニーマン』を発表している。そして、そこで得た手応えが、悲劇を乗り越える過程で、ある種の偶然にも助けられて手にすることとなる90年代の驚異的な成功につながっていく。そのことに関してはまた詳しく書くが、ちょっと視点を変えてみると、熱心なファンの方は誰もが、ある変化に気づいていたはずだ。当時の精神状態と大きく関わるものであったのか、40代後半の彼はあらためて髪を長く伸ばし、アルマーニやベルサーチのスーツを独特の感覚で着こなしてステージ立つことが多くなったのである。特注だったのか、贈物だったのか、なんとギターのストラップまでもが、ベルサーチ製だった。
第42回 『ジャーニーマン』エリック・クラプトン
第42回 『ジャーニーマン』エリック・クラプトン エリック・クラプトンと同じ1945年生まれのアーティスト、ニール・ヤングは、1989年の秋に《ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド》を発表している。同年春に実現した2度目の来日公演でも演奏され、発売前にもかかわらず、オーディエンスに強烈なインパクトを与えていた。80年代を通じて、ビジネス面でのトラブルも含めて「迷走」という印象を与えることの多かったニールの健在ぶりを示しただけではなく、いわゆるグランジ・ムーヴメントへとつながる、新しい時代の幕開けを告げた曲だ。
第40回 『オーガスト』エリック・クラプトン
第40回 『オーガスト』エリック・クラプトン 苦労して仕上げたアルバムにいわゆるダメだしをされるという、人生初の屈辱を味わい、外部からの意見を受け入れる形で仕上げた『ビハインド・ザ・サン』。いろいろな裏の事情はともかくとして、しかしそこでクラプトンは、ほぼ全編にわたってパワフルなギターとヴォーカルを聞かせていた。アルコール依存をほぼ克服できたことが大きく左右していたに違いない。修正作業を通じて、ジェリー・リン・ウィリアムスやネイザン・イーストなど、新しい音楽仲間とも出会った。
第39回 『ビハインド・ザ・サン』エリック・クラプトン
第39回 『ビハインド・ザ・サン』エリック・クラプトン 1980年代前半の、わずか数年のあいだに、ロックやポップスをめぐる状況は大きく変化している。激変という言葉を使ってもいいだろう。81年夏の、アメリカでのMTV放送開始と、82年のCD登場。この二つが、とりわけ大きな事件。並行して、楽器や録音機材のデジタル化も急速に進み、いわゆる「80年代の音」が主流となっていく。また、ミュージック・ビデオの出来や、ヴィジュアル・イメージが、レコードを売るための大切な要素と見なされるようになってしまったのだった。
第38回 『マネー・アンド・シガレッツ』エリック・クラプトン
第38回 『マネー・アンド・シガレッツ』エリック・クラプトン 1982年を迎えるとすぐ、エリック・クラプトンはミネソタ州の更生施設に向かい、アルコール依存症の治療を受けている。もちろん、これですぐ完全克服となったわけではないが、なんとか体調が回復すると、ツアーを再開。6月はほぼ連日のペースで全米各地を回っている。そしてそのあと、新たに設立した自身のレーベル、ダック・レコード(ディストリビューションはワーナー・ブラザーズ)からの初リリース作品を録音するため、トム・ダウドやゲイリー・ブルッカーらとコンパス・ポイントに向かったのだった。
第37回 『アナザー・ティケット』エリック・クラプトン
第37回 『アナザー・ティケット』エリック・クラプトン ライヴ・アルバム『ジャスト・ワン・ナイト』の発売(80年4月)と前後して、クラプトンは、ゲイリー・ブルッカーも含むイギリス人バンドとともに地元サリー州で新作のレコーディングを開始している。しかし、どうやら思うような結果が得られなかったようで、さらには、その直後に報せが届いたカール・レイドルの急死に強い衝撃を受けたこともあり、そこで残された音源は未発表のままに終わった。その後、カールへの想いも込めて新たに曲を書き下ろしたクラプトンは、ひさびさにトム・ダウドと合流し、7月から8月にかけて、バハマのコンパス・ポイント・スタジオで、アルバムを仕上げている。長く在籍してきたポリドール・グループからの最後の作品ということになる『アナザー・ティケット』だ。
第36回 『ジャスト・ワン・ナイト』エリック・クラプトン
第36回 『ジャスト・ワン・ナイト』エリック・クラプトン 1979年6月24日、ワシントン州シアトルで行なわれたエリック・クラプトンのコンサートは、カール・レイドルを中心にしたアメリカ人バンドと彼にとって、最後の公式ステージとなった。このあとクラプトンは、プロコル・ハルムのゲイリー・ブルッカーが彼の自宅からも近いサリー州フォレストグリーンで経営していたパブ、ザ・パロット・インに入り浸るようになる。おそらく毎晩、表現は悪いが、酒を浴びるように飲みながらのジャム・セッションを楽しんだ。
第35回 『バックレス』エリック・クラプトン
第35回 『バックレス』エリック・クラプトン すでに何度か書いてきたことだが、1974年の春以降、エリック・クラプトンは、オクラホマ州出身のベース奏者カール・レイドルを中心にしたアメリカ人バンドと活動をともにしてきた。彼らに支えられて復活をはたし、彼らとのレコーディングやツアーを通じてあらためて自信を深めた。そういってもいいだろう。

特集special feature

    この人と一緒に考える

    カテゴリから探す