評論家・中野剛志「リストの闘争とわたし」 (1/3) |AERA dot. (アエラドット)

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評論家・中野剛志「リストの闘争とわたし」

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中野剛志#朝日新聞出版の本#読書

 歴史の風雪に耐えて残った古典というものが多感な若者に与える影響たるや、魔法と言っても過言ではない。わたしの場合は、二十代前半の頃に出会った『政治経済学の国民的体系』(1841)によって、その後の人生を決められたも同然であった。

 その著者は、十九世紀前半のドイツで活躍した政治経済学者フリードリヒ・リスト(1789~1846)である。

 政治経済学という分野は、通例、三つの系譜に分類される。一つ目はアダム・スミスを祖とする経済自由主義、二つ目はカール・マルクスが創始したマルクス主義、そして三つ目が経済ナショナリズムである。この経済ナショナリズムの理論を構築したのが、フリードリヒ・リストなのである。

 このうち、経済自由主義とマルクス主義は、それぞれ理論体系を構築し、強力な学派を形成してきた。これに対し、経済ナショナリズムは、理論体系というよりはむしろ、単なる実践の産物とみなされてきた。特に戦後は、経済ナショナリズムは、経済自由主義とマルクス主義の二大陣営の双方から、異端視されてきたのである。

 しかし、十九歳のわたしは、この政治経済学の三つの系譜の存在を知った時、どういうわけか、経済ナショナリズムが最も正しいと直観した。そして、これを研究すると決めた。

 時あたかも、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わりを迎えた頃であった。人々は資本主義の勝利を確信し、その公式イデオロギーである経済自由主義が世界を席巻しようとしていた。

 しかし、わたしには、経済自由主義の理論、とりわけ主流派(新古典派)経済学は、どうしても机上の空論としか思えなかった。そして、経済ナショナリズムの実践的な性格に強く惹かれ、実践経験の中に理論を探究したいと願った。

 そこで、わたしは研究者の道に進むのではなく、産業政策担当の行政官になることを決め、一九九六年に通商産業省(現在の経済産業省)に就職した。かつて通商産業省は、日本における経済ナショナリズムを体現した特異な行政組織として、世界的にも知られていた。わたしは、経済ナショナリズムの実践経験から理論が生成されるのを期待していたのである。

 ところが、当時の通商産業省は(今でもそうだが)、経済ナショナリズムを実践するどころか、それを捨てて経済自由主義の先頭に立つことを、新たな時代の使命として誇っていたのである。もちろん、リストを読んでいる者など一人もいなかった。要するに、そそっかしいわたしは、就職先を間違えたのだ。


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