言っちゃったよ。
その前に私は、膵臓(すいぞう)がん患者として彼の番組に呼ばれている。そこで彼は、がん患者であるファンの「おっちゃん」の話をしていた。隣り合わせになったジャーナリストの堀潤さんらとの間では、乳がんのため29歳でなくなったデザイナー、広林依子さんの話にもなった。何人ものがん患者の顔が思い浮かぶからこそ、腹を決めて視聴者に問いかけられたのだろう。
私も問われている。
昨年9月の連載開始にあたり、朝日新聞デジタルで不定期に書いていた当時のタイトルにあった「がん」を「難治がん」へと「昇格」させた。膵臓がんのシビアな生存率を盛り込んではとの提案が発端だったことを考えると、「余命ゼロ」の発想と地続きだ。がんの大変さは患部や進み具合だけでは決められない。それを考えると、自分のがんは大変だとことさらアピールしているように受け取られるのは気が進まない。一方で、まだよく知られていない「難治がん」の存在を世間に知らせる意味はある。それに、タイトルにうたうことでコラムに関心を持ってくれる人が増えるならば悪くない。若い女性の写真を選んだデスクではないが、「人間って、そんなもんだ」と思った。
また、「がん患者っぽい」と思ってもらえそうなエピソードは書き漏らさないように気をつけている。これも読まれ方を意識したものだ。
記者の感覚からすると、ほかの人と同じならばあえて書かなくてもいい、となる。だが逆に、同じであることに意味がある場合もあるのだ。コラムに寄せられる感想を見て、そう思うようになった。
がん患者については、当事者にもそうでない人にも、「このようにもがき、苦しんでいるのでは」というイメージがある。自分の日々の思い、考えを読者の心に届けるには、「ぽい」要素の最大公約数も一緒に示すほうがいい。フィギュアなら、自由演技と対(つい)になった「規定演技」といったところだ。
たとえば、病院のトイレで臭気に吐き気を催し、鼻にハンカチをあてたとき。道ばたで気分が悪くなり、生け垣に頭を突っ込んで吐いたとき。「これで書ける」と感じる。