大学在学中の1665~66年にはペストが流行したためカレッジは閉鎖され、実家に戻って微積分の完成、分光の実験などに従事している。1667年大学に戻ると助手の地位を得て、研究費も支給されるようになった。1669年には、恩師の後任としてケンブリッジ大学のルーカス教授職に就き、幾何学、算術、天文学、光学、地理学の講義を担当したが、あまりに難解だったため学生がついていけず、欠席者が多かったという。1688年には、大学から選出された下院議員になったが、政治にはあまり興味がなく、執筆活動に従事した。

■「硬貨のギザギザ」発明

 大学者として功なり名遂げたニュートンだが、齢54にして新たな職に就いた。名誉革命によって王位についたウィリアム3世・メアリー2世が1694年にイングランド銀行を設立すると同時に、英国を代表する哲学者を造幣局監事に任命したのである。これには師匠の経済的窮状を見かねた弟子のチャールズ・モンタギュー卿の推薦によるものだった。

 ニュートンは当初、ただの名誉職と思っていた。だが、実は財政破綻寸前の英国経済に対する起死回生の役割を期待されてのことだった。当時の連合王国は銀本位制だったが、ヨーロッパ各国ごとに銀の価値が違い、流通する銀貨の1割以上が贋金(にせがね)でありイングランド国債の価値は額面の7割以下という状態に陥った。

 ニュートンはまず、銀貨周囲の削り取りを防ぐために簡単な方法を発明した。硬貨の周りにギザギザをつけるのである。このために、新旧すべての銀貨を回収し、鋳つぶして新たな新硬貨を発行した。この時に通貨の切り下げを断行して政府の負債を軽減。しかし、彼の改革は英国中の贋金づくりを敵に回すことになった。その中でもウィリアム・チャロナーなる詐欺師が最強の敵となった。

■“鬼の平蔵”ニュートン

 チャロナーは釘製造業から身を起こし、売春斡旋や賭博の胴元など裏社会業も営みながら、長期的に英国経済全体を食い物にしようともくろんでいた。他のケチな贋金製造者とは一線を画し、造幣局の役人を買収して自らの作品を公の経路から流通させたのである。この空前絶後の犯罪に気付いたニュートンはチャロナーを告発したが、逆に誣告罪(ぶこくざい)で告訴を受けることになった。

 怒り心頭に発したニュートンは情報提供をしたチンピラに酒をおごり、密偵を雇い、さらに容疑者を自ら尋問しついにはチャロナーを絞首台に送り出すまで手をゆるめなかった。鬼平こと火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵を彷彿とさせる活躍である。科学史や偉人伝で我々がイメージするニュートンとはかなり大きな隔たりがある。

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忘れてはいけないニュートンのもう一つの功績