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アフリカ出身者として初めて日本の学長になった、マリ共和国生まれのウスビ・サコ京都精華大学長は、大学で「自由論」という科目を担当し、学生たちに自由の意味を問う。「他者が、誰かが自分に自由を与えてくれる」という学生たちの考え方に、「なんでやねん!」と鋭い突っ込みを入れる。現在発売中の書籍『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』(朝日新聞出版)から抜粋して紹介する。
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「自由」とは何か。
これは、私が最も大事だと考えている問いの一つである。
学長になって、新しく「自由論」という科目が共通教育としてつくられ、私が担当している。「自由とは」という問いに対して、学生たちが考える時間だ。
この授業を担当した背景には、京都精華大学が語ってきた「自由自治」を理解し、自由を捉え直す機会の一つにしたいという思いがあった。
京都精華大学全体が、徐々に徐々に「自由=無責任」にシフトしていないか。「ここでは好きなことができるんだ」「好き勝手にしていい」「何でもええやん」と。
それが、精華の自由なのか?そこが誤解されたままで、精華のよさを維持することはできないのではないかと、私は思っていた。
大学ができた一九六〇年代は、「集団的自由」が追求された時代だった。
集団的自由とは何かというと、「学生」の自由であり、「黒人」の自由や「マイノリティ」の自由。いわゆる「マス」の自由である。
誰かが誰かの自由を奪っている、という現状に対して、自分自身は考えなくても、「みんなで自由を求めるぞ」と団結していればよかった。
つまり、集団がパッケージで自由を獲得し、その集団の中に入りさえすれば、自分は考えなくても戦えるし、「何かやっている」という気になれた。
今はグローバル化の波の中で、集団よりも個が中心になっていく時代へと変化している。個人が主体になってきた中で、自由や解放というものが、全て自分自身に依存する社会になっている。強者や支配者がいて、支配者に対して運動を起こせば自由になった時代と、今は違うはず。自分を自由にするのも、不自由にするのも、全て自分。自由の位置づけは、変わってきている。
「自由論」の授業では、自由のために戦ってきた人たちもいれば、自由を求めて運動してきた人たちもいるという歴史的事実を共有する。その後ワークショップをして、みんなで考える。
「自由」に、私は答えを持っていない。