大村益次郎の肖像画(c)朝日新聞社
大村益次郎の肖像画(c)朝日新聞社
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『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析する。今回は維新十傑の一人で、大河ドラマ「西郷どん」でも落語家の林家正蔵が演じることで話題の医師・大村益次郎を「診断」する。

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 医師としての経験をもとに政治の世界で活躍した偉人は少なくない。内科医だった後藤新平やクレマンソー,眼科医だった孫文などが思い浮かぶが、軍人、軍政家と名を残したのは長州の村医から藩の軍事指導者、さらには帝国陸軍創設者となった大村益次郎(村田蔵六)くらいだろう。靖国神社の参道には東北方向(一説には上野の山の西郷どん)をにらむ彼の銅像がある。ただ、大村の場合は臨床家としてやっていくには、性格上、少し気になる点があったようである。

■「夏は暑いのがあたりまえです」

 大村益次郎は、文政7年(1824年)5月3日周防国吉敷郡鋳銭司村に村医の村田孝益の長男として生まれた。シーボルトの弟子梅田幽斎、漢学者広瀬淡窓の門人を経て大坂の適塾で緒方洪庵に師事するが、父の命で帰郷し村医村田良庵として開業する。しかし、道であった村人に「先生 お暑うございます」と挨拶されると、「夏は暑いのがあたりまえです」と答えたり、葛根湯を貰いにきた父親の代からの患者に「服用する必要がない」といって追い返したりしたという。

 嘉永6年(1853年)、蘭学者として伊予宇和島藩に出仕、蘭学・西洋兵学の講義と翻訳に加えて、砲台や蒸気船の設計などの貢献を行った。その後、江戸に上がると、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、まだ関係良好であった長州と江戸を行き来して西洋兵学の研究と講義を続けた。

 慶応元年(1865年)、高杉晋作らとともに奇兵隊の創設に関り、馬廻役譜代100石取の上士・大村益次郎永敏と改名する。第二次長州征伐では西洋式軍隊を組織して旧式の幕軍を撃破、さらに戊辰戦争では江戸城明け渡し後も上野寛永寺に立てこもる彰義隊約3千名をわずか1日で鎮圧した。この時の軍議で薩摩の海江田信義に「貴殿はいくさを知らぬ」と言い放って恨みを買い、西郷の仲介でなんとかその場は収まるが、翌年の暗殺事件に繋がる。

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遺言どおりに…