あの肖像は武田信玄ではない?(※写真はイメージ)
あの肖像は武田信玄ではない?(※写真はイメージ)
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 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した武田信玄の症例を紹介したい。

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武田信玄(1521~1573年)
【診断・考察】結核

 高尾から先、中央線が中央本線となり、笹子トンネルを抜けて甲府盆地に降りてゆくと春先には一面が桃の花盛り。遠くに雪を被った南アルプスと富士山、八ケ岳が見える。昔、甲府の病院出向前に、医局の先輩からいい所だけどひとつ気をつけねばならぬのは、武田信玄。病院の中でも外でも絶対に呼び捨てにせず、「信玄公」と言わなければいけないと嚇かされた。この話は嘘だったが、現在も人々の武田晴信(信玄)への思いは強い。

■戦国最強の武将

 武田晴信は大永元年(1521年)11月3日、新羅三郎(源)義光を祖とする甲斐源氏当主の長子として生まれた。21歳の時に家臣団とともに暴虐な父信虎を駿河に追放し、反抗する土豪や親戚衆を抑えて甲斐を固めて信濃に進出、諏訪頼重や小笠原長時を滅ぼし、さらに北信濃の村上義清を追い越後の上杉謙信と激戦を繰り返す。永禄3年(1560年)には、盟友であった駿河の今川義元が桶狭間に討たれると、駿河に侵攻、領国は甲斐、信濃、駿河、上野、遠江、三河と美濃の一部に及ぶ。元亀3年(1572年)、信長に傀儡とされた将軍足利義昭の教書に応じて西上を開始。徳川家康を三方が原において鎧袖一触に破るが、病を得て退却。甲府への帰路陣中に没する。享年53。

 甲陽軍鑑には「四月十一日未の刻より信玄公、御気相悪御座候而、御脈殊外速く候。又十二日の夜亥の刻には口中にはくさ出来、御歯五ツ六ツ抜けそれよりは次第に弱り給ふ。既に死脈うち申候につき信玄公御分別あり」。以下、三年の間、死を隠し国力の充実に努めるようにという有名な遺言が続く。侍医御宿監物は「肺肝に苦しむにより、病患たちまち腹心に萌して、安んぜざること切なり。華陀の術を尽くし、君臣佐使の薬を用いるといへども業病さらに癒えず、日を追って病枕に沈む」としている。文字どおり肺と肝の疾患とは必ずしもいえないが、内臓に慢性疾患があって体力が低下し死に至ったのだろう。

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