ローマのスペイン広場とキーツ・シェリー記念館(写真/gettyimages)
ローマのスペイン広場とキーツ・シェリー記念館(写真/gettyimages)
ジョン・キーツを描いたイラスト(gettyimages)
ジョン・キーツを描いたイラスト(gettyimages)

『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は、シェークスピアにつぐ詩人ともいわれるジョン・キーツを「診断」する。

【イラスト】ジョン・キーツはこんな人

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 春からのコロナウイルス・パンデミックで仕事のみならず、観光も出かけにくくなった。一時期、家族と毎年のように出かけていたローマはサンタマリア・マジョーレ近くのペンシオーネの気の良い女将から「また来てくださいね」とメールを頂いたが、いつになったら行けるか予定が立たないのが残念である。

 さて、イタリアとくにローマは、日本の若い女性に人気のある観光地である。彼女たちの聖地、ブランドショップの並ぶコンドッティ通りやカフェ・グレコに面したスペイン広場は世界中の観光客で賑わっている(今年はどうなるかわからないが……)。この広場は オードリー・ヘップバーンが映画「ローマの休日」でアイスクリームを食べながら歩くシーンで有名だが、その右側に英国においてシェークスピアにつぐ詩人として名高いジョン・キーツが最後の数カ月を過ごした家(現在は博物館)がある。

■医師修行から詩人へ

 キーツは1795年10月31日に、貸家業を営む父トマスと母フランシスの間に生まれた。社会的階級は中の下ぐらいだったが、経済的には母の所有する旅館の経営が順調で裕福だった。しかし、9歳の時の落馬事故による父の死、母の再婚によってミドルエセックス州エドモントの祖母に預けられると、トラブルの多い問題児となっていく。14歳の時に再婚相手と離婚した母親が帰ってきて再び一緒に暮らし始めるが、母は結核に冒され翌1810年3月に亡くなった。

 多くの研究者はこの間、自宅で母を看病している時にキーツ自身が結核に感染したと考えている。キーツは1812年には学校を中退し、開業医トーマス・ハモンド家の書生となった。ハモンドは亡き母と祖母から遺産管理人に指名された地元では有名な外科医だったが、酒乱の気があり、キーツとは相容れなかった。彼は、酔っ払いの師匠に見切りをつけて、正統的な医学教育を受けるべくロンドン大学に入学、1815年に開業薬剤師免許を取得、翌1816年には21歳で医師免許を取得した。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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