平昌パラリンピック パラアイスホッケー日本代表 安中幹雄さん(撮影/写真部・大野洋介)
平昌パラリンピック パラアイスホッケー日本代表 安中幹雄さん(撮影/写真部・大野洋介)
2010年バンクーバーパラリンピックで獲得した銀メダル(撮影/写真部・大野洋介)
2010年バンクーバーパラリンピックで獲得した銀メダル(撮影/写真部・大野洋介)

 3月9日に開幕する「平昌パラリンピック」に出場するパラアイスホッケー日本代表の安中幹雄選手(46)は、18歳のときに発症した、若年性がんによって右足を失った。2006年のトリノ大会から出場し、2010年のバンクーバー大会では銀メダルを獲得している。

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「花やしき少女歌劇団」の中心メンバーとしてアイドル活動を行っていた、木村唯さんも、小児がんで片足を失った一人だ。中学3年生のときに発症し、右足の切断手術を受けた。つらい闘病生活のなかでも、ステージに立ち続けた唯さんは、18歳の若さでこの世を旅立った。

 足を失っても、常に明るく、前向きだった唯さんの姿を描いた書籍『生きて、もっと歌いたい』(朝日新聞出版)。この本も読んだという安中選手が、その感想や自身の闘病について、そしてパラリンピックへの意気込みを語ってくれた。

――唯さんの生涯を追った『生きて、もっと歌いたい』をお読みになったと聞きました。

 唯さんのことは、以前からテレビや新聞で知っていました。私と同じく右足を失い、それでも前を向いて、夢を追いかけて生きる姿に共感しました。私も抗がん剤治療を経験しましたが、本当につらいものでした。治療を続けながら、ステージに立ち続けた唯さんはすごいと思います。
亡くなったと聞いたときは、ショックでした。まだ若かったのに、本当に悔やまれます。今、私の娘に唯さんの本を読ませているところです。

――安中さんは高校生のときに、骨肉腫と診断されたと聞きました。

 当時、ラグビー部に所属していました。高校3年の夏、すでに部活は引退していたのですが、後輩の練習に参加していたとき、右の大腿骨を骨折しました。大した当たりではなかったのに、「パキン」と骨が裂けるように折れてしまったんです。最初は自宅近くの小さい病院に行って、そのままギプスをして通常の骨折治療を受けました。

 しかし、足の状態は一向に良くならず、それどころか、どんどん丸太のように腫れ、40度の熱でうなされるようになりました。さすがに両親が心配して、東京大学医学部附属病院に行きました。10月のことです。骨折したのが7月の終わりだったので、2カ月以上経っていました。

 すぐに入院することになり、両親が立ち会いのもと、「悪性の腫瘍、骨肉腫なので足を切断しないと命が助からない」と医師からの診断を受けました。そのとき骨折の原因が骨肉腫だと知りました。

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