戊申戦争では 新政府軍の総指揮者として幕府残党勢力を鎮圧するとともに、諸藩の廃止、廃刀令と徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成などを進めるが、明治2年9月4日夕刻、京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。当座は一命をとりとめたものの、創部感染から敗血症となり10月27日蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることになる。しかし既に時遅く4日後に死去した。享年46。臨終の際「西国から敵(西郷軍)が来るから四斤砲を準備しておけ」という遺言を残している。実際、8年後には西南戦争が勃発し、弟子であった山田顕義、山縣有朋らが活躍した。

■空気の読めない男

 あまりに鮮やかな登場と短期間の目覚ましい活躍、そして常識外れの言動は大村を有名にした司馬遼太郎の名作「花神」の創作と思われがちだが、同時代の記録にそのまま残っており、真実だったようである。信州大学精神科の鷲塚伸介教授は、大村が「発達障害(自閉症スペクトラム障害)」であったのではないかとされている。診断の根拠は「対人コミュニケーションが不得手」で「共感性に乏しく」、「特定のものへのこだわり」が顕著で、「感覚の過敏さ、または鈍感さ」「粗大運動の障害」などである。

 実際、相手の思いを無視したような大村の言動や、豆腐への異常な愛好、指揮官でありながら軍服を着用しなかった点などは発達障害の結果に相当する可能性が高い。児童期にみられ自然に治ることが多いが、成人でも軽快せず、「空気の読めない人」としてみられることも少なくない。

 大村の場合、これを補って余りある才能を見出してフォローしたのが、同志で親友でもあった桂小五郎(木戸孝允)であった。大村の死を聞いた木戸は日記に「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と記している。基礎医学をやっていると、臨床にいた時以上に変わった研究者に会うが、日本の科学の発展のために才能のある方は何とか伸びてほしいし、そういった方々を受け入れる寛容な社会が望ましいとも思う。

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手術で歴史が変わっていたかも