うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。45歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は「入院生活」を振り返ります。
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今月11日、退院した。腹と背中の痛みにうめき、救急車で担ぎ込まれたのがうそのように快復した。ひっそり育った動脈瘤の破裂を免れ、たくさんの激励に人の温かさを知った。振り返れば悪くない、22日間の入院生活だった。
3日夕。病院に現れた父親から問われてもいないのに、私は近況を語り続けていた。
「この人は『友を鼓舞し、激励するために』とページを作ってくれたよ。ありがたい」
「ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんはこんなにメッセージをくれた。ありがたい」
それから、退院したら誰と誰が会いにきてくれる予定で――。話していてふと気づき、笑ってしまった。
「最近、『ありがたい』しか言ってないな」
そうなのだ。ものを書いても、口を開いても、ありがたい、誰それが何々して「くれた」ばかり。くれた、くれたで明け暮れる。これでは紀元前に滅んだ地中海の「クレタ文明」もとい「くれた文明」ではないかと、だじゃれが思い浮かんだ。
そんな一人ひとりと世の中の、なんと明るく、温かいことか。
ふいに「今、それが誰かに役立つならば命を捨てられる。人生にきれいに幕が引ける」という感情にとらわれた。
おかげで翌4日夜に、ズキ、ズキという痛みが右腹に3、4度走り「もう書けなくなるかも」と弱気になったときも、「まだ書き残していることは」との問いにまず頭に浮かんだのは、「世の中は明るい」という確信だった。
不思議なものだ。少し前は明るさどころか、コラムを書くにしても、燃料はもっぱら怒りだった。体に不安のない人たちの「やっつけ仕事」や、ありがちな「がん患者像」を当てはめられそうになることへのいらだち。もろもろを混ぜ込んだ漠然とした攻撃的な気分だ。