板張りの道路が続く55年前の永田町界隈。遠方に、国立競技場のものと思しき照明塔が見える(撮影/諸河久:1963年9月24日)
板張りの道路が続く55年前の永田町界隈。遠方に、国立競技場のものと思しき照明塔が見える(撮影/諸河久:1963年9月24日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、日本の政治の中枢である永田町・平河町界隈の都電だ。

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 痛々しいほど一面の板張り道路と、歩道上に積み上げられた資材――。この写真は、政治の中枢を担う永田町付近の55年前の光景だ。いまとはまるで違う一コマに目を疑う人も多いかもしれない。

 写真は皇居内堀に沿った「三宅坂」を上り、平河町二丁目に向かう都電10系統渋谷行き。左奥、坂を下りた先が赤坂見附の交差点で、既に4号新宿線の橋梁が交差点上空を塞ぎ、橋脚の裏に3系統の都電が垣間見える。

 背景の森から突き出した照明塔は、撮影の翌年に開催された「東京オリンピック」の聖地となった「国立競技場」のものと推察される。

 筆者が通っていた日大三高での三年間は、憧れていた都電通学の毎日だった。校舎があった赤坂中ノ町の最寄り停留所は「山王下」だった。住居していた新富町から渋谷駅前行きの9系統に乗り、築地~銀座~桜田門~三宅坂の経由で赤坂見附下車。交差点の左側に位置する停留所から3系統品川駅前行きに乗り換え、一つ目の山王下で下車。赤坂通りの坂を早足で上って学校に向かった。都電通学をする前から、三宅坂~平河町二丁目にかけての青山通り(国道246号線)は、首都高速4号新宿線と三宅坂ジャンクションの建設工事が始められて、写真のように、電車道は見るも無残な板張りに変容していた。

昭和38年2月の路線図。永田町界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和38年2月の路線図。永田町界隈(資料提供/東京都交通局)

 この首都高速道路関連工事はさらに進捗し、最終的に建設工事の邪魔となる青山線・青山一丁目~三宅坂は1963年10月をもって廃止されることになった。ここを走る9系統と10系統の二系統はそれぞれ迂回を余儀なくされたのを記憶している。

 写真は、その廃止される都電青山線。廃止する一週間前の秋晴れの日、三宅坂で都電を降りて青山線の撮影にかかった。下車した三宅坂停留所は、だいぶ前から木製を組んだ仮物で、フォトジェニックとは言い難い。坂の上の平河町方面まで、無粋な板張り道路が続いている。

「南側の永田町方のビルに上げてもらい俯瞰撮影すれば、この酷い光景が記録できる」と考え、詰襟の制服姿で隼町交差点の南西角にある「東京消防庁・本庁舎」を訪ねた。受付の職員に「今月一杯で都電が見られなくなるので、高いところから撮影したい」と申し出ると、「学生さんが都電の写真を撮るので屋上に上げて欲しいと希望している」と担当に内線していただき、即座にオーケーが出た。いまでは考えられない対応だろう。

 屋上からの半時間ほどの撮影は、秋風が小気味良かったことを記憶している。都電を入れた三宅坂交差点方向と、反対側の平河町二丁目・赤坂見附方向を撮り、担当職員に最敬礼して消防庁を辞した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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