小学1、2年の身としては、「コンドル」はむずかしかった。日比谷映画でやったチャップリンの「街の灯」「モダン・タイムス」の二本立ては面白かったが、疲れたのか、帰りに寄った銀座の<フロリダ・キッチン>でぼくは吐いている。

 親子にとってありがたいのは、ドロシー・ラムーアのサロン姿が総天然色で拝める「ジャングルの恋」とワイズミュラーの「ターザンの猛襲」の二本立てで、父親はドロシー・ラムーアを楽しみ、ぼくは象の大群を楽しんだ。映画といえば即アメリカ映画、と、ぼくは考えていた。(日本映画は学校で強制的に観せられるものでしかなかった。)

 こうした時代の下町をぼくは『ぼくたちの好きな戦争』の前半で描いている。にせのアステア、にせのグルーチョ・マルクスが出没する下町である。昭和14、5年に下町アメリカニズムがピークに達した現象の分析は、瀬川昌久氏の『ジャズで踊って』がくわしい。タップダンスが子供たちの間にまでひろがったことも書いてある。

 この<燃えるようなアメリカニズム>は翌年までつづく。昭和16年12月8日、アメリカとの戦争に突入する日まで。

 開戦の前日まで上映されていたのはフランク・キャプラの「スミス都へ行く」だったといわれるが、ぼくは記憶していない。

 真珠湾での圧勝と英国のプリンス・オブ・ウェールズを沈めたことで、日本中が燃え上る。全員が憑かれたようになる。

 ぼくもそうだった。12月8日以後、アメリカ映画は上映されないから、日本映画を観るようになる。映画が唯一の娯楽だった時代だから、どうしてもそうなる。

 しかしながら、たとえ国家が敵対したとはいえ、日本映画はハリウッド映画を手本にして発達してきた。松竹の数々の都会喜劇はエルンスト・ルビッチを手本としたし、東宝の航空映画「燃ゆる大空」(1940年)はハリウッドの航空映画を手本にしている。太平洋戦争に突入したからといって、その影響が消えるわけでもない。

 ぼくが試みようとするのは、文字通り<聖戦>のさなかにおいて、一人の少年、すなわち、ぼくが、どのように<国策映画>や<国策演劇>を味わったかという報告である。

 日本映画は前記の映画法によってぎりぎりに縛られており、しかも太平洋戦争開始とともにさらに規制がきびしくなってくる。軍が映画の利用価値を本気で考えたからである。ぼくたちにあたえられるのは、すべてが<国策映画>と考えてよい。(こうした中でも、例外が生じてくる。そのことは後で記す。)しかしながら、アメリカ映画少年(少年といえるかどうか?)だったぼくは、<米英をやっつける映画>のあちこちに、アメリカ映画の匂いをかぎつけたのである。