「2月に入院するからお手紙ください」と伝えると「出すよ、友達だからね」って言ってくださって。会えると決まってから2カ月かけて、不自由な手でマフラーを編んでいました。それをhideさんに渡したら、その場で巻いてくれたんです。

――憧れの人がその場で!

 そのときは15分くらい報道の方も同席していたんですが、その後に「打ち上げに行きましょう」って言ってくださって。そこからずっとhideさんと交流が始まって、メンバーにも「ダチの真由子」と紹介してくれて。

――「友達」って紹介してくれるなんて。最初の15分で「じゃあね」で終わっていても良かったわけじゃないですか。

 そうなんです。最初は「これで最後だろうな」って思っていて。でもそこから交流がずっと続いていて。

――嬉しいですね。

 そうなんです。そのときに渡したマフラーはその後も使ってくれていました。hideさんのお母さんが「いつも同じような格好をしているから、すごく重宝しているんですよ」って言ってくださって。アメリカへ行くときも必ずスーツケースの中に入れるんですって。で、荷物が多くなったときはマネージャーの方が一度マフラーを取り出すんですけど、「これはダメ!」って必ず持っていくと伺って。hideさんが亡くなった後、そのマフラーはhideさんの形見として返していただいて手元にあります。

――そうした関係はどれぐらい続いたのですか?

 出会ってからhideさんが亡くなるまで2年半なんです。でも、その間の思い出がすごく濃かったんだなと思います。真由子が亡くなった後もhideさんの仲間の方が2階でライブをしてくださったり、色紙に「真由子、来たよ」って書いてくださったり。でも、それは「尊敬しているhideさんが可愛がっていた真由子だから」っていうのがあると思います。真由子自身にも魅力を感じてくださっているんでしょうけど、hideさんの素晴らしさが大きいと思います。

――どちらも素敵だったからこそですね。hideさんとの思い出はありますか。

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hideさんは「とにかく気遣いのできる人」だった