文書は「存在しない」、「廃棄した」、「存在するが秘密だから開示できない」「開示はするが秘密の部分は黒塗りにする」「ないと思ったらあった、知らないうちに改ざんされていた」「存在したが個人メモに過ぎない、本人に聞いたら書いたような気がすると言っているがよくわからない」……。
役所の文書に関して呆れるようなニュースが、連日報じられている。
公文書管理法第1条には公文書は、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」であり、その管理・利用は「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」と書いてあることが、最近のニュースで頻繁に紹介されている。また情報公開法第1条にも、「国民に説明する責務が全うされるようにする」ことと「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」と書いてある。
つまり、公文書の適切な管理と情報公開は、日本の民主主義を支える基盤だという位置づけだ。
これが当然の前提だと考えると、現在報じられているような事態が生じることは、「およそ考えられない」「とんでもないこと」である。
しかし、30年以上官僚を務め、情報公開の推進に関わった経験もある私から見れば、現在起きていることは、「霞が関の常識」から見れば、「当たり前」であって、驚くことではない。
では、官僚にとって役所で作る文書に関する基本哲学とは、いったいどんなものなのか?官僚の文書に関する哲学を四つのポイントにまとめてみた。