この2部門制は3年間続き、もっぱら悪手として語り継がれている。単純な話、賞の権威が半分になったという見方もそのひとつだ。そして、それ以上に痛かったと思われるのは、これが一種の忖度だったことである。

 ひばりとWinkの逆転劇が象徴したように、新旧勢力の立場の逆転はもはや決定的。これからはますます、歌謡曲・演歌の旗色は悪くなるだろうから、という旧勢力への配慮が働いたことが明らかだった。こうなると、視聴者はしらけるものだ。

 さらに、この2部門制はジャニーズの機嫌も損ねてしまう。90年に「お祭り忍者」でデビューした忍者が歌謡曲・演歌部門での受賞を望んだにもかかわらず、ポップス・ロック部門に回されたことに不満を覚えたといわれている。賞レースからの撤退を決めたきっかけのひとつともされる出来事だ。

 もっとも、遅かれ早かれ、ジャニーズは「レコ大」を見限っただろう。公的に明かされている「所属アーティスト同士を争わせたくない」という理由もまったくのうそではないだろうが、獲りに行くだけの価値が「レコ大」からは失われていったのも現実だ。たのきんトリオとシブがき隊で最優秀新人賞を4連覇した80年代前半には、ジャニーズにとってそれだけの価値があったのだから。

 一方「レコ大」にとって、ジャニーズに逃げられたのはもったいなかった。21世紀の「紅白」がジャニーズで延命しているように、もっとうまくつきあえていれば、数字も注目度も盛り返せていたかもしれない。89年の大賞はいっそ、光GENJIの2連覇でもよかったのではと思ったりもする。

 ところで、89年の「レコ大」にはもうひとつ、逆風が吹いていた。賞レースをめぐる「なくてもいいよね」という空気感だ。じつは「レコ大」の成功を機に、さまざまな音楽賞イベントが生まれ、いささか乱立気味だった。

 TBS以外の民放各局が持ち回りで開催する日本歌謡大賞に、有線大賞が2種類、日本テレビ系の日本テレビ音楽祭にフジテレビ系のFNS歌謡祭、テレビ朝日系の全日本歌謡音楽祭、テレビ東京系のメガロポリス歌謡祭。ただでさえ、マンネリが指摘されるなか、88年には昭和天皇重病による自粛ムードが起き、いくつもの音楽祭が中止になった。

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資料、文化的価値としての「レコ大」