■言葉の裏に思いを託す文化を作り上げてきた「日本」

 日本は、アメリカの英語のようにストレートな表現ではなく、言葉の裏に思いを託す文化を作り上げてきました。古文の和歌では虚しいといいたいとき、安直に「虚しい」という言葉を用いず、美しい花が虚しく色あせていく様子や夜の空に月が傾いていく様子で表現したりします。こうして、言葉に別のものを重ねて表現することで、「虚(むな)しい」の中でもどのような虚しさなのか、深い心模様を表すことができます。

 学生から文学を取り除くということは、日本語ならではの表現の豊かさ・美しさの伝承を断ち切って、古くから築き上げてきた文化を衰退させることにつながるのではないでしょうか。

 読んできた小説の数が少ないとか、難しい文章を読んだことがないという経験は、その後の人生で「本を読む」ことに対するハードルを上げてしまうことでしょう。

 高校の教科書にある過去の名作、たとえば梶井基次郎の『檸檬』や、森鴎外の『舞姫』なんかは、文章のレトリック自体が難解な上に、何を言いたいのかもやや分かりにくい作品です。しかし、こうして後世に残っている名作は、残っているだけの理由があるわけです。

 このような小説を、大人になってから1人で読もうとしても、「どのように読んでいくのか」が分からなければ、なかなか難しいのではないかと思うのです。つまり、高校レベルの小説を読んでいない分だけ、名作といわれる作品を読む機会を失うわけで、それはその人の人生から 豊かさを奪うことになるかもしれません。

■レポートの書き方は、大学に通ってから身につければいい

  国語の教科書を実用文で埋め論理力を固めるべきだという人たちは、今の学生たちは「レポートも書けない」「文章の構成ができない」ため、小説の時間を削ってでも情報を処理する能力を鍛えたほうがいいと主張しているそうです。

 彼らの考えでは、小説を要約したり、重要な部位を抜き出したりすることは、文章の構成力を高めることにはつながらないのか疑問です。それに、そもそも高校生は大学生と比較して「研究して文章にまとめる」という作業の機会自体が少ないため、レポートの書き方こそ、高校ではなく大学に通ってから身につければいい分野ではないのでしょうか。

 新学習指導要領に基づく大学入学共通テストのプレテストでは、生徒会の規約について高校生たちが話し合う会話文や、駐車場の契約書を読ませるという問題が出たそうです。

 説明書や契約書のように、ただ額面どおりに言葉を受け止める実用文を読む力は、高校時代の小説を削ってでも得るべきものでしょうか? また、契約書を読むことが文章を構成し、レポートを書く能力に直結するものでしょうか?

 高校の教科書に載っている夏目漱石の『こころ』で、「先生」の奥さんが皮肉って言ったセリフがあります。「あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が」。

 果たして、国語という学問を追求する人たちにとっては、論理力も磨くために文学作品を削るという理屈は、理にかなっているのでしょうか?

杉山奈津子(すぎやま・なつこ)/ 1982年、静岡県生まれ。東京大学薬学部卒業後、うつによりしばらく実家で休養。厚生労働省管轄医療財団勤務を経て、現在、講演・執筆など医療の啓発活動に努める。1児の母。著書に『偏差値29から東大に合格した私の超独学勉強法』『偏差値29でも東大に合格できた! 「捨てる」記憶術』『「うつ」と上手につきあう本 少しずつ、ゆっくりと元気になるヒント』など。ツイッターのアカウントは@suginat

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