1939年の4月5日には、映画法が公布される。10月1日から施行されたこの法律は、

  a 映画脚本の事前検閲
  b 映画製作・配給の許可制(すべて政府の許可がいる)
  c 外国映画の上映制限
  d 文化映画の義務上映(1940年にはニュース映画も義務づけられる)
 等、16の条項から成っている。

 これ以前に、すでに<検閲制度>が生きていたのだから、もはや自由はあり得ない。

<映画法>はナチ政権下のドイツが制定したものの真似である。テレビのないこの時代、ヒットラーはいち早く、映画の宣伝効果、映画による情報操作に着手していた。

 小学校に入るか入らないころから、ぼくは映画を観ていた。

 父親(商人)が自動車好きのモダニストだから、洋画ばかりであったが、ここでは<ニュース映画>のことを書く。

<最前線での日本兵>を観たいという大衆の要求で、5つの社がニュース映画を作っていた。しかし、ニュースだけでは興行が成立しないので、<ニュース映画館>があちこちに生れた。ぼくがつれて行かれたのは銀座の映画館である。たしか<金春(コンパル)>といったと思う。どういうフィルムをならべていたか、想い出してみよう。

 朝日世界ニュース
 パラマウント・ニュース(アメリカ製)
 文化映画(主として国策にそったドキュメンタリーの短篇)
 マックス・フライシャー系の漫画(ポパイかベティ・ブープ)
 ディズニー系の漫画(ミッキー、ドナルドなど)
 季節物(たとえば相撲、たしか前半戦・後半戦と二週に分れていた)

 小学生であるぼくのお目あては、ポパイであり、ドナルド・ダックであり、ディズニーのシリー・シンフォニー・シリーズだった。ポパイは白黒だったが、カラーで二巻物の「ポパイのアリババ退治」もここで観ている。

 また、フレッド・アステアのRKO時代のミュージカルのダンス・シーンのみを切りとった短いフィルムを上映したこともある。

 父親はモダニストではあったが、リベラリストではなく、警防団やらなにやらの要職にいた。家の近くの久松警察とも親しかった。そのくせ、映画に関しては徹底した洋画派で、ハワード・ホークスの「コンドル」やヘンリー・キングの「スタンレー探険記」を好んだ。(もっとも昭和14、5年ともなると、ガソリン不足で、好きなドライヴ一つできなかったから、洋画を観るしかなかったのかも知れない。)

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映画といえば即アメリカ映画、と、ぼくは考えていた