甲陽軍鑑では「六年前駿河にご出陣まへ」より信玄に「膈(かく)」の病があったとしている。膈とは、胸膈が痞(つか)えて飲食が下らない状態で、胃がん、食道がんなどである。

 ただ、6年前の永禄11年(1568年)から通過障害を来たすような悪性腫瘍があれば、元亀3年に京に向けて出陣できるとは考えられないため、消化性潰瘍や逆流性食道炎による食道狭窄あるいは食道痙攣など機能的疾患ではなかったか。この時期の信玄は、信濃平定は果たしたものの越後の上杉、小田原の北条との戦いは一進一退であり、また長子義信の自刃、長年の信頼を裏切って義信に謀反を示唆した飯富兵部の処刑、妻三条殿の死など強いストレスにあった。さしもの英雄もストレス性潰瘍を来たして不思議はない。

 上部消化管潰瘍の原因としては、ピロリ菌が重要だが、それだけでなく胃酸の分泌亢進と胃の粘液分泌や血流低下などがさまざまな程度で関与する。戦国大名の地位にあることは、交感神経の持続的な緊張状態を余儀なくし、血管収縮と白血球の活性化をもたらしたであろう。

■本当の信玄像は

 信玄の死因として、側室で勝頼の母となった諏訪の方が若くして死亡していることから結核(労咳)であったという説も有力である。近年、高野山にある長谷川等伯の描いた眼光鋭く体格の良い武将は実は能登畠山氏の肖像で、世田谷区にある九品仏(浄真寺)にある痩せた上品で神経質そうな武将(伝・吉良頼康像)こそ本当の信玄という説が提唱されている。晴信の若い時の像(持明院蔵)や父・信虎、子・勝頼の肖像はいずれも痩せ型であり、信玄だけ肥満体ということは考え難い。

 どうやら我々のイメージを変える必要がありそうである。

【出典】
1 加藤秀幸「武家肖像画の真の像主確定への諸問題」『美術研究』345号、1989
2 藤本正行『鎧をまとう人々―合戦・甲冑・絵画の手びき』吉川弘文館、2008
3 藤本正行「武田信玄の肖像―成慶院本への疑―」『月刊百科』308号、1988

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