そんな師弟の阿吽の呼吸が、「勘違い」というキーワードでもピタリと一致してしまったのが、同年10月19日、巨人との日本シリーズ第1戦だった。

 3対3で迎えた延長10回2死、イチローはカウント3-1から河野博文の140キロ高めを上から叩きつけるように一振。打球は右中間席に突き刺さる決勝ソロとなった。

 くしくも、イチローのスイングの直前、ベンチでは仰木が右中間を指差しながら、新井宏昌コーチに語りかけていた。「あそこに飛んでいくんやないか」。前年4月4日、イチローが同じ東京ドームで日本ハム時代の河野から放った本塁打とイメージがダブったのだという。

 さしづめ師匠の予告アーチといったところだが、実は、イチローは本塁打を狙っていなかった。「後ろが(この日2打点の)ニールだから、塁に出て、走ろうと思っていました」というのが理由。

 だが、イチローは大きな勘違いをしていた。ニールは8回の打席後、ベンチに下がり、次打者はショートの守備固めで入った勝呂壽統だった。それでも、安打狙いのバッティングが生んだ劇的な決勝弾で、「名前や伝統だけで君臨しつづけるのはどうかと思います」と挑戦状を叩きつけた巨人に一泡吹かせてしまうのだから、「最後はやっぱりイチロー。ラッキーですよ」という仰木のコメントも頷けるものがある。

 その仰木は試合後、球場をあとにして、移動用バスのステップに片足をかけたところで、「監督、違います」と球団広報に呼び止められた。よく見ると、それは巨人のバスだった……。よりによって同じ日に、師弟で勘違いの揃い踏みを演じているところが興味深い。

 翌97年、イチローは4月16日のロッテ戦(ナゴヤドーム)の第3打席から連続無三振記録をスタートさせる。藤田平(阪神)の持つ日本記録、208打席連続無三振を射程にとらえはじめた6月のある日、仰木は言った。「おい、イチロー。早く三振してケジメをつけてしまえよ」。

 イチローが記録を続けていく過程で、いつしか体が勝手に反応し、際どいコースをカットしながら、巧打を続けたことから、「三振を恐れて当てにいっている」の風評が立った。三振しないことより、打率4割のほうが大事と考える仰木は「そりゃ作ったほうがいいだろうけど、大した記録じゃないからな。そんなこと(騒動の渦中に身を置く)なら、もうスッキリしろ」と助言したのである。

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「この師にして、この弟子あり」