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大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第34回 『スローハンド』エリック・クラプトン
第34回 『スローハンド』エリック・クラプトン 1977年4月、32歳のエリック・クラプトンは、20日から29日まで、マンチェスターやグラスゴウ、ロンドンでコンサートを行ない、その勢いのまま、新作録音のため、オリンピック・スタジオに入っている。プロデュースを依頼したのは、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンなどイギリスの大物アーティストたちから絶大な信頼を集めていたグリン・ジョンズ。
第33回 『ザ・ラスト・ワルツ』ザ・バンド ほか
第33回 『ザ・ラスト・ワルツ』ザ・バンド ほか ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ボブ・ディランらの協力を得てアルバム『ノー・リーズン・トゥ・クライ』を完成させたエリック・クラプトンは、その発表から3カ月後ということになる1976年11月25日(感謝祭)、サンフランシスコのウィンターランド・ボールルームで開催されたザ・バンドのフェアウェル・コンサートに招かれている。『ザ・ラスト・ワルツ』だ。
第32回 『ノー・リーズン・トゥ・クライ』エリック・クラプトン
第32回 『ノー・リーズン・トゥ・クライ』エリック・クラプトン このweb連載でもすでに何度か触れてきたことだが、エリック・クラプトンは20代前半のころから、ロビー・ロバートソンを中心としたほぼ同世代のグループ、ザ・バンドを強く意識しつづけてきた。衝き動かされてきた、といってもいいだろう。クリーム解散の引き金となったのは、ザ・バンドの最初のアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』だったし、のちに、「彼らは私の人生を変えた」とまで語っている(ボブ・ディラン30周年記念コンサートでの紹介トーク)。メンバーに加えてほしいという想いを抱え、ウッドストックに彼らを訪ねたことすらあったというのだ。
第31回 『安息の地を求めて』エリック・クラプトン
第31回 『安息の地を求めて』エリック・クラプトン 1974年6月にスタートしたエリック・クラプトンの復活ツアーは、同年秋に実現した初来日公演のあと、翌年、ふたたび全米各地を回り、2回目の来日公演(10月22日から11月2日にかけて、計7回)で幕を閉じた。この間に彼はミュージシャン/シンガー/バンド・リーダーとしての自信と感覚を完全に取り戻し、また、ジョージ・ハリスンのもとを去ったパティと行動をともにするようになっている。その一方で、なんとか断ち切ったドラッグに代わって、アルコールの問題が深刻になっていった。依存という意識はなかったのかもしれないが、24時間、酒が抜けることがなく、1日にブランデーを3本などということも珍しくなかったそうだ。
第30回 『ライヴ』エリック・クラプトン
第30回 『ライヴ』エリック・クラプトン 『461オーシャン・ブールヴァード』の録音を終えるとすぐ、エリック・クラプトンはライヴ活動を再開している。アルバムの仕上げは、全幅の信頼を寄せていたプロデューサー、トム・ダウドに任せ、ベース奏者カール・レイドルを中心にしたアメリカ人バンドとともに、ツアーに出たのだ。当時は、レコーディングにしてもライヴにしても、まだリハビリ中という意識だったと語っていたが、そういった効果も含めて、一刻も早くステージでの感触を確かめたかったのだろう。
第29回 『461オーシャン・ブールヴァード』エリック・クラプトン
第29回 『461オーシャン・ブールヴァード』エリック・クラプトン 1973年1月、友人たちに支えられ、約1年半ぶりに本格的なライヴを行なったエリック・クラプトン。のちに『レインボウ・コンサート』のタイトルでアルバム化されたこのライヴのあと、28回目の誕生日を迎えた彼は、なんとか薬物依存の闇から抜け出し、翌年春、マイアミのクライテリア・スタジオに向かった。あの『レイラ』を録音したスタジオである。
第28回 『レインボー・コンサート』エリック・クラプトン
第28回 『レインボー・コンサート』エリック・クラプトン 1971年夏のコンサート・フォー・バングラデシュへの参加と、同年末のリオン・ラッセルのコンサートへのゲスト出演を最後に、エリック・クラプトンはファンや熱心な信奉者たちだけではなく、音楽仲間のサークルからも、完全に距離を置いてしまう。この間に、ドゥエイン・オールマンも急逝していた。そして翌72年の春、彼は27回目の誕生日を迎える。27歳は、ロバート・ジョンソンとジミ・ヘンドリックスがこの世を去った年齢だ。
第27回 『コンサート・フォー・バングラデシュ』ジョージ・ハリスン & フレンズ
第27回 『コンサート・フォー・バングラデシュ』ジョージ・ハリスン & フレンズ 1971年8月1日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたコンサート・フォー・バングラデシュ(14時半開演と20時開演の2回)は、ロック界初の本格的なベネフィット・コンサートとして、歴史にその名をとどめてきた。提唱者はジョージ・ハリスン。ビートルズ時代後期からインドの音楽、文化、哲学に深く傾倒するようになった彼は、尊敬する音楽家ラヴィ・シャンカールから相談と依頼を受け、独立戦争の余波が原因で深刻な飢餓に苦しむバングラデシュの難民を救済するための音楽イベントを企画したのだった。
第26回 『ザ・ジョニー・キャッシュ・ショウ』ジョニー・キャッシュ、デレク&ザ・ドミノスほか
第26回 『ザ・ジョニー・キャッシュ・ショウ』ジョニー・キャッシュ、デレク&ザ・ドミノスほか 1970年10月15日から12月6日まで米国各地を回ったデレク&ザ・ドミノスは、その途中の11月初旬、「カントリー・ミュージックの都」テネシー州ナッシュビルに立ち寄っている。目的は、ジョニー・キャッシュのテレビ番組への出演だった(収録のみで、放送は翌年年明け)。
第25回 『イン・コンサート』デレク&ザ・ドミノス
第25回 『イン・コンサート』デレク&ザ・ドミノス 『レイラ・アンド・アザー・アソーテッド・ラヴ・ソングズ』のレコーディングを終えるとデレク&ザ・ドミノスは、仕上げはトム・ダウドに任せ、ツアーを開始している。1970年9月23日、イングランド南東部のイースト・サセックスからスタートしたこのツアーは、ほぼ毎日ステージに立つペースで10月11日まで英国、10月15日から12月6日まで米国各地を回るというもの。アルバムの発売は11月だったので、クラプトンが望んでいたとおり彼らは、一般的なイメージとしては正体不明のバンドとしてツアーをつづけたことになるわけだ。実際、クラプトンの新プロジェクトへの関心はそれほど高まらなかったようで、危機感を覚えた発売元は、正確な時期はわからないが、「デレク・イズ・エリック」とプリントされたバッジをつくったりしている。

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