専称寺山門
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高幡不動尊(金剛寺)
高幡不動尊(金剛寺)
高幡不動尊の土方歳三像
高幡不動尊の土方歳三像

 ようやく日常が戻ってくるようだ。まだまだ気を緩めるわけにはいかないが、それでも息をつめて暮らす生活からは解放された。今回は疫病が原因であったが、世界には戦争や紛争などで日々このような緊張感を強いられ続けている人たちがまだまだたくさんいる。それを考えると平和な日本に住んでいられることに今は感謝しかない。

【写真】高幡不動尊の土方歳三像

●新選組一番隊組長・沖田総司の命日

 そんな日本にも過去には様々な苦難の時代があった。そんなに昔の話ではない。震災で被害にあわれた地域の方々もそうだし、先の世界大戦後や、もう経験された方々もいなくなったであろう江戸時代から明治時代にかけての転換期の混乱も、さぞや大変な生活を強いられていたに違いない。そんな時代を思い浮かべて、ふと思い出した。今日が沖田総司(1842~68年)の亡くなった日(旧暦)だということを。

 沖田総司は、江戸時代末期に活躍した「新選組」の一番隊組長だった人物だ。新選組といえば、京都での逸話が多いので、関西に由縁のある人たちばかりと思いがちだが、実は隊長の近藤勇も副長の土方歳三も、そして沖田も武蔵野国(東京)の出身である。もともと将軍・徳川家茂の上洛(1863年)警護のために組織された浪士組が前身のものだから、当然隊員の募集も江戸(東京)で行われた。このため新選組で有名な上記3人のお墓はともに東京にある。正確には、土方や近藤には各地にいくつもあるのだけれども。

●2つの沖田終焉の地

 今でこそ新選組は普通に語られ、人気者のグループとして研究されたりファンクラブもあるが、明治時代に入ったころは嫌われ者として扱われていた。人斬り集団としてのみ認識されていた時代もあった。この風潮が改まったのは昭和になってからで、小説や映画、ドラマによって印象は一変した。新選組としての活動は箱館戦争終結(1869年)までの6年弱になるのだが、沖田総司は体を壊し、結局鳥羽・伏見の戦い(1868年)以降には参加できなくなった。 

 肺結核に侵された沖田の治療をしていたのが、家茂の侍医でもあった松本良順の仮住まい宅だと言われていて、これが現在の浅草・今戸神社にあったことから境内には「沖田総司終焉の地」の碑が立っている。また、のち良順が幕府軍から招集されたため、千駄ケ谷近くにある植木屋・平五郎宅に沖田の養護を依頼、そこで最期を迎えたという逸話もあってこの場所にも新たに看板が立てられた。ドラマなど映像ものでは平五郎宅で沖田が最期を迎えるシーンが多いようだ。どちらで亡くなったにせよ、余命少ない沖田は幾多の人から命を狙われており、はっきりと場所が特定できるような書付などが残されていなかったということだろう。

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