「食べたくないなら、食べなくていい!」

 皿を取り上げ、スパゲティを流しにぶちまける。この頃になると、父親が帰宅する。

「お父さん、この子、スパゲティが食べたいというから作ったのに、『こんなもの食えるか!』って捨てちゃったのよ。ねえ、お父さん、この子、殴って」

 父はズボンからベルトを取り出し、息子を打つ。食事ばかりか家族旅行でも、母親による「冤罪」が作られ、父親が“刑”を執行するのが日常だった。

 一橋大入学のため小学生でも、夜中2時までの勉強が強いられた。嫌がると、「お母さん、死んでやるからね」と脅された。

「幼い子にとって親の死は、自分の死より恐ろしい。抵抗する術はなく、どんな理不尽でも受け入れていました」

 無事に一橋大に合格したが、母親からは「おめでとう」すらなく、返ってきたのはこの言葉。

「おまえは明日から、英語を勉強しなさい。私は一橋の英語のレベルをよく知っているから」

 報酬なき人生だったと、池井多さんは振り返る。大学4年次、大手企業の内定を手にしたが、身体が固まりアパートから出られなくなった。

「ここまでだと思いました、母の言うことを聞くのは。就職したら母の虐待を肯定してしまう」

 世は1980年代半ば、ひきこもりという概念がなく格好がつかないと海外へ出た。バックパッカーをしながら安宿にひきこもる「そとこもり」を経て、50代後半まで紆余曲折はあったものの、うつで働けない状態だ。

「今でも毎朝、母親への怒りで目が覚めます。うつの原因は、母親への怒りです」

 20年ほど前、家族療法を提案したが、母親は自身の虐待行為を全面否認。以来、実家とは音信不通のままだ。(ノンフィクション作家・黒川祥子)

AERA 2020年10月19日号より抜粋

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