「過去何十年かこういう形でやってきて、大衆の皆さんが納得してきたわけですからね。昨年は平成スタートと『紅白』40回の記念イヤーでしたから目をつぶりましたが、まさか今年もとは思っていませんでしたよ。民放同士ならともかく、公共の電波であるNHK視聴率稼ぎの方向に走ってはね」(「怪物番組 紅白歌合戦の真実」合田道人)

 恨み節のひとつも言いたくなる状況だったのだろう。そればかりか「レコ大」は90年の司会者に「紅白」の顔でもある和田アキ子を起用するという反撃をした。

 さらに、89年の混乱は他にもある。じつはこの大みそかに「レコ大」や「紅白」への関心を削ぐような緊急会見が行われたのだ。中森明菜近藤真彦の「金屏風会見」である。

 この年の7月、近藤の自宅で自殺未遂をした中森は活動を休止。「紅白」で復帰をというオファーを断り、その時間帯に近藤とともに釈明会見を開いた。この模様はテレビ朝日系の特番内で生中継され、会場に金屏風が置かれていたことから、婚約発表なのではという臆測も飛び出すなど、高い注目を浴びた。

 この会見自体が「レコ大」とかぶったわけではないが、中森は2度、近藤は1度、大賞を受賞しているレコ大常連者だ。ともに現役のヒット歌手でもあり「レコ大」に出ていてもおかしくなかった。そんなふたりのスキャンダルにより、注目度の分散が起きたことは「レコ大」にとっても不幸なことだっただろう。

 しかも、近藤の後輩にあたる光GENJIは前年の大賞受賞者。89年も「太陽がいっぱい」が「淋しい熱帯魚」や「川の流れのように」以上のセールスを記録していて、大賞の有力候補だった。しかし、ジャニーズの力も緊急会見で分散されたのか、得票数は3位にとどまった。

 とまあ、さまざまな混乱が起きた89年。この混乱から、迷走が始まる。翌年の「レコ大」は2部門制を導入した。歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門に分け、それぞれで大賞や新人賞、歌唱賞などを選ぶようにしたのだ。

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「レコ大」からのジャニーズ離脱