キーツは英国人としては小柄だったが、秀麗な容姿で温かい人柄とユーモアのセンスがあるため、会うひと誰にも好感を抱かせたという。そのために病院をやめた時には、同僚や患者さんが大変残念がった。医学のキャリアを続ければ多くの患者さんに慕われる優れた医師になったに違いない。一方、キーツはその作品に人体や疾患を取り上げることはなく、一般には医学がキーツの詩作に与えた影響はほとんどないとないとされている。
しかし、英国の医史学者H.スミスは、感覚描写や厳密な形容詞の選び方に医学教育の影響が見られるとしている(Rev Infect Dis 1984;6(3):390-404)。彼が詩人として活躍したのはわずかに2年半にすぎず、もし長命すればさらに優れた詩作を残したであろう。あくまで仮定に過ぎないが、19世紀半ば以降、筆者の専攻する微生物学や病理学などこの時期に急激に発達した医学と文学を結びつける作品を残した可能性もある。
■結核が性欲を亢進させる「迷信」
家族歴、臨床経過、剖検結果から、キーツの死因が結核であることについては間違いない。しかし、いつ結核に感染したかについてはわからない。1810年、母親をあるいは1818年に弟トマスを看取ったときのいずれかと思われるが、喀血などの症状が出たのは1819年以降である。その前の1818年のスコットランド旅行の後にキーツが「少量の水銀」を常用していたことが記録に残っているため、彼が梅毒や淋病(梅毒の初期と考えられていた)の治療や予防に服用していた可能性もある。当時、結核菌はまだ発見されておらず、結核が性的放縦さの結果、あるいは結核自体が性欲を亢進させるという迷信があった。結核に倒れた高級娼婦を描いたデュマの「椿姫」は、この考えによるものである。
キーツ自身、「ローマで死の床から友人にあてて、自分がブローン嬢に対する肉体的欲求を抑えてきたために結核に罹ったが、この欲求を遂げたならば消耗のあまり、やはり結核に罹ったであろう」という矛盾した手紙を書いている。
結核菌の発見は60年後(1882年)のコッホを、さらに結核に有効な抗生物質であるストレプトマイシンの発見は1950年を待たねばならない。医者自身が病を得た時にあたら病気の知識や実際の治療経験があるために、一般の患者さん以上に苦しむことがある。19世紀、英国では病気が神罰や祟りということをさすがに信じる人は(特に医師では)いなかっただろうが、当時の最新の医学教育を受けたキーツにしても、性と結核を結びつけるという時代のパラダイムからは逃れ得なかったのである。
◯早川 智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など
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