1989年12月31日に「金屏風会見」を開いた中森明菜(右)と近藤真彦(C)朝日新聞社
1989年12月31日に「金屏風会見」を開いた中森明菜(右)と近藤真彦(C)朝日新聞社

 かつては今くらいの時期になると、レコード大賞をめぐる話題があちこちで出始めた。本命は誰で対抗、大穴は誰か。アイドル好きにとっては、新人賞の行方も重要だ。世間もメディアもその予想で盛り上がり、1970年代から80年代にかけては、それが当たり前だった。

【写真】昨年、レコード大賞を受賞して一躍スターとなった歌姫はこの人

 そのころ、本選は大みそかに「輝く!日本レコード大賞」(TBS系)として生中継され、69年から85年までは視聴率が30%を超えた。最高視聴率は、77年の50.8%。「NHK紅白歌合戦」と並ぶ、年末の怪物番組だったのだ。当時の音楽ファンは夜7時からの「レコ大」と9時からの「紅白」をリレーして見ることを何よりの楽しみにしていた。

 しかし「レコ大」の視聴率は2005年に10.0%まで落ち込み、翌年から12月30日の放送となる。これにより、少し持ち直したものの、昨年の視聴率は16.1%。数字的にも注目度的にも「くさっても鯛」みたいなレベルは保っている「紅白」に比べ、すっかり普通の番組と化してしまった。

 これはいったいなぜなのか。じつは大きな節目がある。1989年、元号が昭和から平成に改まった年だ。86年に30%を切ったあたりから陰りは見られたが、この年、凋落を決定づけるような大混乱が起きた。ここでは、それを振り返ってみたい。

 そもそも、凋落には内憂外患がつきもの。まず、内憂についていえば、この年、大賞の選考が大いに割れた。いや、競り合い自体はむしろ盛り上がりにつながるはずだが、割れ方が特殊だったのだ。

 この年の6月、歌謡界の女王と呼ばれた美空ひばりが死去。それもあって、遺作の「川の流れのように」が大ヒットした。このため、長年の功労者でもあるひばりにレコ大をという声があがり、本命視されるようになる。

 しかし、ふたを開けてみれば、女性デュオ・Winkの「淋しい熱帯魚」が受賞。「川の流れのように」は次点に終わった。この背景には、死者が大賞を受賞という前例がなく、レコ大の後援団体でもあるTBSへの貢献もほとんどないことが響いたとされる。

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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「紅白」二部制導入の衝撃