オリックス時代のイチローと仰木監督 (c)朝日新聞社
オリックス時代のイチローと仰木監督 (c)朝日新聞社

 2019年シーズンが開幕して約1カ月が過ぎ、毎日贔屓チームの勝敗をチェックする今日この頃だが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、80~90年代の“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「イチロー&仰木監督編」だ。

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 イチローは今年3月21日の引退会見で、オリックス時代の恩師・仰木彬監督について、「シャレた人だった。仰木監督から学んだことは計り知れない」と回想している。

 94年、オリックスの新監督に就任した仰木は、当時1軍と2軍を行ったり来たりしていた鈴木一朗(当時)に日本人選手ではプロ野球史上初のニックネームの登録名「イチロー」を名乗らせ、開幕からスタメンで使いつづけた。

 イチローはその期待に応え、同年、日本最多のシーズン210安打を記録し、首位打者を獲得。一躍球界のトップスターへと上りつめる。

 2人の関係は、常に阿吽の呼吸だった。

 96年のオールスターで、全パの監督になった仰木は、7対3とリードした第2戦の9回2死、打者・松井秀喜の場面でイチローを登板させた。

 実は、第1戦でも、7対4とリードした9回2死から愛工大名電の先輩にあたる山崎武司(中日)と対決させる予定だったが、1死から立浪和義(同)が三塁打を放ったため、見送られていた。

 だが、松井との“夢の対決”は、「このままでは(プロの最高の水準を見せる)球宴の格式が下がってしまう」と考える全セ・野村克也監督が代打・高津臣吾(ヤクルト)を送ったことから、幻と消える。さらに野村は「ふつうは断るはず。非常識だ」とイチローの人格まで非難した。

 これに対し、仰木は「9回2死まで真剣勝負をやって、セを圧倒した。それで最後に多くの方が望んでいることをした」と主張し、イチローも「監督の指示を断るのは、体育会系の僕らとしてはできないでしょう。僕も野球の名門校でそういうしつけをされてますから、それが僕の常識です」と反論した。

 そして、仰木は富山で行われた第3戦でも、イチロー登板を示唆したが、結局、イチローがマウンドに上がることはなかった。「最初から投げられる状況が揃ってということだったからな。ただ、みんなが楽しくやれるというのが最大の条件だったから。こんな騒動になってはな……」と説明する姿からは、「イチローを騒動に巻き込んではいけない」という“親心”が感じられた。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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