そして「麒麟」や「太平記」の舞台である中世は、そんな人間の業がむき出しになる時代だった。源平の合戦に始まって、将軍の相次ぐ暗殺、南北朝では天皇家すら分裂し、やがて応仁の乱から戦国の下克上へ……。秩序は乱れ、個人が欲望のままに動き、危険だが自由もあって、生々しい人間性が垣間見える時代でもある。
池端は「太平記」で中世のど真ん中を描いたあと、今回、その終わりに着目した。泰平の世に現れるという架空の動物・麒麟は、その象徴だ。ただ、麒麟がきたあとの近世、すなわち江戸時代は平和だが、大河ドラマ向きではない。せいぜい、映える題材は忠臣蔵くらいだろう。
というのも、人気や実力、個性を持つ役者たちが一年にわたって競演する大河はそれこそ、人間の業がむきだしになって劇的にぶつかりあう時代に最もふさわしいからだ。ヒット作の多くが中世、それも爛熟期というべき戦国時代に集中しているのはそのためである。
では、戦国と並んでとりあげられがちな幕末はどうかというと、数字的にはやや弱い。これはおそらく、現代的イデオロギーという問題の影響を受けやすいからだろう。舞台が今に近い分、たとえば世界における日本のかじ取りはどうすべきかといった問題を扱わなくてはならず、理屈っぽくなりがちだ。そこが非日常的な娯楽としての純度をうすめることにもつながってしまう。
昨年、宮藤官九郎が脚本を手がけた「いだてん~東京オリムピック噺~」が一部の熱狂にとどまったのも、世界平和や人種差別、女子のスポーツ参加といった現代的なテーマに寄りすぎたことが一因だ。86年に『日本テレビドラマ史』(映人社)を著した鳥山拡は大河の変化について「『お説教』が現代性と錯覚された作り方になった時は、興味をなくした」と書いたが、現代的イデオロギー、すなわちポリコレ感覚を持ち込みすぎると、視聴者の好悪が分かれることになる。
そこへいくと、同じ劇団系の脚本家でも、三谷幸喜はさすがだった。理屈っぽくなりがちな幕末モノの「新選組!」も、登場人物のキャラを際立たせて痛快娯楽大作にしてみせたし、戦国モノの「真田丸」においては大河的コメディーの限界に挑戦して、さまざまな層を喜ばせることに成功した。