働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。
* * *
言われた首相の安倍晋三さんは覚えておられないだろうが、なぜあんな言葉をかけたのか、私は今も悔やんでいる。
政権に返り咲いて1カ月もたたない2013年1月。2度目の首相に就いて初の海外訪問中にアルジェリアで日本人の人質事件が起きた。日程を切り上げて帰国する政府専用機の中で、こう声をかけた。
「お体を大切に。頑張ってください」
これに先立つ訪問先での記者会見では、同行していた世耕弘成官房副長官(当時)に政府対応が十分か問いただした。だが人質を取り返す交渉は政府に委ねるよりない。若干、感傷的になっていた。
安倍さんは07年、持病の潰瘍性大腸炎による体調不良もあり、政権を失っている。だから言ったのだが、紺色のスーツに黄色いネクタイ姿の相手はけげんそうな顔をした。無理もない、こちらは閣僚の「政治とカネ」などの問題を当時攻め立てた朝日新聞の記者なのだから。そう単純に受けとめた。
だが、自分が膵臓(すいぞう)がんで取材の一線から退き、「頑張れ」と繰り返される立場になると、そればかりではない気がしてきた。
言われなくても、あなたが思う以上に、とっくに頑張っている。体のしんどさも心のつらさも何一つ知らないくせに、気軽に言ってほしくない。
これは私が感じたことだが、同じように思っていた患者はほかにもいたから、安倍さんもそう受けとめた可能性はある。安易に口にすべきではなかった。
がんでも大腸炎でも、治療の前提になるのは情報だ。
私は都内の病院で定期的にCT検査を受ける。その結果を知らされるのは毎月、最も緊張する瞬間だ。「野上祐さん、診察室にお入りください」。待合室にアナウンスが流れ、仕事を休んできた配偶者と一緒に診察室に入る。
膵臓がんに使える抗がん剤は多くない。外見に表れなくても血液検査で体力が落ちていたり、耐性ができていたりすれば、今使っているものも昨年の1種類に続いてあきらめなければいけなくなる。その兆しはないか。カチッ、カチッと主治医がマウスをクリックする音が響くなか、パソコン画面上のモノクロ画像を見つめる。