衝撃デビューの助っ人といえば、40代以上のファンが真っ先に思い出すのが、1987年に来日したボブ・ホーナー(ヤクルト)だ。
前年、ブレーブスで打率2割7分3厘、27本塁打、87打点の成績を残したが、選手の年俸高騰を抑え込もうとする各球団オーナーたちによる“FA選手締め出し作戦”のあおりを受け、どの球団とも契約できないまま開幕を迎えてしまう。そんな矢先、ヤクルトから年俸3億円の好条件で誘われ、日本行きを決意した。
そして、日本デビュー戦となった5月5日の阪神戦(神宮)で、5回に仲田幸司の外角低め速球を右翼席に叩き込み、“現役メジャー4番”の貫録を見せつける。さらに翌6日の阪神戦で1試合3発と大爆発。同9日の広島戦(佐世保)でも左右に2本のアーチを打ち分け、来日わずか4試合で6発、打率も6割3分6厘と格の違いを見せつけた。
“赤鬼”の異名で一躍人気者になったホーナーは、ヤクルト戦の観客数を46パーセントもアップさせ、“ホーナー効果”で親会社の株価まで上昇させた。
さらに5月17日、フィリーズ時代にワールドシリーズで4番を打った大洋の新外国人・レスカーノが「140キロの速球が怖くなった」という理由で電撃退団すると、「ホーナーの大活躍で自信をなくした」と報じられた。
このペースで本塁打を量産しつづければ、背番号の「50」を超えるのも時間の問題と思われたが、その後、四球攻めや腰の故障などから調子を落とし、出場93試合で31本塁打にとどまった。
そして同年オフ、3年総額15億円というヤクルトの提示を断り、年俸1億円でカージナルスと契約。過剰な取材攻勢や長時間の練習等、日本の野球環境になじめなかったホーナーは、たとえ金額が安くても、本国でのプレーを望んでいたようだ。帰国後、「地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった」と題した著書を出している。
日本中に“ホーナー旋風”が吹き荒れた翌年、今度は台湾からやって来た助っ人がブームを巻き起こした。