半世紀にわたり写真文化を支えてきた「銀座ニコンサロン」が10月20日の展示を最後に閉館する。今後は新宿の「ニコンプラザ東京」内にリニューアルオープンするのだが、銀座からニコンサロンが消え去るのは寂しい限りである。1992年から25年間、ニコンサロンの選考委員を務めた写真家・土田ヒロミさんに聞いた。
――多くの写真家にとって思い出深い特別な場所だった銀座のニコンサロンが閉館します。
残念ですよ。日本における表現の発表の場というものは伝統的に銀座が中心で、文化的なメッセージといえば銀座だった。パリだったらあの地区とか、やはり場の持つ力みたいなものがあるんです。銀座から新宿、さらには原宿へと発信地は時代とともに変わりますが、もともとは銀座でしたから。
ニコンサロンの創成期と写真界の位置づけ
――ニコンサロンは68年、銀座中央通りに面した松島眼鏡店3階に開館しました(その後、銀座のなかで2回移転)。設立の経緯から教えていただけますか?
ニコンサロンの設立については、日本光学工業(現ニコン)が運営委員であった写真家・三木淳さんに相談して、ニコン創業50年、ニッコールクラブ結成15年の記念事業として決めたと思います。
展示会場の運営のすべてを写真家に任せて、会社はいっさい口を出さない、というニコンのスポンサーシップはすばらしかった。この三木さんのコンセプトには重役たちも逆らえなかったというか、逆らう人がいなかったというべきかな。
日本光学は戦前の設立当初はカメラメーカーではなかったんですよ。戦後、カメラを作り始めて、「ニコン」が世界ブランドに成長していけたのは三木さんの存在が大きかった。
――三木さんは朝鮮戦争(50~53年)のとき、アメリカの写真週刊誌「ライフ」の写真家たちと日本光学の仲を取り持ち、これをきっかけにニコンの名が一気に世界中に広まりました。
そんなわけで、三木さんは社内人事も握るくらいの力を持っていたという噂もありました。具体的にニコンサロンを立ち上げていくとき、中心にいたのは木村伊兵衛さんだったと思います。木村さんの下に三木さんの働きがあったということでしょう。
74年に木村さんが亡くなられた後、三木さんが中心になったというか、三木さんの人選で運営を担う選考委員が決まるようになっていったと聞いています。とにかく、よくも悪くも三木さんというオーガナイザーが長く君臨し、そういう三木さんの体質がずっと残ったといえますね。
――設立当時、写真界でのニコンサロンの位置づけはどのようなものだったのでしょうか?
68年というと、東大紛争に象徴される「政治の季節」でしたから、時代は、まだ報道写真の比重がとても大きかった。写真を「コマーシャル」と「報道」に二分することで足りた写真状況がありました。
でも、写真というメディアが単純に二分できなくなる時代がすぐそこまできていたという大状況にもあった。写真表現が複雑になって、個人的な表現が大きなウエイトを持ってきた時代ですね。そういう写真風土というか、文化状況が現れてきた変わり目の時期だったんです。
現れてくる個人的な表現をどうすくい上げるかは写真界全体としても重要なことで、例えば、写真雑誌「カメラ毎日」のデスク、山岸章二さん(後の同誌編集長)は、「アルバム」などというページをおこして、そんな表現をとり上げて、表現幅を広げようとする努力をしていました。
そのタイミングにニコンサロンが生まれて、新しい写真表現を喚起していった。そうゆう意味では、写真の変容期にニコンサロンの果たした社会的な役割はとても大きかったと思います。