それにしても、学生たちの考える自由の条件はというと、ちょっと変わっている。

 自由を実現するために必要なことを問うと、こんな答えが返ってくる。

「スクールバスの本数を増やしてほしい」
「休憩を増やしてほしい」
「授業を減らしてほしい」

 何もかもが、「ほしい」なのである。

 どうやら、「他者が、誰かが自分に自由を与えてくれる」と、学生たちは誤解しているようだ。大学という場は、どうすれば自由を手に入れられるかということを、自分の価値観で判断して行動する場であるはずなのに。

 個人が中心になる時代には、個人が尊重されると同時に、自由だって個人で獲得しなければならない。それは、集団の戦いよりもある意味で難しく、誰かが与えてくれるものではないはずなのに、なぜか期待して待っている。

「誰か私を自由にして」って、なんでやねん!

 自由が必要であれば、自分で獲得するしかなく、自分自身の意識で自由にするしかない。 日本に来た当初の私は、この国で外国人として暮らすのはとても不自由だと感じていた。自分を自由にするにはどうすればいいか、自分で考えた。そして、外国人を支援する組織を立ち上げ、「ワールドフェスティバル」を開催して外国人とつながった。自ら、不自由を自由に変える努力をした。

 自由というのは、もらうものではなく、誰かが与えるものでもなく、自分で手に入れるものである。さらにそれに伴う責任を負う。自由には自治が伴うということである。それが、精華が掲げる「自由自治」である。

○ウスビ・サコ Oussouby SACKO/1966年、マリ共和国・首都バマコ生まれ。中国留学を経て91 年に来日し、京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。京都精華大学人文学部教授などを経て、2018 年4月、学長に就任。研究テーマは「居住空間」「京都の町家再生」「コミュニティ再生」「西アフリカの世界文化遺産(都市と建築)の保存・改修」など。日本の教育や社会の問題点を鋭く指摘した『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』(朝日新聞出版)が発売中。