1906年(明治39年)からは、新聞の特派員として北海道に赴くなど北海道の新聞社を転々とする。妻のヒロとともに北海道で暮らしていた雨情だが、その時に生後わずか8日で長女を失う。そんなときに生まれたのが、童謡「シャボン玉」だといわれている。生まれてすぐ消えるシャボン玉と、生後わずかでなくなってしまった長女を重ね合わせたのかもしれない。

 雨情は新聞記者のあとも林業などの仕事に就くが、その最中でも詩を創作することをやめなかった。1915年(大正4年)には妻のヒロと離婚。ヒロに生家を残すと、自身は福島の芸者の置き屋で居候生活を始めた。その後、水戸で中里つると再婚する。中央の詩壇を改めて目指すが、この時の生活も決して楽ではなかった。雨情の孫である山登和美さんはこう話す。

「すごく貧しくてお金に困って、家財を質に入れていたよう。でも友達が来るとやっぱり振る舞うんだそうですよ、酒とか魚とか。今日食べる米もなくなっちゃうような、大変な時代だったと聞いたことがあります」

 そうしたなかでも詩の創作や詩集の出版を続けてきた雨情にとって転機となったのが、1919年(大正8年)。講演で水戸にやってきた詩人の西條八十に、雨情は人を介して何とか会うと、東京の雑誌への紹介を頼む。雨情の詩を愛読していた西條はこれを快諾してくれた。その年に創刊された子ども雑誌「金の船」で、雨情は本格的に童謡の創作活動を始める。ここで「十五夜お月さん」などを発表、さらに1922年(大正11年)に創刊した「コドモノクニ」でも「兎のダンス」など数々の名作を生み出した。

 雨情は教育の一環として童謡を広めるため、講演などを精力的に行い、時には自分で歌って、子どもたちと合唱することもあった。さらに雨情が童謡普及のために行ったのが、「振り」を付けるということ。野口雨情を40年間研究している、茨城大学名誉教授の佐々木靖章さんはこう説明する。

「雨情は、子どもは自分の言葉で童謡を作り、歌えば自然に体も動いてくると考えていた。そこで童謡集で、歌に合わせてどういう振付をするかを写真付きで掲載したんです」

 番組では当時掲載された、着物姿の少女が踊りを解説する写真も登場。今でこそダンスは学習指導要領でも必修となっているが、童謡教育の一環として舞踊を取り入れたのはかなり新しい試み。雨情の童謡にかける思いが伝わるエピソードと言えるかもしれない。

 このほかにも加藤さんは雨情の生家を訪ねるなど、その足跡をたどっていく。今回の旅を通じて、加藤さんは雨情に対してこんな印象を抱いたという。

「完成された人物では無く、雨情は小さな子供の時からの感情を忘れないで大人になった。しかし大人になっても、本当は大人になりたくなかった! そういう人物が雨情だったのかもしれません」

 古くから親しんできた童謡が、いったいどういった背景で生み出されたのか。番組をきっかけに、知ることができるかもしれない。

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