それは、当時唯一の娯楽だった日本映画を観ることと同時進行の体験だった。スクリーンと現実の双方から戦争の表裏を知り、多感期の少年は成長した。『アメリカと戦いながら日本映画を観た』(朝日文庫)で当時の様子を克明につづった86歳の小林信彦にとって、“日本が<聖戦>を戦った日々”は忘れられない記憶である。小林少年の目に映った戦争の正体とはいかなるものだったのか? 本書の「はじめに」をお届けする。
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これからぼくが試みようとすることは、たぶん、前例がないのではないかと思う。
ひとことでいえば、<聖戦>の中で一人の少年がどのように育ち、戦争にまつわる大衆文化を享受し、戦争の渦に巻き込まれ、敗戦にいたったか――という事実の記述なのだが、これだけではなんのことだかわからないだろうから、くわしく説明したい。
ぼくは1932年(昭和7年)に生れた。場所は日本橋区(現・中央区)の両国である。
「中央区年表」によれば、この年は<準戦時体制>に分類されている。1932年に、中央区(当時はこの名称はない)で起ったことを、簡単に紹介してみる。時代色を知るためには、くだくだ説明するよりこの方が具体的で良いと思う。
1月 日本軍の<錦州入城>で株が暴騰(前年九月から満州事変が始まっている)
2月 日本ゼネラル社32年型シボレー発表展示会を日本橋通りで開く
4月 新しい<両国橋>完成
8月 国際反戦デー。夜の銀座はビラまきと検束で沸く
同月 警視庁管下のカフェー、バーの数は7,511軒、女給22,779名と「国民新聞」報道。<エロ、エロ、エロ時代>と伝える
10月 銀座4丁目角の服部時計店、落成式。時計塔が銀座の名物となる
11月 株式市場、昭和三年以来の高値となる
12月 白木屋デパートの出火。死者10名
同月 銀座二の二、KKプレイガイド社設立
おことわりしておくが、これはあくまで中央区(旧日本橋区と旧京橋区)での出来事である。「中央区年表」の1932年のページのごく一部を(少し直して)引用した。
これだけでも大震災からの完全な立ち直り、侵略戦争による好況、モダンなビルの完成といった様子がうかがえる。プレイガイドの設立は、演劇・演芸・スポーツの入場券発売という、<モダン都市>の大衆文化の成熟度をうかがわせる。