大阪までは順調に引き返せた。だが、阪神間の交通は遮断状態だった。タクシーをつかまえ、「神戸に向かって行けるところまで行ってほしい」と運転手に告げ、どうにか兵庫県芦屋市付近まで辿り着いた。だが、ここから先は車で進めない。

「芦屋市内で1万円で自転車を譲ってもらい神戸の自宅に向かいました。日が暮れた頃、ようやく自宅に着きました。でも自宅マンションは倒壊……近隣の人の話ではうちの家族の安否は確認されていないと聞きました。後のことはすこし記憶が飛んでいるので。ごめんなさい」(同)

 倒壊した自宅マンションの整理や家族の葬儀、納骨を終えて、タツヤさんは神戸を離れることにした。

「新天地としてやって来た神戸です。でも震災ですべてを失ってしまい、毎日、この地で過ごすのは辛かった。ちょうど東京・霞が関への転勤話があったので。以来、神戸に足を踏み入れていなかった……神戸は19年ぶりですかね。息子の成人祝いです」(同)

 神戸市役所隣接する東遊園地には、犠牲者の名前が刻まれた「慰霊と復興のモニュメント」がある。2011年には、ここで石碑に刻まれた名前を手でさすっていたコズエさん(当時・68歳)に話を聞くことができた。

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