視野をひろげるために、「昭和史年表」を見ると――、

 第一次上海事変、満州国建国の宣言、五・一五事件、社会大衆党の結成、大阪で国防婦人会発足、などがある。

 マスコミ的な事件としては、第一回日本ダービー、坂田山心中事件、そして、さきほど引用した白木屋(現在・東急日本橋店)の火事があり、婦女子のズロース着用を促進させた。

 この火事は12月16日。ぼくが生れたのは4日前の12月12日である。だから、当然のこととして、ぼくは1932年について何も記憶していない。

 とりあえず、次のことを前提にしたい。

  1 ぼくが生れたのは<モダン都市・東京>の発展のさなかであったこと。
  2 生れた時、すでに戦争が始まっていたこと。
 
 戦争は、日中戦争→大東亜戦争(太平洋戦争)とつづき、家が焼かれたあとで、中学一年のとき、ようやく終る。ここを強調しておきたいが、ぼくがものごころついてから中一まで、日本はずっと戦争をしていたのである。しかも、その戦争は<良い戦争(グツド・ウオー)>、日本流にいえば、<聖戦>である。

<聖戦>の中で子供が成長するというのは、どういうことか。

 まず、戦争、または<聖戦>に対する疑いはいっさい持っていない。ぼくは幼稚園には行かず、いきなり小学校に入ったのだが、その年、1939年(昭和14年)は、ノモンハン事変の年であり、国民精神総動員運動の推進が企画されている。

 しかし、そうしたことは、ぼくにはほとんど影響がなかった。<ノモンハンでは日本がソ連の強力な兵器に打ちのめされたらしい>と噂されたが、真実は報道されなかった。

 マスコミは新聞とラジオ(日本放送協会<のちのNHK>の放送)だけである。(くどいようだが、述べておく。民放ラジオはまだなかった。テレビはむろんない。いくら念を押しても、民放ラジオがあったと思っている若い人がいるので、しつこくダメ押しをしておく。)

 テレビに代る映像は<ニュース映画>である。

 事件をフィルムにおさめ、映画館で上映するので、2、3週間のずれはできるが、当時としては、<もっとも早いニュース映像>であった。

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<映画法>はナチ政権下のドイツが制定したものの真似