「とはいえ、同じ鳥毛羽織でも、信長のデザインは抜きんでています。まず腰から上と下で、大胆に切り返している点。腰上は麻地に虹色に光る山鳥の黒羽根を一本一本差し込み、縫い付けています」(小山さん、以下同)
信長の家紋は「五つ木瓜」が有名だが、「揚羽蝶」も好んで使っていた。
「襟には、斑(まだら)の入った羽根を横並びに植え付け、縁取りに二段重ねの襞(ひだ)をつけています。この襞は、西洋服飾の影響でしょう」
こうした着物はどのように災害や戦火を逃れ、継承されてきたのだろうか。
「それぞれの家で大事に保管されていたものがほとんどです。信長の陣羽織は『臣下の溝口家が拝領し、大事に持っていた』という伝承があります。幕末まで越後国新発田藩を治めた大名家の溝口家から当博物館が購入しました」
信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉は、若者が着るような華やいだ服を好んだと伝えられている。
実際、秀吉所用と伝わる衣装には、色目が紅や萌黄、黄色のように美麗なものが見られるといい、「陣羽織 淡茶地獅子模様唐織(うすちゃじししもようからおり)」も、天下をとり、権勢をほしいままにした、当時の秀吉の姿が浮かんでくるような一品だ。
小山さんによれば詳しい来歴は不明だが、
「当時の最高級品だった唐織で、大柄の唐獅子模様が織りだされている。秀吉ぐらいの権力者でなければ、入手は難しかったと思われるランクのものです」
背中の中央に織りだされた唐獅子は、とりわけ見事だ。手間をかけて織りだされている。両脇をとじる千鳥掛けの紐は紅、襟はヨーロッパからきた猩々緋(しょうじょうひ)の羅紗(らしゃ)。色合いも華やかな一点物は、今で言えばイタリアやフランスのオートクチュールの最高級品とも比較にならないぐらい、豪奢(ごうしゃ)なものだという。
残る三英傑の一人、徳川家康が着用した「胴服 染分平絹地雪輪銀杏模様(そめわけへいけんじゆきわいちょうもよう)」(重要文化財)には、宝暦5(1755)年に記された由緒書がある。「石見(いわみ)銀山見立て役の吉岡隼人が徳川家康より拝領した」と伝えられている。背景には、家康が慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで勝利し、佐渡金山と石見銀山を直轄領とした経緯があるという。