辻内同様、持てる力を発揮できずに終わった“金の卵”が、92年の阪神のドラ1・安達智次郎だ。松井秀喜の外れ1位ながら、甲子園にも2度出場した最速147キロ左腕は、「将来のエース候補」と鳴り物入りの入団だった。
1年目、ウエスタン初先発の試合(5月11日・近鉄戦)で6連続三振を記録するなど、大物ぶりを発揮し、先発ローテ入り。4勝7敗、防御率3.36の成績を残した。だが、2年目に制球力を重視するコーチからフォームを直され、自慢の速球がすっかり影を潜めてしまう。一度崩れたフォームは元に戻らず、98年に外野手転向も打率2割3分6厘、0本塁打。同年オフに戦力外通告を受け、打撃投手に。
翌99年、野村克也監督の勧めで投手に復帰するも、0勝1敗、防御率4.40と結果を出せず、一度も1軍で登板できないままユニホームを脱いだ。その後、神戸市で焼酎バーを経営していたが、16年に41歳の若さで亡くなったのが惜しまれる。
阪神といえば、81年の1位・源五郎丸洋を思い出すファンも多いだろう。源氏の末裔であることに由来するインパクト十分の珍姓に加え、阪神では14年ぶりの高卒投手のドラ1とあって、ファンの期待も大きかった。
翌82年、源五郎丸はキャンプ終盤に1軍に合流し、3月3日、甲子園で行われた有料紅白戦で紅組の先発として実戦初登板。4番・掛布雅之を詰まった中飛に打ち取るなど、期待どおりの好投を見せた。
ところが、体力づくりのため2軍に戻された翌4日、ベースランニングの最中に右大腿部二頭筋部分断裂の重傷を負う。これが致命傷となり、1軍登板のないまま86年に現役引退。まだ体が十分できていないのに、有料紅白戦の“客寄せパンダ”にされたツケは、あまりにも大きかった。
1軍出場ゼロのまま退団したが、海の向こうで努力の末、メジャーリーガーになり、7年後にNPB復帰という異色の経歴を持つのが、現日本ハムの村田透だ。
07年の大学・社会人ドラフトで巨人に1巡目指名され、2年目にイースタンで26試合に登板も、わずか3年で戦力外通告。その後、12球団合同トライアウトでの投球がインディアンスのスカウトの目に留まり、マイナー契約に漕ぎつける。14年に3Aで5勝を挙げるなど、着実に力をつけ、15年にメジャー昇格。1試合のみの登板に終わったが、同年はインターナショナルリーグ最多の15勝を挙げた。