■美しい生き方を心がける人

 徳島さんの母親は、自分の母親(徳島さんにとっての祖母)が働いていて、あまり家のことをマメにする人ではなかったことから、自分が「いいなと思う家庭像」を実現するために頑張っている人だった。毎朝夫や娘たちを送り出すと、パートに行く前に家中に掃除機をかけ、家の中は常に整理整頓されていた。料理はいつも品数が豊富で、時折、おやつも手作りしていた。徳島さんは、母親の作った苺ババロアが大好きだった。

「母は、美しい生き方を心がけている人でした。汚い言葉を使うことも、人の悪口を言うこともなく、服装や髪型にも気を使い、女性らしい振る舞いの人でした。亡くなる前日も、私に洗髪を頼んでいます。呼吸が苦しいことよりも、自分が不潔であることの方が嫌だったようです」

 アートディレクターの仕事をしている徳島さんが美術の世界に興味を持ったのは、幼い頃に、母親から絵を描くことの楽しさを教えてもらったのがきっかけだった。

「子どもの頃は、絵の上手な母が自慢でした。でも、少し母は移り気なところがあって、絵を習っても、書道を習っても、長くは続かずやめてしまいました。がんになり、入院してから母は、『入院していても楽しめるような趣味を持っておけば良かった。いろいろやっては違うと思ってすぐやめてしまっていた。せっかくいろんなことをしていたのに、先生がいないとできないことばかりで、一人では何もできないことに今頃気付いた。どうしてもっと極めておかなかったのだろう』と、とても残念そうに、寂しそうに言っていました。これって、『いつまでも日常が続く』という思い込みが招いた後悔だと思います。いつでもできる。いつまでもできる。母の死を経験して、そんなことはないのだと私は実感しています』

 母親は、病気で弱った姿、整っていない姿を見られるのが嫌で、がんになってから亡くなるまでの約3年間、一度も友だちに会おうとしなかった。

 しかし、自力でベッドから降りられなくなった頃、「もっと元気なうちに友だちに会っておきたかった…」と涙を浮かべてつぶやいた。

「結局母は、会いたい人に会えずに亡くなりました。母の葬儀に来てくれたその方たちは、『亡くなるような病気だとは知らなかった…。元気になったらまた会えると思っていたのに、悲しい」と仰っていました。母は、『会えば良かった』と思ったその時でも、まだ生きているのであれば会えば良かったのにと思います。どうして私は母にそう言ってあげられなかったのだろうと後悔しています。5分でも1分でも、生きているうちに会って言葉を交わせたら、母も友人も悔やまず、幸せでいられたように思います」

 母親は「こんな弱った姿を見せたら悲しませる」「体力がないので長い時間会うのは難しいから、来てもらうのは申し訳ない」ということを気にするあまり、悔やみながら亡くなった。会えないまま死別することに比べれば、どちらも大した問題ではない。

 しかし、母親も徳島さんもその他の家族も、「治る」「元気になる」と信じていたからこそ、それに気づくことができなかったのだ。

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理想の死に方