いまとはまるで違う55年前の「永田町」 痛々しいほどの板張り道路だった理由は? (2/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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いまとはまるで違う55年前の「永田町」 痛々しいほどの板張り道路だった理由は?

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久dot.#アサヒカメラ#鉄道
現在の同じ場所。首都高が視界を遮るが、秋空は当時もいまも変わらない(撮影/諸河久:2018年10月10日)

現在の同じ場所。首都高が視界を遮るが、秋空は当時もいまも変わらない(撮影/諸河久:2018年10月10日)

 この撮影から55年の歳月が流れた10月、久しぶりに首都高速4号新宿線に上空を覆われた平河町と永田町を訪れた。屋上に上げていだだいた東京消防庁は昭和の時代に移転し、跡地には「永田町合同庁舎」が建っていた。旧景の平河町側に建っていたビル群は全て建て替えられており、一番奥の「都道府県会館」が以前の場所に高層建築物として再建されていた。
 
 旧景左奥にあたる青山通りを赤坂見附方面に歩いたところには、双方合わせて約2万坪に及ぶ広大な敷地の「参議院議長公邸・衆議院議長公邸」がある。門扉越しに見る緑の風情が美しかった。ここには江戸時代の初期から雲州松江藩松平家の上屋敷があった。徳川家康との血縁が深く、別格の国持ち大名を象徴する立派な冠木門が、明治維新の頃まで存在した。赤坂見附には見附櫓と枡形の御門があり、江戸城防衛の重要地点の一つだった。ここには「押し屋」と称する坂越えの荷車を後押しする人足が存在し、荷主から労賃を稼いでいたようだ。

 とにかく坂道が多い、この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。近隣の坂はたいがい「三年坂」や「山王坂」など「◯◯坂」と命名されているのに、それが無いのだ。現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問した。地名台帳も見せて貰ったが記載が無く、「日常的に赤坂見附からの坂、という認識です」という答えだった。

 ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。

■撮影:1963年9月24日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数


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