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大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第24回 『いとしのレイラ』デレク&ザ・ドミノス
第24回 『いとしのレイラ』デレク&ザ・ドミノス エリック・クラプトンがボビー・ホイットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンと組んだバンド、デレク&ザ・ドミノスのアルバム録音は1970年8月下旬にスタートしている。クラプトン/ホイットロックが共作した《アイ・ルックド・アウェイ》、《キープ・オン・グロウイング》、クラプトンが1人で書き上げた《ベル・ボトム・ブルース》のベーシック・トラックをこの4人だけで仕上げた段階で、すでに書いたとおり、ドゥエイン・オールマンが準メンバーとして参加。奇跡的なケミストリーが生まれ、マイアミでのセッションは一気に熱を帯びていくこととなる。時代の流れとして、大量のマリファナやコケイン、アルコールに支えられてという面も無視できないわけだが、ともかく彼らは、わずか10日余りで(オーヴァーダブを除く)、歴史に名を残す2枚組の大作を仕上げてしまったのだった。
第22回 『オール・シングズ・マスト・パス』ジョージ・ハリスン
第22回 『オール・シングズ・マスト・パス』ジョージ・ハリスン 1970年春、エリック・クラプトンはアメリカからやって来たボビー・ホイットロックとともに、ロンドン郊外の館ハートウッド・エッジでジャムを重ねていた。曲もいくつか自然発生的に仕上がっていく。それはいずれも、親友の妻パティ・ハリスンへの強い想いが通奏低音のように流れるものだった。
第21回 『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』ハウリン・ウルフ、エリック・クラプトンほか
第21回 『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』ハウリン・ウルフ、エリック・クラプトンほか アルバム『エリック・クラプトン』の録音が終了したころから、ディレイニー&ボニー&フレンズは自然崩壊の方向に進んでいった。クラプトンの心をとらえたオーガニックな音とは裏腹に、ディレイニーには専政君主的なところがあったらしく、優秀なメンバーがつぎつぎとに離れていったのだ。カール・レイドルとジム・ゴードン、ボビー・キーズ、ジム・プライス、リタ・クーリッジは、リオン・ラッセルに誘われてジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』ツアーに参加。キーボード/ヴォーカルのボビー・ホイットロックは片道航空券だけを買ってロンドンに向かい(スティーヴ・クロッパーの勧めもあったとか)、3歳上のギタリストが暮らす館に転がり込む。
第20回 『エリック・クラプトン』エリック・クラプトン
第20回 『エリック・クラプトン』エリック・クラプトン 2007年に刊行された自叙伝でエリック・クラプトンは、「ディレイニー&ボニーと出会わなければ、ブラインド・フェイスが短命に終わることもなかった」といった意味のことを書いている。彼らから受けた刺激は、クリーム解散を決意させたザ・バンドの代替物的存在という意識がどこかにあったかもしれないけれど、それほど大きかったということだろう。
第19回 『オン・ツアーwithエリック・クラプトン』ディレイニー&ボニー&フレンズwithエリック・クラプトン
第19回 『オン・ツアーwithエリック・クラプトン』ディレイニー&ボニー&フレンズwithエリック・クラプトン ジョン・レノンのバックでギターを弾いたトロント・ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァル(69年9月13日)のあとの動きは慌ただしい。翌日ロンドンに戻ったクラプトンは、9月30日にアビィーロード・スタジオで行なわれた《コールド・ターキー》のスタジオ録音に呼ばれるのだが、その直前から10月初旬にかけてロサンゼルスで録音されたディレイニー&ボニーのシングルにも彼は参加している。A面は、ブラムレット/クラプトンの共作で、おそらくブラインド・フェイスのツアー中に書かれたものと思われる《カミン・ホーム》。B面は、リオン・ラッセルとボニー・ブラムレットが書いた《グルーピー(スーパースター)》。どちらの曲でも、クラプトンはメンバーの一人という立場に徹し、オーガニックなアンサンブルのなかに溶け込んでいる。曲づくりやアレンジ、録音スタイルも含めて、このセッションが70年代以降のソロ活動と出発点ととらえていいだろう。
第18回 『平和の祈りを込めて~ライヴ・イン・トロント1969~』ザ・プラスティック・オノ・バンド、ジョン・レノン、 ヨーコ・オノ
第18回 『平和の祈りを込めて~ライヴ・イン・トロント1969~』ザ・プラスティック・オノ・バンド、ジョン・レノン、 ヨーコ・オノ 1969年6月7日、ブラインド・フェイスは、アルバム発表を前にして、ロンドンのハイドパークでフリー・コンサートを行ない、正式にその第一歩を踏み出している。その後、北欧で数回ステージに立ち、7月11日から8月24日にかけて全米ツアーを行なった。計24回、会場はアリーナ級中心で、スタジアムも含む大規模なツアーだ。すでに書いたとおり、この間にクラプトンが抱いていた不安は現実のものとなり、バンドは呆気なく崩壊。彼は、前座についていたディレイニー&ボニーに惹かれ、しばらくメンバーとして行動をともにすることとなるわけだが、その前に、短期間ながら、注目すべきプロジェクトに参加していた。ジョン・レノン/ヨーコ・オノのザ・プラスティック・オノ・バンドだ。
第17回 『スーパー・ジャイアンツ』ブラインド・フェイス
第17回 『スーパー・ジャイアンツ』ブラインド・フェイス 『ロックンロール・サーカス』収録のすぐあと、エリック・クラプトンは、それまで暮らしていたチェルシー地区のフラットを出て(芸術関係者が多く暮らすその建物自体がドラッグ絡みで警察から目をつけられたため、出ざるを得なかったらしい)、故郷リプリーからも遠くないユーハーストという町に家を買っている。イタリア風の建築様式と静かな環境が気にいり、ほぼ即決したのだという。当時の金で3,000ポンド。人生初の大きな買い物だった。
第15回 『ロックンロール・サーカス』ローリング・ストーンズほか
第15回 『ロックンロール・サーカス』ローリング・ストーンズほか 1968年11月26日、ロイヤル・アルバート・ホールで行なわれた2回のコンサートでクリームはその活動に終止符を打っている(翌年2月に発売される最終アルバムの録音もすでに終えていた)。強い刺激を受けたザ・バンドの《ザ・ウェイト》で歌われているように、「重荷を下ろし、自由になった」エリック・クラプトンは、一方で、それなりの達成感と充実感も覚えたという。

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